10.学園のボス
校園的老大
昼下がりの陽光が、薄い雲の隙間から差し込んでくる。
僕は屋外の木製ベンチに座り、食堂で買ったサンドイッチをのんびりとかじりながら、ひとときの孤独を楽しんでいた。
晴れた空の下、空気にはまだ冷たい風が漂っていて、体の芯をじんわりと冷やすような寒さだった。
あたりには誰もいない。寒さを避けて屋内に留まる人が多いのだろう。
だが僕にとっては、このくらいの寒さはちょうどいい。南部出身の僕にとっては、これくらいの冷たい風など、大したことではない。
サンドイッチをもう一口頬張ったそのとき、不意に声がして、僕の静寂が破られた。
「オットーくん!」
見知らぬ女子生徒が目の前に現れた。顔には焦りの色が浮かび、息を切らしているところを見ると、どうやら走ってきたようだ。
「フィー先輩の教科書を探すの、手伝ってくれない?」
僕は三秒ほど固まってからようやく彼女が誰か思い出した。グループ発表の時に同じ班だった生徒の一人だ。
「教科書?」
口の中のサンドイッチを飲み込みながら、僕は少し首をかしげた。
「次の授業で使うやつ。」
僕は眉をひそめる。少し意外だった。フィクソは几帳面な性格で、教科書を失くすなんて考えにくい。
「フィクソが教科書を無くすタイプには見えないけど?」
そう言いながら、僕は立ち上がり、残ったサンドイッチを片手に食べつつ彼女の後について歩き出した。
女の子は少し気まずそうに表情を曇らせ、言いづらそうに口を開いた。
「正確には……ザコが隠したらしいの。」
「ザコ?」
その名前を聞いて、僕は自然と眉をひそめた。なんだ、またあいつか。
「ヒマなのか?」
「最近、特に私たちのことばっかり狙ってくるの。聞いた話だけど、フィー先輩がいつも成績一位なのが気に入らないんだって。」
彼女はため息をつきながら、呆れたように言った。
僕は少し黙り、状況を頭の中で整理する。
ザコとその取り巻きどもが問題を起こすのはこれが初めてではない。とはいえ、これまで彼らの標的になったのは主に気弱な生徒だった。フィクソのようなタイプを相手にするとは、予想外だった。
「で、あいつら今どこにいるか分かる?」
「たぶん食堂にいると思う。」
彼女は慌てて手を振りながら、僕の目を見つめて言った。
「でも……絶対に正面からケンカしないでね。ザコに睨まれた人たちがどうなったか、あなただって知ってるでしょ?
今もまだ問題になってるし……あまり目立たないほうがいいと思うよ。」
僕は頭をかきながら、少し考え込んだ。
確かに彼女の言う通りだ。ザコたちは陰湿で、相手を見てちょっかいを出してくるタイプだ。だが、僕はそういう連中を見て見ぬふりできる人間ではない。特に、卑怯な手を使うようなやつにはなおさらだ。
「分かった、近くで様子を見てみるよ。」
そう言って僕は彼女に軽く頷いた。
「君は先に戻ってて。」
彼女が足早にその場を離れていくのを見送りながら、僕は少し考えた。
――遠回りして探すなんて面倒だ。直接、当の本人に聞いたほうが早いだろう。
残りのサンドイッチを口に放り込みながら、僕は決意を固めた。
ザコと話し合って、ちゃっちゃと片をつけるとしよう。
食堂の中は人の声でごった返していたが、僕の目はすぐにあの見慣れた連中を捉えた。
彼らは、怯えた様子のクラスメイトを取り囲み、まるで当然のように「用心棒代」を要求していた。こんな場面、今までに何度も見てきた。だが今日は、見て見ぬふりをする気はなかった。
「Power up!」
腰のベルトに装着されたドライブストーンを軽く起動させると、瞬時に力が体中にみなぎるのを感じた。
次の瞬間、僕は一切の迷いなく、その人だかりに飛び込んだ。
「誰だ、目障りなヤツは?」
「お前、何しに来た?」
集団の中から不快そうな声が飛んでくる。取り巻きの何人かが僕を睨みつけ、空気が一気に張り詰めた。
だが僕は、彼らの反応になど構わず、取り囲まれていた小柄な学生の腕をつかむと、そのまま彼を強引に引っ張り出した。
「ほら、向こうに誰か呼んでるよ。」
適当な理由を口にして彼を遠ざけると、僕は何事もなかったかのように、彼がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
左右の連中がまだ反応しきれていないうちに、僕は両手を彼らの肩に軽く置いた。まるで旧友と談笑するかのように。
「私と一緒に座りなさい。」
口調は軽やかだったが、手の力は徐々に強くなっていった。
彼らは逃れようとしたが、僕の腕力の前では微動だにできず、席から立つことすらできなかった。
左側に座っていたのはザコ。どうやらこの集団のリーダーらしい。
僕に押さえつけられたまま、強がった表情を作ろうとしていたが、声には明らかに震えが混じっていた。
「お、お前、何が目的だ? 俺たち、最近はお前に手を出してないだろ!」
僕は冷ややかに笑みを浮かべ、左手で彼の首の後ろをがしっとつかむと、強引に顔を近づけさせ、低く鋭い声で告げた。
「……お前、ヒマすぎて教科書を隠したらしいな。さあ、どこに隠したか教えてもらおうか?」
ザコの顔がみるみるうちにこわばっていく。
全身から力が抜けたように硬直し、額からはじわりと汗が滲んでいた。
だがそれでも、彼は周囲の取り巻きたちの前で弱みを見せまいと、意地でも口を閉ざしていた。
周りに立っていた取り巻きたちが、ここぞとばかりに騒ぎ始めた。
ザコの威厳を取り戻そうと、口々に声を張り上げる。
「こいつ、よくもザコ様にそんな口を!」
「ザコ様、こんなヤツ相手にしないで!」
「さっさと消えろよ!」
場の空気は完全に膠着状態に入り、緊張はどんどん高まっていった。
だがその時、遠くから一人の取り巻きが息を切らせて駆け込んできた。
その登場が、この張りつめた均衡を破ることになる。
「ザコ様……“ボス”がお呼びです!」
“ボス”という言葉が発せられた瞬間、それまで威勢よく騒いでいた連中が、一斉に黙り込んだ。
まるで氷水をかけられたように、その場の空気が一変する。
誰もがピタリと動きを止め、その顔には緊張と恐怖の色が浮かんでいた。
ザコの威圧感も一気にしぼみ、無理やり笑みを浮かべながら、穏やかな口調に変わる。
僕の手を軽く叩きながら言った。
「お、おい……今の聞いただろ? “ボス”に呼ばれてるんだ。急用なんだよ……」
僕は無言のまま彼を見下ろし、手を離すどころか、さらに力を込めた。
すると、ザコの肩がわずかに震え始めた。
「いっ……痛いって! ちょっ、マジで急いでるんだってば!」
彼の声には、もはや虚勢のかけらもなく、苦しさと焦りがにじみ出ていた。
視線を地面に落とし、まるで捕らえられた獣のように、もがいても抜け出せずにいる。
「さっさと吐け。……あのクソ教科書、どこに捨てたんだよ?」
すると、横にいた取り巻きの一人が慌てて指をさしながら叫んだ。
「さ、さっき、外の廊下のゴミ箱に捨てたんだ! 本当だって!」
ようやく目的の答えを得た僕は、それ以上彼らを責めることはせず、手を離した。
解放されたザコとその取り巻きは、まるで牢から放たれた囚人のように椅子から転げ落ち、
必死の形相で立ち上がると、足元もおぼつかないまま、慌ててその場から逃げていった。
その背中には、“死の淵から戻ってきた者”にしか持ち得ない安堵と恐怖が色濃くにじんでいた。
「“ボス”を待たせたら、ただじゃ済まないぞ……」
取り巻きの一人が声をひそめてザコに忠告した。その声色には、はっきりとした恐怖がにじんでいた。
「そ、そうだよ……ザコ様、早く行きましょう!」
もう一人がすぐに同調し、それに続いて他の取り巻きたちも口々にうなずく。
先ほどまでの威勢はどこへやら、彼らの言葉からはすっかり強気の色が消えていた。
あれほど威張り散らしていた連中が、今や自尊心を踏みにじられた小犬のように、
尻尾を巻いて、情けない足取りでその場を後にする姿は、見ていて滑稽ですらあった。
彼らが慌てて逃げ去っていく背中を眺めながら、僕の口元には自然と皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
しばらくしてから、僕は踵を返し、廊下へと向かう。
――やっぱりな。
人目につきにくい場所にあるゴミ箱を覗き込むと、そこに例の教科書が無造作に突っ込まれていた。
表紙には汚れがついていたが、中身は無事のようだった。
こうして教科書を手に入れたことで、この小さな騒動にもようやく終止符が打たれた。
僕は教室へ戻り、教科書をフィクソに手渡した。
彼女はそれを受け取ると、表紙についた汚れを見て少し眉をひそめたが、何も言わなかった。
「ありがとう。」
彼女は静かにそう言った。少しばかりのため息と、そしてほんの少しの感謝がその瞳に宿っていた。
僕は軽くうなずいただけで、特に何も言わずに席へ戻った。
「午後、訓練室に来い。“ボス”がお前を呼んでる。」
教室の入口に立つ上級生が、冷たい口調でそう告げた。
その表情には容赦のない鋭さがあり、言い終えると踵を返して無言で去っていった。
教室内には一瞬、気まずい沈黙が流れる。
つい先ほどまで賑やかだった空間が、一気に静まり返った。
クラスメイトたちの視線が一斉に僕に注がれ、その目には隠しきれない驚きと不安がにじんでいる。
誰もがそっと視線を逸らし、まるで僕の周囲の空気すら危険なものに変わってしまったかのように避けていた。
ただ一人、ザコとその取り巻きだけは、してやったりと言わんばかりに満足げな笑みを浮かべている。
その目には露骨な幸せそうな悪意が宿っていた。
「ごめん……私のせいで、上級生の“ボス”に目をつけられちゃって……」
隣に座るフィクソが小さな声で言った。
その声には、明らかな責任感と不安が混じっていた。
僕は穏やかに笑い、彼女の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。この学年には、まともに戦えるやつなんて一人もいないし。むしろ、その“ボス”とやらに会えるのがちょっと楽しみなくらいさ。」
その言葉が教室に響いた瞬間、場の空気が再び凍りついた。
周囲の生徒たちは僕を直視できず、息を呑むように気配を消す。
だが、僕はそんな反応を気にせず、むしろこの突如現れた挑戦にわずかな高揚感を覚えていた。
この学問第一の場所では、真剣にぶつかり合える相手など滅多にいない。
そんな中で現れた“戦える存在”――僕にとってはむしろ歓迎すべき機会だった。
……もっとも、拳を交える前に、その“ボス”が何者なのかを、少し調べておきたいとは思っているが。
「よっ、“万事屋”!」
広々とした廊下を歩いていると、見慣れた姿を見つけた僕は、迷うことなく大声で呼びかけた。
声は静かな空間に反響し、周囲から驚いたような視線が飛んできたが、そんなことは一切気にしなかった。
遠くにいたランディがこちらを振り返り、目に一瞬焦りの色を浮かべたかと思うと、すぐに小走りで駆け寄ってきた。
まだ体勢が整わないうちに、僕はポケットから情報料を取り出し、軽く放り投げた。
ランディは慌ててそれをキャッチする。
満面の笑みを浮かべていた彼の表情は、まるで金塊でも拾ったかのように輝きを増し、目にはいやらしい欲望の光が宿った。
「“ボス”の情報をくれ。」
僕は淡々と告げる。まるで日常的な取引のように。
その瞬間、ランディの笑顔がピタリと止まり、貪欲な表情は消え失せた。
彼はその場で硬直し、視線をそらす。口を開くかどうか、明らかに迷っている様子だった。
「え……オットーさん、どうして急に“ボス”の情報なんて?」
彼の声は低く、どこか不安げだった。
僕は肩をすくめて、気軽な調子で答える。
「このあと、ちょっと話しに行こうと思ってさ。」
「……」
「情報料はもう払っただろ?」
しばらくの沈黙の後、ランディは観念したように小さく頷き、ようやく口を開いた。
「……わかったよ。そこまで言うなら。
“ボス”の本名はヴォルサルト(Volsat)。上級生で、この学園最大の不良だ。
入学して間もなく、自分の腕っぷしだけで“ボス”の座に就いた。
それからもう五年以上、誰にもその地位を脅かされていない。挑戦した奴は何人もいたけど、全員ボコボコにされて終わりさ。鼻を折られ、顔は腫れ、全滅だった。
学園内の“裏”のことは、ほとんど彼が仕切ってる。
あんたと同じく戦闘系のコースを専攻してて、素手の格闘も武器戦も満点のバケモンさ。
だから、誰も迂闊に手を出そうとは思わないんだよ……」
ランディの話を聞き終えるころには、僕の心はさらに高ぶっていた。
こんな相手なら、直接会ってみる価値がある。
学園内の学術競争なんて、正直退屈でしかない。
でも、拳と拳で語り合うような戦いこそが、僕の血をたぎらせる本物の勝負だ。




