1.マクイス城を北へ
從馬奎斯城往北走
この広大な大陸では、北は春のように穏やかで、南は一年中寒さが続く。
大陸は果てしなく南へと伸びており、最果てには「極南の地」と呼ばれる謎めいた極寒の場所が存在すると言われている。
しかし、そこまで足を運ぶ者はごく稀である。
南へ進むほど危険が増すからだ。
東には、天を突くようにそびえ立つ「放逐山脈」がある。
この山脈は見えない壁のように人々の視線と足取りを遮り、東への探検の夢を打ち砕く。
南北に延びるその険しい峰々には、古くから恐ろしい怪物が住むとされ、侵入者を捕食すると伝えられてきた。
この危険な領域に足を踏み入れるのは、社会から追放された者たちのみ。
その行方を知る者はいない。誰ひとりとして、山の向こうから戻った者の記録はない。
大陸の南端には「長城連盟」と呼ばれる勢力が存在する。
四つの異なる地域から成るこの連盟は、黒潮の脅威に常にさらされながらも、それぞれが独自の文化と特色を守り抜いている。
その中でも最南端に位置するのが「マルクィス(Marquess)城」だ。
黒潮との距離が最も近く、常に死と隣り合わせの地である。
ここでは人々はハンターの誇りを胸に、戦いの技を代々継承し、礼儀や形式よりも力と野性を尊ぶ。
そのため、他の地域からは「文化のない野蛮な地」と見なされているが、
黒潮関連の資源や交易の要所として、実は連盟最大の玄関口でもある。
他地域はこの地の物資供給に大きく依存しているのだ。
連盟北部には「ドゥーク(Duke)城」がある。ここは連盟の首都であり、権力と知識の象徴だ。
ドゥークの人々は自らを「文明の灯台」と誇り、書物の香りが満ちるその街では知識こそが何より尊ばれている。
ドゥークの住民はしばしば南を見下し、マルクィスの者たちを野蛮で無礼な田舎者と嘲る。
東には「バレン(Baron)城」という鍛冶の街がある。
炉の炎は昼夜問わず燃え続け、鉄槌の音が街中に響き渡る。
バレンはマルクィスから黒潮由来の資源を大量に購入し、鍛冶師たちは精緻な武器や道具を生み出し、大陸全土へと供給している。
戦時でも平時でも、彼らの技術は欠かせない存在であり、連盟の産業の命脈を担っている。
西方はかつて栄えた町々が衰退し、今では田舎の村が点在するばかりだ。
主に農業で生計を立てており、黒潮の脅威からは遠いものの、同時に文明や権力の中心からも遠ざかっている。
大地は豊かだが、静かで孤独な風景が広がっている。
さらに北へ進むと、「大学城」と呼ばれる、古くから知られる都市が現れる。
かつてこの地には「旧・太陽の塔」がそびえていたが、今ではその塔は過去の遺物となり、大学城の精神的象徴としてのみ残っている。
この都市は高い城壁に囲まれ、まるで知識そのものの要塞のようだ。
学者たちは文化と知識の保存に心血を注ぎ、単なる学者にとどまらず、武装部隊をも擁しており、戦乱渦巻くこの大陸で中立を保っている。
ここでは「知識」が経済の柱であり、教育や研究を“売る”ことが都市の命脈となっている。
各地の中流家庭は子どもにより良い未来を与えるため、この都市へと送り出す。
大学城を卒業した者には「学位証明書」が与えられ、それは大陸中で高く評価されており、
ある国々では出世や昇進のために必要不可欠な資格とされているほどだ。
そして大陸の北西端には、強大な国家「戦国」がある。
この地はかつて群雄割拠の戦場であり、旧王朝の崩壊後、長きにわたり小国が争いを続けていた。
混迷を極めた時代、戦国が突如として現れ、圧倒的な軍事力で北方と西方を次々と制圧し、混乱を収めた。
だが、その野心は止まることを知らず、今や国境線は長城連盟や大学城の近くまで迫っている。
戦国と連盟、大学城との間には、わずかな中立地帯が存在する。
そこには小都市が点在し、天然の緩衝地帯となって、三勢力の直接的な衝突をなんとか回避している。
均衡は保たれているが、その均衡は、きわめて脆いものだった。
*
「もう、時間だな。」
深く息を吸い込み、できる限り声を落ち着かせて、毅然とした調子でそう言った。
目の前には父と妹が立っていた。ふたりの表情には複雑な感情が浮かび、言葉にできない想いが瞳の奥で渦巻いていた。
父の視線は深く、まるで静かな海のように静謐だったが、その奥には言葉にならない不安と未練が宿っていた。
彼は一歩前に出て、その細身ながらも安心感を与える両腕で、私をしっかりと抱きしめた。
その体温と、背中をそっと叩く優しい手のひら。
言葉など必要のない、静かな激励が私の胸の奥にじんわりと染みていく。
妹はうつむいたまま、私の胸元にぎゅっと身を寄せてきた。
鼻先が赤く染まり、押し殺した感情がこみ上げているのが伝わってくる。
華奢な腕で私の腰をぎゅっと抱きしめるその力は、思わず胸が痛むほど強かった。
私は彼女を見下ろした。
彼女は無理に笑顔を作ろうとしていたが、その口元は引きつり、目元には光る涙の粒が揺れていた。
「お兄ちゃん、絶対に気をつけて……それから、ちゃんと手紙書いてよ……」
その声は蚊の鳴くようにか細く、それでも一語一語が鋭く胸に刺さってくる。
「うん、書くよ。」
私はそっと答え、優しく彼女の髪を撫でた。
指先をすべらせるたびに、絹のような赤い髪が揺れて、それはまるで最後の温もりを確かめる儀式のようだった。
彼女はしがみついたまま、なかなか手を放そうとしなかった。
それを、イヴェットがそっと引きはがし、ようやく妹は渋々と父のそばに戻った。
涙で潤んだ瞳で、彼女はずっと私を見つめていた。
私は荷物を鞍の横に掛け、粗い布地を指先でなぞる。
その瞬間、昨夜の情景が脳裏によみがえる。
昨夜、父はドゥーク城で小さな食堂を借り切り、少し早めの十六歳の誕生日を祝ってくれた。
あの時の笑い声は、いまだ耳に残っている。
テーブルに並んだごちそうの香りが、いまも鼻の奥をくすぐるようだった。
秋になって本当の誕生日を迎える頃には、私はもうあの見知らぬ「大学城」にいて、家族とは遠く離れているのだろう。
そう思うと、鼻の奥がつんとしたが、私は無理やり笑顔を浮かべた。
父はいつもこう言っていた――「男は大人になったら感情を隠せるようにならなきゃいけない。特に、人前ではな。」
ちなみに、この大陸では成人の儀式(成人式)は十五歳から十八歳の間に行われるのが一般的だ。
一部の家庭では十五歳になった時点で式を執り行い、子どもが大人になったことを象徴とする。
しかし、父の考えでは「十八歳こそが本当の成熟」であり、去年の誕生日はただの誕生日に過ぎなかった。
そして、今年の旅立ちは――まるで私の人生が大きく変わろうとしていることを、静かに語りかけているようだった。
「じゃあ、行ってきます。」
馬にまたがる瞬間、私はわずかに眉をひそめた。――何かが違う。
この馬は立派でたくましく、歩みもしっかりとしている。
けれど、太腿に当たる革の感触が、どこかぎこちなくて落ち着かない。
私はその首筋を軽く撫でてやる。
それは馬をなだめる仕草であると同時に、自分自身を落ち着かせる動作でもあった。
顔を上げ、少し離れた場所に立つ家族と護衛たちに手を振った。
家族はその場から一歩も動かず、じっとこちらを見守っていた。
私は必死に笑みを作り、彼らに安心を届けようとした。
父はまっすぐに立ち尽くし、まるで動かぬ山のような存在感を放っていた。
妹はもう、涙を隠しきれなかった。
その目は真っ赤に染まり、今にもこぼれ落ちそうなほど潤んでいたが、彼女は最後の意地で唇をぎゅっと噛みしめ、声を上げなかった。
手を振って別れを告げた私は、一人馬を走らせて北門を抜けた。
耳に響くのは、石畳を打つ蹄の音と、城壁に反響する最後の余韻だけ。
ドゥーク城の北門は、徐々に遠ざかっていく。
私はふと後ろを振り返り、心の中で小さくつぶやいた。
――もし、馬車だと時間がかかりすぎるって言わなければ、
きっと彼らは私を大学城まで送ってくれただろう。
そう思うと、少しだけほっとした気持ちになる。
実のところ、ドゥークに着く前から、私は一人で馬に乗って行くと決めていた。
そのほうが時間も節約できるし、何より、家族に長旅の苦労をさせずに済む。
これは、私の旅だ。
ここから始まるのは、私自身の未来だ。




