短編 イリーザの騎獣
短篇 伊麗莎的坐騎
午後の陽ざしが穏やかに引退ハンター村の訓練場を照らし、さらりと吹く風が、土の匂いを含んだ空気を軽く舞い上げていた。
ラフィルは訓練場の隅にある石の上に腰掛け、未開封の短剣を静かに拭っていた。刃に反射した陽光が鋭く煌めき、それを見つめる彼の眼差しには、朝に観戦した対戦相手の動きが映っていた。
彼は相手の攻撃ルートを何度も脳内で再現し、攻防のリズムを丹念に読み解いていた。周囲の物音には、まったく気づかないほど集中していた。
そのとき――突然、訓練場の静寂を切り裂く大声が響き渡った。
「アドベンチャーモード、発動っ!!!」
次の瞬間、空から飛びかかるように一つの影が彼の背中に落下した。
「……おい。」
「急いで、我がロイヤルマウント! 出発だ、今すぐ!」
イリーザは拾った枯れ枝を王笏のように高々と掲げ、兄の腰を太ももで挟み、肩に片腕を回して真剣な表情を浮かべた。その姿は、まるで本当に戦場に向かう姫騎士のようだった。
「敵軍がもうすぐ攻め込んでくるのよ!」 焦り混じりの声で、演技は完璧だった。
「あなたは私の唯一の希望、突撃よっ!」
ラフィルはすぐには動かず、静かに遠くを見つめたまま――まるで人生そのものに疑問を抱くかのような表情だった。
「……俺、今、剣を拭いてるんだけど。」
「そんな暇ないわよ! さっき空飛ぶドラゴンが城に侵入して、私たちの晩ご飯を盗んでいったのよ!」
「……」
「今すぐ出発しなきゃ、飢え死にするわよ!」
「ドラゴン? 俺の最後の焼き肉、誰かに食われたと思ったら……」
「それは毒味のためよ。ロイヤルファミリーの食事は、まずマウントで試すのが常識!」
涼しい顔で、罪悪感ゼロ。
「……姫がマウントに毒味させるって、どんな国だよ。」
「細かいことはどうでもいいの!」彼女は兄の肩をポンと叩き、
「今はとにかく、私を戦地に運んでくれるかっこいい騎獣が必要なの!」
ラフィルは大きくため息をつき、剣を脇に置くとゆっくり立ち上がった。イリーザは歓声をあげ、首にしがみつく。
「よし、ロイヤルマウント、スプリントモード――起動っ!」
「……俺、本気出せばお前振り落とせるぞ。」
「でもしないでしょ~?」 ニヤリと笑うその顔は、まるでキャンディを盗んだ子ギツネ。
「だって、お兄ちゃんは私にめちゃくちゃ甘いもんね~」
ラフィルは黙っていたが、次の瞬間、地面を蹴り、一気に加速した。イリーザは思わず叫び声を上げたが、その声の中には隠しきれない喜びが満ちていた。
訓練場を二周、急カーブにスピードアップ、時には急ブレーキ。ラフィルはわざとイリーザを前のめりにさせたり、ふざけながらも全力で駆け回る。
周囲の見習いハンターたちは手を止め、目を見開いてその「謎の騎乗ショー」に釘付けになっていた。
「そのマウント、後方宙返りいけるか!?」
「急ブレーキからの片足スピン希望~!」
若いハンターたちが茶々を入れるたび、笑い声が場に広がった。
最後にラフィルは派手な急ターンでイリーザをふわっと干し草の山に放り込み、自らはその前に優雅に一礼した。
「姫様、敵軍は退却、晩餐は奪還いたしました。」
草の山から伸びた手、その後ろからぐしゃぐしゃ頭のイリーザが顔を出す。風に遊ばれる花のような笑顔が、そこにあった。
「今日のパフォーマンスは文句なし。ご褒美に、今夜の皿洗いは免除よ!」
「……もともと俺、洗ってないけど。」
「じゃあ罰として、一緒にスイーツ食べて!」
「それが目的だろ……」
干し草の上でイリーザが手を伸ばす。
「だっこ~」
ラフィルは一度だけ彼女を見下ろし、動かない。
「何?」
「起こしてくれないと~」
「自分で起きろよ。」
「ムリ! だっこがいいの!」
「……はあ、仕方ないな。」
文句を言いながらも、彼はにっこり笑ってイリーザを抱き上げた。彼女はそのまま兄の胸にぴったりくっつき、降りる気は一切なかった。
「このままおうちまでお願いね。」
「俺、まだ訓練残ってるんだけど。」
「おうちまで運んでから戻ればいいじゃん♪」
ラフィルは苦笑して頷くと、彼女をしっかり抱えて村道を歩き出した。
「かしこまりました、姫様。」
イリーザの小さな世界には、「乗り物」として最高に満足しているものがふたつある。
――パパの肩と、お兄ちゃんの背中。
彼女はいつもそれを「わたし専用のマウント」と呼んでいて、幼い頃の大切な宝物だと胸を張る。
パパの肩に乗って、ちょこんと足をぶらぶらさせながら市場や村道を歩くとき、遠くの木のてっぺんや屋根の上が見える。
そのたびに彼女は目を輝かせて叫んだ。
「わあっ! あの帽子、郵便屋さんのだ!」
するとパパは、いつも笑いながらこう返す。
「それは鳥の巣だよ。」
でも、イリーザはまったく気にしない。
誰よりも高い場所から世界を見下ろせるだけで、自分が女王様になった気分なのだ。
無敵で、自由で、どこまでも行ける――そんな気持ちにさせてくれる、夢のような時間だった。
けれど、「冒険モード」を本気で起動するとなれば――出番はお兄ちゃんに回ってくる。
イリーザは突然、壁や机の上から躊躇なく飛び降りて、ラフィルの背中にドーンと飛び乗る。
「ロイヤルマウント、出撃~~っ!!」
そのとき彼が訓練中でも、休憩中でも、人と会話の途中でも――お構いなし。
すべての予定を強制中断して、彼女の「騎乗モード」が始まるのだ。
ラフィルは文句たらたら。
「俺はお前の専用馬車じゃないんだけど?」
「こんなんでどうやって訓練するんだよ……」
とぼやいても、イリーザの情熱には勝てない。
結局、無言で腰を落とし、彼女がしっかり背中に座るのを待ち――そして全力で走り出す。
イリーザはその背中で大声をあげて指揮を執る。
「左だよ! はやく! 黒潮が来た! 回れーっ! ジャンプーっ!」
ラフィルはその通りに、軽く跳ねてみせた。
すると――
「きゃはははっ!!」
彼女は笑いすぎて、危うく干し草の山に飛ばされそうになった。
兄の背中でくすぐったく笑い転げるその姿は、まるでいたずら好きの小悪魔そのものだった。
……でも、「おにいちゃん」よりもっとスリリングなのが――
巨大な恐狼の“老兄”に騎乗して、村じゅうを駆け回るときだ。
ある日、彼女たちはやりすぎた。
イリーザは老兄の背中にまたがり、小さな枝を剣に見立てて振り回しながら、「敵軍襲来!」と叫び、村を突っ走っていた。
その勢いで、屋台をひっくり返し、水桶を倒し――
さらに、洗濯物を干し終えたばかりのおばさんを驚かせて、後ろにひっくり返らせてしまったのだ。
そのときだった。
台所から怒声が轟いたかと思うと、手に半分切ったままの包丁を握りしめたアメリンが、雷のごとく現れた。
「コラァあああッ!! そこ止まんかい、このバカ狼!!」
彼女の声はまるで空を裂く雷鳴のように響き渡り、
「リリィを今すぐ降ろしなさい! ここは馬場じゃないんだよ!!」
老兄はピタリと動きを止め、まるで叱られた新兵のように直立不動になった。
しかしイリーザはというと、まったく悪びれた様子もなく、背中から小さな頭をぴょこんと出して無邪気に言った。
「でもね、ばあば〜、さっき高いところから見たら、屋根が壊れてるお家いっぱいあったよ〜」
その言葉にアメリンの顔が一気に黒くなる。
「アンタたちが壊したモンの方が多いわッ! 降りなさい!! 今日のおやつは禁止!!」
その瞬間、イリーザの表情がしゅんと沈んだ。「おやつ……もう会えないんだね……」とでも言いたげに、静かに老兄の背中からずり落ちた。
そして――最悪の事件は、マルクス城で起こった。
あの日、イリーザはテンションが上がりすぎて、なんと老兄に乗ったまま庭から街路へ突入。まるで野生の獣のように駆け回ったのだった。
そのとき、ちょうどイヴェットが買い物から戻ってくるところだった。
角を曲がった瞬間、目に飛び込んできたのは、まぎれもない――あのふたり。
「……そこ! 止まりなさい!!」
老兄の背中で「つっこめ〜!」と叫ぶ娘の声に、イヴェットの怒気が一瞬で爆発。手にしていた買い物かごを地面に投げ捨て、そのまま猛ダッシュ。
老兄が止まる間もなく、イヴェットは鋭い足運びで彼に近づくと――
パァンッ!!!
彼の肩に手刀を一発入れた。
「リリィ、もう一度この“お馬さんごっこ”やったら、今度こそアンタら2人まとめて黒潮のエサにするからねッ!」
イリーザはビクンと震え、しゅるんと老兄の背中から滑り落ち、シュンと小声で抗議した。
「ママは分かってないよぉ……高いとこから見る景色って、全然違うんだから……」
「分かろうが分かるまいが関係ない。」
イヴェットの声は鋼のように冷たくて固かった。
「次やったら、本当に容赦しないから。」
彼女が睨むと、老兄は即座にサイドステップで避けた。
その瞬間、イヴェットの手がスッと伸びて――
イリーザの耳を子猫みたいにひょいっとつまみ上げた。
「帰るよ。」
「いだだだだぁぁぁぁ……」
耳を引っ張られながらの悲鳴が夕暮れの街角に響くなか――
その日の冒険は、こうして強制終了となったのだった。




