12.拳で分かり合う
不打不相識
私は訓練教室の中で席を見つけて座り、依然として身を強張らせ、目の前の男に対して警戒を怠らなかった。さっきまで殴り合っていたというのに、彼はまるで何もなかったかのような顔で落ち着いている。
「はじめましてだな。」
彼は穏やかな口調で話しかけてきた。まるで先ほどの喧嘩がなかったかのように。
「……」
私は黙ったまま、目を離さずに彼を警戒し続けた。どうにも腑に落ちない。
そのとき、隣にいた誰かが口を挟んだ。
「どうやらボスはこの新入生を気に入ったらしいな。」
「お前がボスなのか?」
ついに私は口を開いた。まだ信じられない気持ちだった。
「うん、大学都市じゃみんなそう呼んでるよ。」
彼は頷き、薄く笑った。
「???」
私はますます困惑した。目の前の男は、私が想像していたような「ボス」とはまったく違って見えた。
彼は私の戸惑いを見抜いたように軽く笑い、隣の取り巻きに向かって言った。
「この新入生のこと知ってるやつ、いるか?」
周りの者たちは顔を見合わせたが、誰も答えず、普段は横柄なザコですら黙り込んだ。
「……じゃあ誰か姉貴を呼んできてくれ……いや、別れたんだったな、もう邪魔するな。」
ボスは気だるげに手を振り、その話題を打ち切った。
取り巻きの一人が口を開いた。
「下級生のところに万事屋がいたはず。情報はそいつが一番早いだろう。」
彼らがランディにちょっかいをかけようとしているのを聞いて、私は慌てて口を開いた。
「オットー家の二代目だ。ただオットーと呼んでくれ。」
「オットー家?」
「南の教養ない連中のか?」
「オットーって、城主のことじゃないか?」
周囲の者たちは私の素性についてあれこれ言い始めた。まるで私がそこにいないかのように、失礼なコメントを平気で口にする。
私が何か言い返そうとしたその時、ボスが突然手を振った。
「うるさい。出て行け。」
騒がしかった連中はバタバタと訓練教室を出て行き、空間は一気に静まり返った。明るい照明が教室を照らし、弾力のある床が柔らかな光を反射する。さっきまでの喧騒と敵意が嘘のように消え、空気の重さも和らいだ。
「これから二人のときは、俺のことは“ヴォザルト(Volsat)”って呼べ。」
隣から声がして、彼は穏やかで友好的な口調だった。
「本名か?」
私は冷ややかに返した。さっきまで拳を交えていた相手を、簡単には信用できない。
「ああ。」
私は視線を落とし、この突然の友好が信頼に値するかを心の中で計っていた。やがて私はそっと手を差し出し、彼の手を握った。少しのためらいはあったが、その好意に応えることを選んだ。
彼は微笑み、顔の血をぬぐいながら、楽しそうに言った。
「さっきの最後の技、あれってマークィス城で習ったのか? 完全にやられたよ。」
彼の嬉しそうな様子は、顔を腫らされていることなんて全く気にしていないようだった。その気さくな態度に、私の警戒心も次第にほぐれていった。
私は頷き、さっきの戦いについて語り始めた。彼は私の一つひとつの動きに興味津々で、どこでその技を覚えたのかを嬉しそうに尋ねてきた。
初対面で殴り合いまでしたというのに、彼にはどこか懐かしいような、不思議な親近感を覚えた。話をしているうちに、まるで長年の友人のように話が弾み、空気はどんどん和やかになっていった。
「お前の戦闘の成績が100点なのは、お前の実力がその程度ってこと。俺の100点は、上限がそれしかないからなんだよ。」
彼は笑いながら言った。その口ぶりには自信と誇りが隠しきれずに滲み出ていた。少し傲慢にも聞こえたが、彼の立ち技のスキルは確かに、私が見た中でも随一だった。
「100点のやつが、俺に地面に叩きつけられるか?」
私は負けじと挑発混じりに返した。
彼は大笑いしながら、私の言葉に満足そうに頷いた。
「面白い!今後は一緒に練習しようぜ。お前の代でお前と渡り合えるやつなんていないだろ?」
「いいよ、ちょうど練習相手が欲しかったところだ。」
私は快く答えた。次の稽古が楽しみになってきた自分に驚いた。
しばらくヴォザルトと語り合ったあと、彼は立ち上がって笑いながら言った。
「今日はこれで終わりにしよう。また今度一緒に練習しようぜ。」
彼の口調は変わらず軽やかで、まるで古くからの友達との別れのようだった。
私は頷いて同意した。
「これからはラフィエルって呼んでくれ。」
「いい名前だな。じゃあ俺はそろそろ行くぜ。彼女さんが心配してるぞ?」
彼は目の端で笑いながら教室の外をちらりと見やった。
その視線の先を追うと、フィクソが窓の隅から中の様子をこっそり覗いていた。私が否定する間もなく、ヴォザルトはすでに歩き出していた。
教室には私ひとりが残り、フィクソが慌てて駆け寄ってきた。心配そうな表情で私を見つめる。
「大丈夫?一体何があったの?」
その声には焦りがにじみ、彼女の目は私の傷を隅々まで確認していた。
「ちょっとしたスパーリングだよ。」
私は軽く答えた。できるだけ深刻に聞こえないように。
彼女は納得がいかない様子で目を丸くし、バッグから救急セットを取り出した。中から薬草の粉末の小袋を取り出し、私の腕の擦り傷にそっとかけた。
「これは断血草よ。」
彼女はそう言いながら、細かい彫刻が施された小さな杖を取り出し、優しく振った。
粉末が傷口に触れると、じんわりと温かさが広がり、彼女の杖の魔法によって傷がみるみる癒えていった。
その不思議な温もりに痛みが和らぎ、私はその魔法のような変化に目を見張った。しかし、彼女は真剣な表情のままで、気を緩めることはなかった。
彼女のそんな真剣な顔を見て、私は思わず微笑んでしまったが、彼女はまったく気づかず、傷の処置に集中し続けた。粉末をかけ、杖を振る、その作業を丁寧に繰り返し、すべての傷が完治するまで続けてくれた。
「服を脱いで。ちゃんと見せて。」
彼女の真剣な顔つきに思わず吹き出しそうになったが、私は首を振った。
「これで十分だよ。」
腫れていた目元はかなり良くなり、視界もはっきりしてきた。
私はそっと彼女の手を引いて隣に座らせ、笑いながら言った。
「治癒術(Heal)、ずいぶん手慣れてるな。」
「ヒーラーは(Healer)、稼げる職業だからね。」
彼女はそう言いながら額の汗を拭った。表情は落ち着いていたが、眉の間には疲労の色がにじんでいた。
この世界の治癒魔法は、伝説のように万能で奇跡的なものではない。傷を一瞬で癒すこともできなければ、重傷者を即座に治すこともできない。むしろ「回復補助術」と言った方が正しい。
治癒魔法には主に二つの要素が必要だ。一つは薬草、もう一つはヒーラー自身の体力。さらに患者の体力すらも回復の効果に影響を及ぼす。
例えば「断血草」のような薬草は、丁寧に粉末状にされ、魔法の杖を使ってその薬効を引き出す。そうして初めて、傷が少しずつ癒えていく。
だが、それでも決して楽なプロセスではない。施術ごとに大量の体力が必要であり、ヒーラーには高度な集中力と経験が求められる。薬草と魔法の力を最大限に引き出すには、エネルギーの流れを巧みに操る必要がある。
患者側もまた、癒しのプロセスを支えるだけの体力がなければならない。さもなければ、回復どころか逆に負担をかけてしまい、効果も期待できなくなる。
そうして治癒術は、英雄譚のように杖を一振りで蘇るような魔法とは程遠く、体力と精神力の両方を削る、手間のかかる共同作業となるのだ。
その日を境に、私の学園生活は充実し、忙しいものとなった。授業では、フィクソの影響もあって、私はより集中して学ぶようになり、以前のように上の空になることはなくなった。
放課後は、ヴォザルトとの実戦訓練を通じて、戦闘技術を磨き、自分を常に高めていった。
ある日、訓練のあと、私たちはぐったりと床に倒れこみ、息を整えていた。床は汗で湿っており、疲労と笑いが入り混じった空気に包まれていた。
「ボス、本当に実戦経験なしであの実力かよ?」
私は息を切らせながら尋ねた。いまだに彼の強さには驚かされていた。
ヴォザルトは得意げに口元を緩め、いつもの調子で笑った。
「だから言ってるだろ、天才なんだよ、俺は!ははは!」
その笑い方は冗談めいていたが、隠しきれない自信と才能は誰の目にも明らかだった。
横から取り巻きが口を挟んだ。
「子牛、お前がボスに一発入れたってだけでもすげーよ!俺なんかタイマンで挑んでも、髪の毛一本触れなかったんだから!」
それを聞いた私は少し誇らしくなった。あの「猛牛のごとき突進」がヴォザルトに当たった瞬間から、皆は私のことを「子牛」と呼ぶようになったのだ。
私は笑いながら眉を上げた。
「俺が“鼻を歪めてやる”って言ったの、冗談じゃなかったんだぞ。」
ヴォザルトは鼻を触って、わざとらしく苦しそうにした。
「ふざけんな、マジで痛かったんだからな!」
そのやり取りに皆が笑い、場の空気は一気に和んだ。
誰かが提案した。
「喉乾いたなー。ボス、ジュース奢ってくれよ!」
「おう、行くぞ!」
ヴォザルトが勢いよく手を振り、一同は楽しげに訓練室をあとにした。
食堂へ向かう道すがら、私はすっかりこのグループに馴染んでいた。皆で他愛のない話をしながら笑い合い、和気あいあいとした空気が心地よかった。ヴォザルトとの訓練を振り返りながら、技術だけでなく、信頼できる友人を得た実感があった。
食堂が近づくにつれ、私は自然と満ち足りた笑みを浮かべた。心の中に、久しぶりに「居場所」という感覚が芽生えていた。
ちょうどそのときだった。私はふと足を止めた。少し先にいる人物に、目を奪われたのだ。
彼女は数人の女子生徒を引き連れて歩いていた。しなやかな身体に、凛とした佇まい。その一挙手一投足が、思わず息を呑むほど美しかった。彫刻のように整った顔立ち、息をのむような美貌。その存在感は空気さえも支配してしまうほどだった。
私は思わず見とれてしまった——その瞬間、「パァン!」と乾いた音が頭に響いた。
「見てんじゃねえぞ。狙われたら骨まで食われるぞ。」
ヴォザルトが私の頭を叩き、冗談半分に釘を刺した。
「え?」
隣にいた黒く日焼けした筋肉質のダンが説明を加えた。
「うちのボスが王なら、あっちは魔女様。あれはボスの元カノだぜ。」
それを聞いて、私はすぐに視線を逸らした。ヴォザルトを怒らせるわけにはいかない。
だが、彼はあっさりと肩をすくめ、あまり気にしていない様子だった。
「気にしてないさ。俺も数ヶ月は持った方だよ。ここにいる奴らの誰があいつに“味見”されてねぇってんだ?」
彼の自嘲気味な言葉に、一同は黙りこくってしまった。魔女様と呼ばれるだけあって、彼女の存在感は尋常ではなかった。
その沈黙を破ったのは、誰かのからかい声だった。
「子牛もそろそろ有名になってきたし、魔女様に遊ばれる番なんじゃね?」
それを聞いた私は、黙って中指を立てた。それが合図のように、全員が爆笑し始め、再び場は賑やかさを取り戻した。




