序-獣
落ちる、落ちる――。
暗く、月明かりもない闇の中。天から落ちる。
落ちた先、潰れた紙パックは木々の葉に弾かれながら、地面に広がった赤い液体の中に沈んだ。
血溜まりの中央には服も何もかも持たぬ少年が倒れ伏しており、今にも途絶えそうな息遣いが僅かに水面を波打たせていた。
やがて光の無い黒い森の中に、唯一の光源が差し込む。油の差し込まれた金属製のランタンを左手に揺らしながら現れた、黒い布を継ぎ合わせて作られたローブを羽織った2m程の巨漢。
その男は赤い血溜まりに倒れた銀髪の少年を見ると、数瞬の間顎に手を添えて思案したが、考えるまでもないと言う様に動き始めた。
少年を血溜まりから引き摺り出すと、血潮がローブに掛かる事も気にせず肩に担いだ。
カラン……カラン……とカンテラの揺れる音と男の足音だけが森の中に響いた。動物や虫たちの声など、不気味な程に存在を感じられない。
ここは――そういう場所だった。
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酷く視界がぼやけていた。
体はぬるま湯に浸かったような感覚のまま、全身は繭で包まれたかのように身動きが取れない。
頭の中では自分の記憶なのかすら確かではないものを見せられている感覚のまま、映像が流れていく。
初めに聞こえたのは――重く低く、足の竦むような獣の叫び声。
初めに見えたのは――白い体毛の獣。人の二倍はあるであろう体躯で目の前の少年に飛び掛かった。程なくして首筋に牙を立てられた少年。銀色の防護服は容易く破れ、中から赤くドロリとした血液が漏れ出る。
それを見て――何かが胸の奥底から湧き上がる。焦燥感と絶望に近い悲しみが。私を襲った。
あれは――彼は無くしたくない程大事な人で、それが目の前で消えていく。そういった感情だった。
守ると言ったのに、足が竦んで何も出来ない自分に怒りが湧いてきた。
だが――そんな怒りも口を赤く染めた獣が私へ視線を向けたことで吹き飛んだ。
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水面から飛び出したような感覚と共に、目を開く。同時に荒い呼吸が繰り返される。
目の前には薄暗い木製の天井。部屋は僅かな明かりで照らされており、自分は粗末だが大きい木製のベッドに横たわっていた。
さっきの記憶は何だ……? 私は誰だ? 遠くから眺めていた感覚が、いつの間にか没入していた。考えれば考えるほど酷い頭痛を覚え、ベッドから這い出す。私は――私は……。
私はベッドから転げ落ち、鈍い音が部屋に響く。
「起きたのかい」
部屋を照らす焚き木の側には身長2m程の顔に大きな傷のある巨漢が佇んでいた。音で気付いたのか私に声を掛けてきた。
「あう……わた……し……は……わたし……?」
喉に何かが詰まって上手く声が出せない感覚があった。針金が胃まで伸びているような不快な感覚が。記憶と自己が曖昧で自分が誰なのか全く思い出せない。
そんな困惑している様子を見てか、巨漢はベッドの側の姿見を指さした。
鏡には10代半ばぐらいの少年が写っている。当然だが今の自分と同じく、頭を抱えており苦悶の表情を浮かべている。
瞳は鈍い紫色が焚き木から出る赤色と混ざっていた。鼻は高すぎず小さめで、中性的な顔立ちに眉に掛かる程度の長さの銀髪が揺れている。転げ落ちた毛布だけが腰の下に巻かれている以外は生まれたままの格好であった。
どこかその姿を見ると、腑に落ちたというか、しっくりと来る、という感覚を覚え思考が鮮明になり始める。
「お……おれ……は……」
言葉はまだうまく出なかった。俺は自分の名前もまだ思い出せない。
「混乱しているようだね」
巨漢が呻く俺の言葉を遮った。獰猛そうな見た目とは違った、どこか諭すような話口調だった。
黒い布のカーテンが巻かれた窓から、次第に朝日が入り込む。
「ここは――黒き森。捨てられた物、必要とされないと思われた物が最後に流れ着く場所」
「黒き……森?」
「きみは皆から必要とされなくなった。もしかしたら自分自身からもね」
その言葉を聞きながら俺は自分の目を疑った。朝日はローブを着た巨漢を照らしていくと、その姿がみるみるうちに縮んでいくではないか。体が、骨が、肉が音を立てながら形を変えている。
巨漢だった者は10秒も跨がぬ内に、俺よりも歳若い少女の姿へと変貌した。
「もちろん――私も例外ではない」
陽の光に照らされた少女はどこか悲しそうに眉をひそめ、そう告げた。