短編 ちいさな芸術家
短篇・小藝術家
今日の城主邸は、夕暮れ時にもかかわらず驚くほど静かだった。まるで街全体が息をひそめているかのように、風が枝葉をそっと揺らす音と、時おり聞こえる虫の声だけが、庭に静かな夜の前奏を奏でていた。
トムリンは中庭のリクライニングチェアにもたれかかっていた。灰色の上着と広縁の帽子は、椅子の背に無造作に掛けられている。彼は一日中、数え切れない会議や書類、民事の揉め事と格闘してきた。とりわけ副会長マルコムの小言から解放されるのに小一時間もかかり、もはや喋る気力すら残っていなかった。
執事が淹れてくれた紅茶をひとくち飲むと、柑橘の香りが喉をすべり落ち、まるで小雨のように疲れた神経を撫でていく。膝の上には『魔女―起源』の本が静かに横たわっていたが、数ページも進まないうちにまぶたが重くなり、彼はそのまま深い眠りへと落ちていった。
風が中庭の隅からそっと吹き抜ける。
一陣の黒い影が幽霊のように忍び寄ってきた。
足音は一切なく、猫のように優雅――いや、猫というには従順すぎる。どちらかといえば、ずる賢く悪戯好きなキツネ。口元には笑み、瞳には光る悪意。
イリーザはトムリンの傍らにしゃがみこみ、唇を引き結んでいた。何か悪さを企んでいるのが、抑えきれないその震えから伝わってくる。手には、最近おもちゃ屋で手に入れた「三日で自然に消える魔法インク」の黒い筆――ただし、本当に消えるかどうかは謎。
「ふふ、新しい道具はまずパパでお試しっ!」
彼女は小声で笑いながら、興奮気味に呟いた。
ポケットからは紙、テープ、カラーペン、シール、羽飾りまで取り出す。準備は完璧――もはや計画的犯行だ。
彼女はためらいもなく父の顔面に筆を走らせた。
まずはくるんとした濃い眉毛、次に大きくデフォルメされたブタ鼻、そして額には堂々たる「本日特価」の文字。最後に猫のヒゲを口元に描き、頭には羽飾りを二本――見事な悪趣味アートの完成である。
イリーザはハンカチを噛みながら笑いをこらえていた。肩を震わせ、腹筋がつりそうになりながら、まるで道化師の修行中。
「ふふん、我ながら傑作……これぞアート!」
誇らしげに額の真ん中に金のペンで書かれた紙を貼りつけた。
【この人物はイリーザに制圧されました!】
立ち上がると、両手を腰に当ててアートディレクター気取りで宣言。
「本日夕刻、城主トムリン氏は一切の抵抗なく、謎のアーティストによる襲撃を受け、現在ブタ鼻状態で安眠中。予想されるダメージは――精神的トラウマ(永久)?」
彼女は草の上に転げ回りながら涙をぬぐい、大爆笑した。
そのとき、落ち着いた低い足音が聞こえてきた。
庭の向こう、花壇の陰から巨大な獣が優雅に現れた。
艶やかな茶色の毛並みに、鋭い目つき――イヴェットの愛獣、恐狼モーラである。
イリーザはぎくりと身をすくめ、そっと「シーッ」と口に人差し指を立てる。
「しーっ、まだ遊んでるとこなんだから、黙っててね……」
モーラはトムリンの顔に描かれた落書きをクンクンと嗅ぎ、鼻をピクつかせた後、イリーザに視線を移した。
その目には「またか……」という諦めの色が滲んでいた。
「ふふ、チクっちゃだめよ? モーラ、ねぇ、一緒に描こうよ~」
そう言いながら、道具袋へと小走りで戻り、次なる“インスピレーション”の武器を探す。
その瞬間、モーラが鼻先で額の羽飾りをふっとくすぐり――
「ハックションッ!!」
豪快なくしゃみが炸裂。
トムリンの眉がぴくりと動いた。
次の瞬間、彼は目を開け、空を見つめた。
ぼんやりとした目が徐々に焦点を結び、目の前のイリーザ、そして手に握られた黒い筆へと移る。
三秒の静寂。
「……何してる?」
空気が凍る。イリーザは最高難度の愛想笑いで切り抜けようとした。
「えーっと……芸術家の偉大な一歩?」
トムリンが手を上げると、まだ湿ったインクがぬるりと指に絡む。
深く息を吸い込み、隣のモーラに目を向ける。モーラは視線を逸らした。
「……何回目だ?」
「三回……目?」
「前回、“もう描かない”って言ったよね?」
「今回は魔法インクだよ? 自動で消えるんだよ? 環境にもやさしいタイプ!」
イリーザは筆を高く掲げ、どや顔で営業スマイルを見せた。
トムリンが何か言いかけたそのとき、ぴかぴかの手鏡が差し出された。
「見て見て! 似合ってるよ?」
鏡の中には、濃眉・ブタ鼻・くるんヒゲに「本日特価」と書かれた額の男。そして、満面の笑みの少女。
しばしの沈黙のあと、トムリンは肩をすくめて笑い、イリーザの頭を撫でた。
「まったく……お前には敵わん。」
イリーザはほっとして、彼の腕に身を預けて甘える。
「ってことは許してくれた~?」
「許すよ。でもな……」
トムリンが目を細め、悪戯っぽく続ける。
「次はお前がキャンバスな。」
「えっ!? だ、だめだよそれは! この権利は芸術家だけの特権で――きゃー! 本気で追いかけてきたーっ!?」
庭に再び笑い声と足音が響き渡る。まるで、いつもの幸せな日常の旋律のように。
そして――草原を逃げ回るイリーザの悲鳴「顔に描かないでー!」が響く中、庭の奥にある大きなフランス窓が「カチッ」と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、白いロングドレスを身にまとったイヴェット。髪には台所の香りが残り、手には拭き終えたばかりの皿。穏やかな表情だが、その瞳の奥には母親特有の超高精度な“母の威圧”が宿っていた。
「……イリーザ。」
小さな声。しかし雷鳴よりも効いた。
逃げ回っていたイリーザは、その場でストップ。まるで凍結魔法を食らったかのように固まった。
「マ、ママ!? そこにいたんだ……奇遇だね?」
「最初から台所にいたわ。窓、開いてたし。」
イヴェットは静かに、しかし確実に現状を把握していた。
トムリンの顔――「本日特価」の文字。
イヴェットは深いため息をつき、皿を窓辺に置いた。
「これは……あなたの“芸術”なの?」
イリーザはごくりと唾を飲み込み、小さな声でつぶやいた。
「……い、インクをちょっと試しただけだもん……三日で自然に消えるやつだし……それに、パパさっき笑ってたし! 本当に怒ってないってば! ちゃんと加減したの!」
「“加減”ね?」
イヴェットはうっすらと眉を上げ、手にしていた陶器の皿を窓辺にそっと置いた。動きは優雅で、急ぐ様子はまったくない。だが、そのまま石段をゆっくりと下りてくる姿は、静かな威圧をまとっていた。
「前にあなたこう言ったわよね?『もうキラキラ魔法爆弾は使わない』って。でも結果は――お兄ちゃんの部屋が一週間、掃除される羽目になった。」
「そ、それは……限定の記念アイテムだったんだもん……」
イリーザの声はどんどん小さくなり、しぼんでいく風船のようだった。
イヴェットがさらに近づいてくる。その口調はとても穏やかで、一見すると優しくすらある。だが、その言葉一つひとつには、確実に心をえぐる鋭さが込められていた。
「これ以上“創作”を続けさせてたら、この家、現代アートの展示場になるわね。」
イヴェットはイリーザの目の前でぴたりと立ち止まり、腕を組んだ。その瞬間、彼女の放つ気迫に押されて、そばにいたモーラでさえ三歩ほど後ろへ下がった。
「いい? ちゃんと立ちなさい。もう“かわいそうなふり”は通用しないわよ。――質問。こっそりまたおもちゃ屋に行ったでしょ? そしてどうせまた『実験用』って言って、来月の小遣いを勝手に使ったんじゃないの?」
イリーザは俯きながら、蚊の鳴くような声でぼそっと答えた。
「……セールだったから。」
「セールだったら何買ってもいいの? パパの顔をキャンバスにしてまで? もし目や鼻にインクが入って、万が一何か起きたらどうするの? 洗い落とせなくて、あの顔のまま晩餐会に出席することになったら?」
「……パパが行けないなら、代わりに私が出れば……」
彼女は上目遣いで、にっこり笑ってごまかそうとした。
その瞬間、イヴェットの目つきがすっと鋭くなる。
「イ・リ・ー・ザ。」
「はいはいはいっ! 私が悪かったです、ごめんなさいっ!! ほんとにごめんなさい、もう二度としませんっ!! だからママ、ナスにだけは変えないでええええっ!!」
「私はそんな変身術を使うタイプのママじゃないわよ……」
イヴェットは額に手を当て、深いため息をついた。その声には、呆れと愛情、両方がたっぷりと込められていた。
「でも、もしまたふざけたことをしたら、三日間お皿洗いね。ついでに《家庭マナー手引書》第五章、全部暗記してもらうから。――いい?」
「……はぁい。」
イリーザは肩をしゅんと落とし、まるで叱られたばかりの小狐のように項垂れていた。
「それから、パパのところに行って、ちゃんと顔を拭いてあげなさい。」
「でもさ、パパまだ猫のヒゲ部分見てなかったんだよ〜……」
「イ・リ・ー・ザ。」
「わかってるってば〜、拭きます拭きます~」
ぶつぶつ文句を言いながらも、彼女はテーブルの上から濡れタオルを取って、そろそろとトムリンの顔を拭き始めた。だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「ねぇパパ、この顔そのままで街角に立ったら、絶対オレンジ売れまくると思わない? 似合ってるよ~」
トムリンは横目で彼女を一瞥し、ため息まじりに、それでもどこか甘やかすように言った。
「もう一言ふざけたら……お前のママが“リアルな豚鼻”、影付きで描いてくるぞ。信じるか?」
「……うぐぅ。」
イリーザは素直に黙り、まるでいたずらがバレた子ハムスターのように、こくんと小さくうなずいた。
少し離れたところで、イヴェットは腕を組んだまま静かに佇んでいた。その顔には、いつものようにきりっとした表情が残っていたが――口元には、抑えきれない柔らかな微笑みが浮かんでいた。
厳しさの奥に、母親特有の温かい眼差しがにじんでいる。
彼女はそっと小さくため息をつき、誰にともなくぽつりとつぶやいた。
「この子はほんと、一日でも騒がないと体調崩しそうなくらい落ち着かないわね……」




