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『もうこの世にはいねえ人』

 いつの間に帰ってきたのか、俺は自分が住んでいるアパートの部屋の前に立っていた。

 ……あれ? ていうか、どこに行ってたんだっけ? 

 外にいるってことはどこかに行ってたはずなのに、外出した記憶が全くねえ。

 ……まあ、いっか。俺は深いことは考えずに部屋の鍵を開ける。

 そして、部屋の扉を開けたその瞬間、むせ返りそうなほどの鉄の匂いが俺の鼻を襲った。

 ――あぁ、俺は知っている。俺は体験したことがある。でも、それはここじゃない。

 自分の意思とは関係無しに、体が勝手に動く。

 俺はあの時と同じように震える手でリビングの扉を開ける。扉の先はいつも俺が住んでいる家具の無い殺風景な部屋で、俺が想像していた光景はそこにはなかった。

 良かった……そう安堵の一息を吐いたその時、部屋の至るところに真っ赤な液体が飛び散った。

 部屋が瞬く間に真っ赤に真っ赤に染め上げられていき、あるはずのねえ丸机が部屋の中心に急に現れた。

 目の前がグラつく。息が浅くなる。フラフラとした足取りで俺は丸机に近付く。それも自分の意思とは関係無しに。

 丸机の上にも赤い液体は飛び散っていて、そこには小さなメモ用紙が1枚だけ置かれていた。

 やめろっ! 見るな! やめてくれ!!

 そう心が警鐘を鳴らしているのに、俺の体はどうしてかメモ用紙を手に取り、書かれていることを確認する。

 そのメモ用紙には……書かれていたはずの言葉が書かれていなかった。

 殴り書きのような文字で書かれていたあの言葉。

 いや……それだけじゃない。手に持っているメモ用紙自体も綺麗な真っ白で、俺の記憶の中にあるクシャクシャで赤茶色に汚れていたあのメモ用紙とは異なっていた。

 それに気が付いた時には、部屋に飛び散っていた赤い液体と丸机が消えていて、いつもの俺の部屋に戻っていた。手に持っていたメモ用紙も消えている。

 ……あぁ、そうだよな。もう8年前のことだ。それなのに、こんな幻覚を未だに見るなんてどうかしている。

 疲れもあるし、不安定な生活をしているから心がまいっちまっているのかもしれねぇな。

 そんなことを考えながら俺はその場に腰を下ろす。

 腰を下ろして……俺は隣に誰かがいることに気付いた。

 俺はつい反射でそいつの方を向いてしまう。

 そこにいたのは……母さんだった。

 手入れのされてねえボロボロの長髪。光の灯っていねえ虚な瞳。口から溢れ出ている大量の血。

 8年前に俺が最後に見たその姿で、母さんは俺の隣にいた。

 もうこの世にはいねえ人。

 母さんは淀んだ瞳で俺を捉えながら、赤に染まった口元の端を上げて笑い、こう呟いた。

 『何もかもお前のせいだ』――と。





 もう数え切れないぐらい見た最悪の夢から目覚めた俺は、住んでいるアパートから10分ぐらい歩いた所にある公園のベンチに座り、ぼーっと空を眺めていた。

 昨日に続いて今日も快晴で、雲が一つもない真っ青な空が眼前に広がっている。

 スマホを持っていない俺は手持ちぶたさになると、風景を眺めるのが癖になっていて……ん? いい歳した大人がなんでスマホを持っていないかだって? 不安定な生活をしているせいで電話料金が払えねえからだよ、言わせんな。

 まっ、風景を眺めるのが癖になってはいるが、それに何か意味があるわけではねえ。

 何もすることがねえから、ただ眺めているだけ。

 綺麗だとか、いい景色だとか、そんなことも俺は感じねえ。

 これは何の生産性もねえ無駄な時間だ。

 けれど、それはいつもの話で、今日は違う。

 いつもは時間が流れてくのを待つだけだが、今日の俺は人を待っていた。

 

「よう。待たせたか?」


 そう声をかけてきた俺の待ち人は昨日着ていた暑苦しそうなトレンチコートは着ておらず、黒色のスーツの長ズボンに半袖の白のポロシャツを着ていて、社会人のお手本のような服装をしていた。

 何やら黒い大きなショルダーバッグを肩に掛けているが……あの中には何が入っているんだろう? ……まっ、どうでもいいか。俺には関係ねえ。


「待ち時間が長かったら金でも貰えんのか?」


「いや、俺は待ち合わせの時間ピッタリに来たからな。ヒギリがどれだけ早く来て待っていようがそれはヒギリの勝手だろう」


「はぁ、なんだよ……わざわざ聞いてきたから期待しちまったじゃねえか」


「あんなの挨拶みたいなもんだ。それにどうせ待たせていたとしても、5分とか10分ぐらいの話だろ? 金を払うって言ったら『1時間とか2時間も待ったんだからウン万円よこせ』って、お前さんならそう言いかねなさそうだな」


 おっさんは無精ヒゲを触りながら苦笑する。

 俺は誰かに「お前ってこういう人間だよな」って自分のことを決めつけられるのが嫌いだった。

 ましてや昨日会ったばかりで俺のことを何も知らない人間に決めつけられるなんて、いつもの俺なら文句の一つや二つを言ってもおかしくはなかったが……今はどうしてかそういう気分じゃなかった。

 昨日、自己紹介をしてからも今日のことや今後のことを決めるのに長いこと話したのもあって、俺はこのおっさんと打ち解けた気でいるのか? 

 それとも、格好はマトモなのにセットされていない髪型と無精ヒゲのせいでだらしない印象を持たせる今のこのおっさんと似た人が、俺の身近な存在にいたからか?

 どちらにせよ、俺はこのおっさんに嫌な気持ちを抱かなかった。

 俺の父さんと……いや、雰囲気が似ているだけで、このおっさんと父さんの容姿は似ても似つかねえ。

 もう12年も前に亡くなった人だから、かなり父さんのことがお朧げになっているのもあるのかもしれねぇな……。


「昨日からの付き合いなのに俺のことよく分かってんな」


「……意外だな。ヒギリみたいな奴は他人から人間性を決めつけられるのが嫌いそうだから、舌打ちの一つでもするもんだと思っていたんだが」


「あ? なんだよ? じゃあお望みの舌打ちしてオマケに悪態でもついてやろうか?」


「あー、悪かった悪かった。お前さんと言い合いするつもりはこれっぽっちもない。本当に意外に思った、それだけだ。昨日話した時は何かと噛み付いてきたから、やけに素直な反応が返ってきてびっくりしてな。今日は心なしか、昨日のヒギリよりも話しやすい気がするよ」


 おっさんはそう言いながら、どうしてか嬉しそうに笑う。

 ……今まで色々な大人と関わってきたが、このおっさんは今まで関わってきたどの大人たちとも違った。

 そもそもの話、ここ数年の間、業務連絡とか客の対応とかでしか人とのコミュニケーションをとっていなかった。

 誰かとちゃんと会話を交わすこと自体がかなり久しいっていうのも、おっさんが他の大人たちと違うって思う一因であるのかもしれねえ。

 誰も俺のことを知ろうとはしなかったから……。いや、まぁ、別に知ってもらおうとはしてねえけど。

 このおっさんと一緒にいると……なんか調子が狂うな。


「……そういえば今日はちゃんとした服なんだな。昨日は真夏なのにあんなバカみてえな格好していたから、相当なお気に入りもんなのかと思っていたんだけど」


「バカとか言うな。あえてだ、あえて。あんな怪しい格好をしていれば、こんなバイトを誰も受けてはくれないと思ってたんだ」


 気が乗らない。自分から勧誘してきたくせにおっさんはどうしてかそう言いた気な顔をする。

 昨日、俺にこれからのことを説明する時も同じ顔をしていた。

 そんな顔をしていれば、せっかく勧誘に成功した俺が心変わりするかもしれねえのに、それを一切隠そうとしねえ。

 なんなら俺が「やっぱりやりたくない」ってぬかせば、このおっさんは安堵の表情を浮かべてそれを承諾するだろう。

 なぜだか、そういう確信があった。


「おっさんはさ、どうして嬉しそうじゃねぇんだ? 勧誘してんだから、バイトを受けてくれる奴が見つかったら普通は喜ぶだろ?」


「好きで勧誘しているわけじゃない。バイトなんだよ、俺も」


「バイト? 勧誘のか?」


「そうだな。……あー、いや。バイトって言うのは少し語弊があるか。金が出るには出るが、言うなれば友人の頼みだな。金に困っていて、信頼出来てかつ危ない目に遭ってもいい人間。友人の中でその条件を満たしていたのが俺だった」


「それって向こうはおっさんのこと友人だとは思ってねえんじゃねのか?」


 俺のその発言におっさんの眉が僅かに動く。

 一瞬だけ怒りのような感情が垣間見えた気がしたが、おっさんはすぐに普段と変わらない表情に戻した。

 俺のあけすけな言葉は人様をよく怒らせている自覚はある。

 さっきの俺の安易な発言でおっさんを怒らせる……までには至ってはいないものの、多少のイラつきは感じているかもしれねえ。

 でも、俺は言いたいことをハッキリと伝える性格だから、俺はそのまま言葉を続ける。


「他人事だからあんまこんなこと言いたかねえけどよ……おっさんは都合のいい人間で、そいつはそれを利用しているだけだろ。そんなの友だちって言わねえよ」 


「それは違うな、ヒギリ。人間関係の呼び方なんて他人がなんて言おうと、当の本人たちがそう思っていればそれでいいんだよ。俺にとってそいつは友人で、友人も俺のことをちゃんと友人だと思ってる」


「じゃあ、なおさらおかしいだろ。バイトを受けてくれる奴がいないとおっさんは金を貰えねえし、友人を困らせることになるじゃねぇか。やめたい、なんか言わねえからハッキリ言ってくれ。うしろめたい何かがあるならよ」


「うしろめたいことか……そんなのあるに決まってる。申し訳ないことにそれをこの場で言うことは出来ないがな。ただ、一つだけ言える確かなことは俺は何も嘘はついていないってことだけだ。命の危険性は無しで報酬は300万円。でも、俺の正直な気持ちを言えば、ヒギリには『やめたい』って言って欲しいところだな」


 おっさんは俺の目をジッと見据える。

 その顔は笑っていない。真剣そのもの。

 今までおっさんは表情では語っていたものの、やめておけと促すようなことを口に出して言ったのはこれが初めてだった。

 ……命の危険性は無しで報酬は300万円。それでも、やめた方がいいとおっさんは言う。理由として考えられるものがあるとすれば――


「やっぱり副作用か? 目が見えなくなるとか、体の自由が効かなくなるとか?」


「副作用は無い。なんならこのバイトが終わった時、ヒギリは今よりも健康になっているかもしれない」


「……だったらなんで?」


 その俺の疑問におっさんは即答する。


「絶対に不幸になる。絶対にだ」


 絶対――その言葉を強調するようにおっさんは強く言い切る。

 おっさんの声には確信があった。

 ……不幸になると言い切る理由を聞いたところで、おっさんはそれに答えないのだろう。

 不幸になる、か……。俺は今の自分の人生を振り返る。

 幸せとは言えないにしても、不幸とは言えない。中途半端。それが今の俺の人生だ。

 不幸になんて当然なりたかねえ。

 なりたくはねえけど……生きている意味を見い出せない今の人生に比べたら、いっそのこと不幸になってしまった方が、ちょっとはマシな人生に変わるかもしれねえ。

 死にたいとは思っていない。だけど、生きたいとも思っていない。

 そんな退屈で寂しい俺の考えが変わるのなら、たとえ不幸になったとしても、このバイトを受ける価値はきっとある。


「それでも、俺はやるよ」


 俺のその返答におっさんは額に手を置いて、はぁー、と深いため息を吐いた。

 あからさまな態度をとりながら、俺の様子をチラチラと確認してくるおっさんに「悪いけど心変わりはしねえよ」と言うと、おっさんは諦めた表情を浮かべ、公園の入り口の方を指差した。


「あそこに待機している白のハイエースが見えるか? あれでヒギリを連れて行く。が、場所を知られるわけにはいかないから睡眠薬を飲んで眠ってもらうことにはなるんだが……」


 おっさんはそう言って、ショルダーバッグから白い錠剤が2粒入ったケースとペットボトルの水を俺の前に差し出す。

 ちゃんと説明したうえで、飲み物とかに混ぜて飲ませようとしてこないあたり、俺を騙してどうこうということはないだろう。……まぁ、そもそもが高額の治験のバイトっていう怪しい話だし、騙すもクソもねえと思うが。

 俺はおっさんから錠剤の入ったケースを受け取るや否や、錠剤2粒を口に入れ、水でそいつを流してやる。


「あっ、おい! ……ヒギリ、お前さん少しは躊躇というものをだな……」


 呆れ顔で苦笑するおっさんの顔が一気にボヤける。

 飲んだ睡眠薬は相当強力なものなのか、俺の意識はすぐに微睡の中に落ちていった。

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