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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天使の生まれる日

作者: 兎紙きりえ

船を漕いだ。


といっても、公園にある大池の貸出スワンボートだ。


30分200円の割とリーズナブルな値段で学生でも利用しやすいのがお気に入り。


白鳥を模したボートはシミ塗れで色褪せ、かつての清廉さとはかけ離れたように、されども奥まった羽の隙間や割れたペンキには純白であった頃の面影だけを残していた。


他にも何隻か停留しているものの、幸い、私以外の利用者は居ないようで、動いてるところは滅多に見ないが、この時間に限っては大池の只中に浮かんでいるのは私の乗ったボートだけだ。


だだっぴろい池の中、私を乗せたボートが波紋を伴っては少しずつ水面を走っていく。足元のペダルをキコキコ漕ぐごとに、ゆっくりと。


池の中頃にきたところで私はぐるりと辺りを見渡した。


閑散としている。鳥の声も、虫の鳴る音もない。


ボートの側面に波の当たる音だけが聞こえてくるのを確認した。


しめたっ!そう思い、リュックを開けて、そしてもう一度、ぐるり。池の周りを見渡してからドサドサドボンと、その中身を捨てていった。


ビニール袋で小分けにしたそれは薄茶に濁った水面に沈んでいく。


もわりとキノコの胞子みたいに水底の泥が巻き上がるのを見た。


水の濁りが強まって、沈んでいく影すら覆い隠していくのを見てから、私はすっかり軽くなったリュックを背負って公園を出た。


「この調子ならあと三回くらいかな」


軽くなった足取りで、町はずれのゴミ山へと向かう。


不法投棄のゴミに紛れた冷凍庫。


そこには残りの死体が隠してある。


運びやすいように細かくされたのはかつての親友であり、恋人でもある少女。


私はバラバラ殺人犯だった。






彼女を殺したのは春の終わりのころだった。


私を責め立てるように蝉がジージー五月蠅かったのを、震える指先の感触と一緒によく覚えている。


殺したかったわけじゃない。ただ、守りたかったというのはやはり自分勝手な理由だったと思う。


冷たくバラバラになって黒いビニール袋へと小分けにして詰められたそれは、殺す前まで深雪という名前をしていた。




深雪は大人しい子だった。


肩口くらいの黒髪を綺麗に切り揃えた生真面目そうな見た目で、実際、放課後によく一人で図書室で本を読んでいるような子だった。


出会いはたまたま。


なんとなく寄った美術室前の廊下に飾られたの絵を見たからだ。


蛇に絡みつかれ、堕ちていく天使の絵。


おとなしそうな彼女からは想像もつかないグロテスクで、力強く、怪物のような絵だった。


絵の真横には、やれ、どこのコンクールで大賞を取っただの、どこかの有名な評論家の長々としたコメントだの大層な飾り布と一緒に何枚も貼られていた。


だが、そんなものがどうでもよくなるくらい、私はその絵に惹かれていた。


引かれた線の一本一本、ごわごわと重ねられた絵の具の隆起、どす黒い心の内を曝け出したような色合い。


同い年の少女が描いた世界とは、とてもじゃないが思えなかった。


その全てが私を釘付けにした。


すぐ下には、作品名。


《天使の生まれる日》。


続いて受賞への淡々とした作者のコメントが遠慮がちに添えられていた。


まるで温度感が違っていた。


あぁ、この子は『特別』なんだと感じるくらい。


この子と友達になりたい、会って、話して理解したい。


彼女の見ている世界を、知りたい。


私は廊下を飛び出すと、図書館にいるであろう彼女の元へと一目散に駆けた。


当初困惑するだけだった彼女は、私を嫌うでもなく受け入れたようだった。


語らいは少なく、けれども彼女が絵を描く傍に、彼女が書を読む向かいに、ゆったりとした時間を過ごすうちに言葉は増えていく。


目の前で衝動のままに彩られる彼女の絵はたしかに、あの日感じた『特別』と似ていても、彼女自身は存外そうでも無いようだ。そんな風に思い始めていた。


そうやって、私たちは出会った。


彼女を殺す前の年の、春の事だった。





夏になった。


じっとりとした梅雨が過ぎ去り、真っ青に広がる空には雨粒一つの気配すらなかった。


燦々照り付けるような日差しの中、プールサイドの日陰に腰掛けていた深雪が私の名前を呼びながら駆け寄ってきた。


かけられたタオルがはためく度に、夏日の下に息を呑むほど白くすらりと細い四肢を、きめこまやかな肌を晒していた。


光が水面の反射するのを眺めても、彼女に及ぶべくもないだろう。


それほどまでに彼女の姿というのはいつだって煌めいて見えていた。


授業中は25メートルプールの半分を男女で分けていて、しかも反対側のプールサイドまでは距離があるというのに、ちらちらと舐めるような視線が彼女に集まっていくのがよくわかった。


わざとその視線を遮るように、水の中から身を乗り出した。


今ではすっかり意気投合して親友と呼べるまでの関係になっていた彼女に耳打ちをする。


「ねぇ、見られてるけど、いいの?」


「なにが?」


きょとん、と彼女が首を傾げれば、汗が頬に流れ、その黒髪を悪戯に這わせていた。


「あれよあれ、男子たちめっちゃ見てるじゃない」


私が言ってもピンときてないのか、それとも慣れっこなのか、特段気にするでもなく


「ふぅん、そう」


とだけ呟いて、それよりさ、と続けた。


「この後、時間ある?」


彼女は夏空のようにからりと笑った。


深雪から誘われたのは初めてのことだった。


行き先は隣町で開かれた個展。電車とバスを乗り継ぐ間に聞いたのは、今回の個展を開いていたのは、以前、深雪の絵に選考コメントを書いていた有名な画家の方だということ。


深雪から渡されたパンフレットには、遠目でとられた絵の写真と、顔写真付きで画家のインタビューなんかが載っていた。


「この人の絵、好きなの?」と聞けば、


「見たことない」と答え、


「じゃあ、なんで」と聞けば、


「どんな人が評価したのか知りたくて」と彼女は答えた。


やはり、彼女自身も『特別』なのかもしれない。


そんな確信が、少しだけ顔を覗かせていた。




並んだ絵を眺めて居た。


小さなホールの中、オレンジの暖かで、けれども柔らかな光が作品の一つ一つを照らしていた。


チェーンポールで区切られた通路に沿って森や川の自然を写し取ったような絵が並んでいた。中でも特に、人物画が多かった。家の中で笑う家族の絵。庭に遊ぶ家族の絵。


そんな幸せの一部をキレイに収めたような絵が多く並んでいた。


美術のわからない私が見てもなんとなく「あぁ、良い絵だな」って思える、そんな絵。


だから、満足して深雪の方を向き直るまで、彼女がどんな表情で今までの絵を見ていたかなんて知る由も無かった。


彼女は、この画家のどんな絵にその表情を浮かべていたのか今更知ることなど叶うはずもなかった。


冷たく、暗く、ただ、価値を見定めるためだけの目。


そこには自然の美しさも、幸せな家族の像も映っては居なかったのだろう。


やっぱり、彼女は『特別』らしかった。




秋になって、彼女の家に呼ばれるようになった。


この地域の中でも高級住宅地とされる地区。


庭付きの小洒落た家々が立ち並ぶ一角に、彼女の家はあった。


一際大きい、真白な家。それが彼女の家だった。


絵本に出てくるような白亜の城みたい。と言ったら


「そんなに大層なお城じゃないよ」と苦笑していた。


広がった庭先には手入れが行き届き、玄関に上がる時さえも、よく磨かれたフローリングに埃一つ落ちてないんじゃないかというくらい清潔感があった。


「なんか……静かだね」


私の言葉の通り、室内は異様なまでに静けさに満ちていた。


夕暮れなのもあって、外に響く鈴虫の鳴る音くらい聞こえてきてもいいものだが、防音が行き届いているのか、家に上がった途端に音は途絶えていた。


だからこそ、風の流れる音すら聞こえそうなくらいの静寂が家中に満ちているのだろう。


言葉を発するたび、一歩歩いては衣擦れの音がするたびに、異質なのが私たちのほうである、と家全体が言葉なく伝えてくる。


「家の人は居ないの?」


「うん、二人とも忙しいから」


私が堪らず口を開くと、淡々と深雪は言った。彼女には珍しく、言葉尻が強い。


それが、言及することを嫌っているのを察し、言葉を噤んだ。


息苦しい静寂は深まるばかりだ。彼女に連れられるままに階段を上がりながら考えていた。


けれども少しだけ、彼女には他の子とは違う世界を見えている理由が分かった気がする。


なんだ、そもそも、生きている世界自体が違うんじゃないか。


彼女が『特別』さが証明されたみたいで、内心喜んでいると、深雪が立ち止まり、ドアを開けた。


「ここが私の部屋だよ、入って入って」


先程までの空気が嘘のように、彼女は柔らかな笑みを浮かべていた。


踏み入れた彼女の部屋を表すのなら、上品という言葉がぴったりだろう。


薄緑のベッドに、毛の均されたラグの上にはガラスのローテ-ブル。


壁の一面は背の高いケヤキの本棚には大小様々な本と、これまた様々な国の言葉で綴られた本とで埋め尽くされていた。


そして、目に付く絵。絵。絵。


飾られた絵は風景絵に人物絵にと多岐にわたるものの、どれもがあの天使の絵に負けないほどに力強く描かれ、飾られている。


「飲み物とってくるね、なにのみたい?」


呆気にとられる私に、彼女が聞いた。


だが、家の規模や彼女の部屋の雰囲気にあてられたのもあって、自然なチョイスなど出来そうにない。


「深雪がいつも飲んでるのと同じでいいよ」


数分経って、お盆に二人分のカップとソーサーを乗せた彼女が扉を開けた。


室内に酸味のきいた珈琲の香りが立ちこめた。


「ホントに私がいつも飲んでるのと同じでよかったの?」


心配そうな深雪を尻目に、カップを傾け、中の液体を口に含む。


黒く濁った液体は、泥水かと思う程に苦く、けれども、これが深雪の『特別』を構成している要素の一つだと思えば飲み込めた。


すると、こちらを覗き込んでいた深雪が突然顔をしかめては、


「飲んでるとき、こんな顔してたよ」


と笑った。よっぽど変な顔をしていたのだろう。


釣られて、私も笑う。


笑い合ってるうちに、窓から差す光は赤から深い青へと移り変わり、夜の訪れを報せていた。


部屋の電気は付いていなかったから、月明かりだけが室内の輪郭を露わにしている。


どこか幻想な光景は、まるで聖域のように、これ以上踏み入ってはいけないと暗に諭されている気がした。


「そろそろ帰るよ」と逃げるように立ち上がった時、


「待って!」これまで聞いたことがないくらい動揺した彼女の声が聞こえた。


振り返り、そして、はたと気付く。


その手が震えていることに。


そして理解した。言及を嫌った彼女が、それでも家に呼んだ理由も、彼女の『特別』さの理由も。それが意味する彼女の心根さえも。


あの描かれた衝動の裏に隠されたのは寂しさを、この聖域の中で一人、孤独に生きるしかなかった彼女の行き場のない激情を。


誰も踏み入れず、踏み入れさせずに居たその聖域に、既に私は立ち入っていたのだ。


そっと、彼女に近付いた。


窓の外では薄く雲が月を覆っていた。秋の空は少しばかりの暗く天蓋を落としていた。


震える彼女の手をとる。


その震えを誤魔化すように、キスをした。


今だけ、靡いた雲が月を隠した数秒足らず。


互いに近づけあった表情以外は見えない薄暗がりの中だけでいいから。


不安も苦さも溶け合って、『特別』な関係になって欲しかった。


甘酸っぱいと噂のキスの味だけど、現実は苦く、珈琲の味がした。


「付き合っちゃおうか」


顔を離す直前になって、秘密めいた声色で深雪が言った。


顔は見えないけど、じんわりと頬の熱が伝わってくるようだった。


そうして私は彼女と関係を持つことになった。


だが、付き合ってはいたものの、お互い恋愛というものに偏屈なようで


世間一般の、恋人らしいとされる行動を無意識的に避けていた。


変わらずの日々、けれども傍らにいると、前よりも少しだけ心が和らいだ。


相談ごとをするようになったのもこの頃だった。


互いに来年は受験生だということに気が付いた。


進路のこととか、将来の不安とか、それでなくとも愚痴とかたまに感じる不自由さだとか。


今まで話してこなかった何もかもを話すようになっていた。


内面をさらけ出すようになった。


それが、いけなかった。





冬になって、ある夜だった。私は泣いていた。


なにも見なくて済むようにと布団を被ってはベッドの上で震えていた。


早く忘れて寝てしまいたいのに、忌々しくも私の思考はつい数時間前の光景を思い出している。


ネオンライトの中で出会った深雪の背中。


私の姿を捉えるやいなや、逃げるように街の明かりへと消えた彼女を追いかけなかったのは、駅前のホテルから出てきたのが彼女だと信じたくはなかったからだ。


隣にいたのは誰かも分からない、小太りなスーツ姿の男性。


その顔には見覚えがあった。


パンフレットに載っていた、画家の顔写真が頭をよぎった。


深雪との関係なんて、聞きたくもなかった。


追いかけるでもなく、かといって


私はただ、呆然と家に帰っては布団にくるまっていた。


たぐり寄せた布団の感触の外には、ひどく冷たい世界がどこまでも広がっているようで、私を情報で押しつぶそうとしているようで、ただ、震えていた。




……その日から深雪が学校を休みがちになった。


最初のころは風邪だとか理由が伝えられていたけど、ついに先生が何も言わなくなったころになって、クラスメイトの間で黒い噂が立ち始めた。


あの夜の光景が目に浮かぶ。


言葉がよぎるたびに、そんな筈はないと自分に言い聞かせた。


信じたかったのだ。彼女の清廉さを。


だから、クラス内に彼女の黒い噂が広がる度、私だけは彼女の味方であろうとした。


そうして雪が溶け始める季節になって、彼女から、『母親になるかもしれない』と伝えられた時、私はどういう意味なのかを理解し、吐いた。


冬の雪が溶けきるまで、私と彼女が会うことはなかった。





また春になって、また、美術室に絵が飾られた。


コンクールの絵、大賞の絵。それは深雪の絵だった。


優しく、慈母のような柔和な笑みをたたえて、ヴェールの包みをひどく優しく抱きかかえる絵。


どこかで見たような絵が、そこにあった。


彼女の絵は変わっていた。そんな絵を描く子ではなかったというのに。


私には、あれだけ心を許していた彼女のことが、くっきりと見えていた彼女の輪郭がもうよくわからなくなってしまっていた。


ただ、目の前の絵が恐ろしく、少女だったモノが恐ろしく、親友が『女』という私の知らない別の生物になってしまった現実が


たまらなく恐ろしかった。


大人びて、妖艶な怪物になってしまった彼女を見るのが、嫌だった。


その絵を見ていると、絵の中の母とあの日の彼女の輪郭とが重なっていく。


その時だった。突然、ふっと頭の中の血液が全部沸騰してしまったような怒りが湧いたかと思えば、頭の先から真水でもぶっかけられたかのように底冷えするほどの寒気が全身を巡った。


私は、私すらわからなくなっていた。


そして、私は彼女を殺した。


彼女を、宿るその命を殺していた。





そうして私は彼女を殺した。


別に殺したかったわけじゃない。


殺さないといけなかったから、殺した。ただ、それだけ。


それだけだから今もこうして震えて蹲って泣いているのだ。


怖くて恐ろしくて震えている。


何が怖いのか、もうそれすら考えられないくらいに。


轟々と唸る雷と吹き荒れる風。大粒の雨が酷く打ち付ける音。


濡れた服が次第に体温を下げ、私から思考する猶予を奪っていく。


ここ数日何も口にしていないはずの口内が、今は、あの日に飲んだ珈琲よりも苦い。


体が震えるたびに奥歯がかたかた鳴って、痛い。


自分の存在を確かめるように、爪が食い込むほど強く体を手繰っていけば、切れた皮の隙間から血が流れでた。


けれど、今は傷口のするどい痛みさえも熱っぽい思考に塗りつぶされていく。


何も考えたくなくて、四肢を放り出すように寝ころんだ。


雨宿りに入った不法投棄されたキャンピングカーの中。


埃っぽい座席は冷たくて、割れた窓は悲鳴のような風切り音を上げ続けている。


それらすべてが私を責め立てるように、いつまでも、いつまでも鳴りやまない。


目を瞑る私自身さえも、瞼の裏にあの光景を焼き付けて責め立てる。


ゴミ山と呼ばれているこの場所で、あの子の死体について考えれば、悪夢のような現実が確実に私の心を削っていく。


一体、どうしてこうなってしまったのか。


一体、私は、どうすればよかったんだろうか。


どっぷり暮れた夜の闇は世界の輪郭すら奪っていく。


それは優しく、大蛇のように私の意識を呑み込んでいく。


またすぐに悪夢に起こされるのを望んで、私は一人。眠りについた。

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