24.Overclocking
超頻Overclock
姐さんは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに決断した。
彼女は勢いよく指を噛み切り、指先から赤い血が滴り落ちる。
そのまま、もう片方の腕に素早く文字を描く――まるで呪文を刻むように。
その光景を見て、隊長の目に動揺の色が浮かぶ。
「エリノア、やめろ!」
彼の声は必死だったが、彼女の決意を止めるには遅すぎた。
「みんなが死んでからじゃ遅いでしょ?」
冷たく言い放った彼女の声には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「Overclock!(オーバークロック!)」
符文が完成した瞬間、彼女の腕がまばゆい光を放ち、負荷紋が爆発的な速度で全身へと広がる。
猛烈な灼熱が一瞬で襲い、彼女は奥歯を噛み締めた。
それは鋭い刃で神経を切り裂かれるような苦痛だった。
彼女は剣を杖のようにしてやっと立っていられた。
全身から蒸気が立ち上り、肌は赤く染まり、高熱に焼かれているようだった。
――それこそが「オーバークロック(Overclock)」。
血を媒体とし、体に刻んだ符文で潜在能力を強制的に解放する禁術。
その代償は重い。
全身に負荷紋が広がり、耐えがたい激痛が走る。
これを耐えきるには、苛烈な訓練と鋼の意志が必要だった。
しかも、副作用は凶悪だ。
内臓すべてに過大な負荷がかかり、耐えきれなければ肉体は崩壊し、死に至る――それがこの術の真の危険性だった。
発動直後、大姐頭の動きは疾風のように鋭くなった。
地を裂くような足音とともに、彼女はまるで矢のように焰虎へ突撃する。
大剣が閃光を帯びて唸りを上げると、その一撃は焰虎の鋭い爪を弾き、巨体を半歩後退させた。
焰虎は反撃に転じ、もう一方の爪で切り裂こうとする。
だが、彼女はそれを避けず、剣を横に構えて正面から受け止めた。
「ガァン!!」
耳をつんざく金属音。
火花が散り、大気が震える。
蒸気が肌から吹き上がり、紅潮した顔に強い意志が宿る。
その眼差しはまるで鋼鉄のようで、焰虎の魂すら切り裂くようだった。
焰虎が体勢を立て直そうとしたそのとき、銀の残像が横を駆け抜ける。
それは隊長――彼もまたオーバークロックを発動していた。
稲妻のような速度で飛び込み、野太刀が空に鋭い弧を描く。
焰虎が危険を察したときにはもう遅かった。
「ゴッ!」という重い音とともに、野太刀が顎から胸まで一直線に切り裂く。
硬い装甲は一撃で裂け、深々と傷が刻まれる。
破れた箇所からは火花と断線した回路が飛び出し、生命力が煙のように漏れ出していく。
的確に致命点を突かれた焰虎は、怒りと恐怖の混じった咆哮を上げた。
二人の連続攻撃は雷鳴のように激しく、焰虎の防御は崩れていった。
彼女と隊長の動きは流れるように連携し、まるで風と雷が交錯するようだった。
焰虎が反撃のために爪を振り上げる瞬間、姐さんの姿が左側にすばやく現れ、大剣を振り下ろす。
「ギギギィィッ!!」
鋭い金属音とともに、焰虎の左前脚が切断された。
粘つく機油と火花が飛び散り、巨体がバランスを失いながら崩れ落ちる。
焰虎は怒りに満ちた叫びを上げながら、必死に立ち上がろうとする――
だが、その瞬間、隊長の野太刀が背中を裂いた。
装甲の奥にあった機構が露わになり、内部の機械音が狂ったように鳴り始める。
焰虎の咆哮は悲鳴に変わり、それでもなお立ち上がろうとする――
だが姐さんは、冷徹な剣を右後脚に振り下ろした。
「ドンッ!」
また一つの脚が断たれた。
ついに、焰虎の巨体は砂塵を巻き上げて完全に崩れ落ちる。
もはや、それはただの瓦礫だった。
戦いの終焉は、静かに訪れた。
姐さんは大剣を高く掲げ、その目は焰虎の露出した中枢を射抜いていた。
深く息を吸い、全身の力を一撃に込めて――
「はああああっ!!」
雷鳴のごとき一閃。
剣が焰虎のコアを貫通し、金属が砕け、まばゆい閃光とともに中枢が破壊される。
「ヴゥゥゥ……」
低く響くうなり声を最後に、焰虎の身体は震え、やがて――
「ドンッ!!」
爆発。
爆心地には火と煙が渦巻き、熱風が周囲を襲い、一瞬ですべてを飲み込んだ。
炎が収まったとき、そこには――
ただ、燃え尽きた骸が残るのみだった。
焰虎の残骸は動かず、戦場には静寂が戻っていた。
夕日が沈みかける空の下、赤く染まった残骸と崩れた壁に、哀しげな光が射し込む。
戦いが終わった後、二つの影が瓦礫の脇に寄りかかっていた。
その呼吸は荒く、炎が消えたばかりの空気の中で、二人の身体は燃え尽きたように重たく沈んでいた。
オーバークロックの反動が容赦なく襲ってくる。
体中に刻まれた負荷紋が、まるで焼印のように肌を灼き、赤黒く浮かび上がっていた。
そこからはじわりと蒸気が立ち昇り、わずかに熱を持っていた。
心臓が一度鼓動するたびに、筋肉と神経が燃えるように痛んだ。
彼らは身動きもできず、ただ荒い呼吸のまま、汗を垂らしていた。
汗が頬を伝って灰まみれの地面に落ちるたび、白い蒸気が小さく立ち昇る。
姐さんの声はかすれ、苦しげだった。
「……ジャナ」
「え?」
「見習いの本名よ……」
「……」
隊長は黙り込んだまま、俯いて地面を見つめた。
答えることができなかった。
失ったものがあまりにも大きく、名前すら重く響いた。
「……ゲホッ、ゲホッ……」
不意に、大叔の荒い咳き込みが沈黙を破った。
彼の姿が遠くから、よろよろと近づいてきた。
左肩の包帯は血で濡れており、すでに傷口は裂けていた。
右腕の皮膚は黒く焦げ、高温の炎で焼かれた跡が生々しく残っている。
「小鬼は……無事か?」
疲れ切った声ながらも、彼はいつもの調子を崩さずに尋ねた。
隊長は起き上がろうとしたが、右足に激痛が走り、思わず呻いた。
「っ……!」
見下ろすと、すねに深々と裂けた傷が走っていた。
骨が見えるほどの傷跡――焰虎の爪によるものだろう。
オーバークロックの最中は、痛みなど感じなかった。
だが今、強化が解かれたことで、抑え込んでいた痛覚が一気に押し寄せてきた。
「チッ……」
隊長は倒れ込むように元の場所に戻り、唇を噛んで呻いた。
背中を地面に預け、呼吸を整えながら、力なく呟く。
「小鬼は大丈夫……気を失ってるだけだ」
掠れた声の中にも、わずかな安堵の色があった。
彼の視線は、少し離れた場所に倒れている小鬼――ジャナの身体に注がれていた。
顔には砂塵がかかっていたが、胸が小さく上下していることが唯一の救いだった。
だが――その言葉では、姐さんの感情は止まらなかった。
彼女はもうこらえきれず、顔を伏せ、張り詰めていた感情の糸が切れる。
頬を伝う涙が、灰と汗にまみれた顔に、ひとすじの清らかな痕を刻む。
大叔はそれを見て、無理やり笑った。
「見習いの方が俺よりずっと役に立つな。あの“絶対零度”、完璧だったよ。……俺なんか、地面に寝転がってただけだしな。」
そう言って、彼は苦笑を漏らした。
この重苦しい空気を、少しでも軽くしたかったのかもしれない。
隊長もそれに応えようと、わずかに首を横に振りながら言った。
「そんなことない。あんたが火炎放射を受け止めてなかったら……俺たちは……」
言葉の続きを紡ぐ前に――
「ドォン!!」
突如として、大叔の立っていた場所が爆炎に呑まれた。
あまりにも唐突な閃光と轟音。
燃え盛る火柱が一瞬で立ち昇り、その場を飲み込む。
それは、焰虎の残骸とは比にならない規模の大爆発だった。
爆風はあらゆる方向に拡がり、瓦礫も空気も、一切を押し流していく。
「……」
隊長と姐さんは地面に横たわったまま動けず、ただその火の海を見つめていた。
耳の奥がジンジンと鳴り、言葉も息も失われる。
目の前の光景は、まるで時間が止まったかのようだった。
彼らの喉は詰まり、言葉を発することができなかった。
――ただ、静寂と残響だけが、その場に残されていた。




