序
“毎晩眠りにつくたびに、私は死ぬ。そして翌朝目をさますとき、生まれ変わる”
――マハトマ・ガンディー
道徳、というものをご存知だろうか。
人が通るべき“道”があり、それを通り経験することで“徳”を得る……といえばとても耳障りは良いだろう。
だが世界は広い。家族には家族の、学校には学校の、社会には社会の道徳がある。国境を跨げば価値観など無数にある。
無数にある道徳という価値観の共通点はなにか、道徳とは何なのか。
――道徳とは躾である。道からはみ出た者は出る杭を打つように、見えない鞭で叩くのだ。まかり通っている道徳に疑問を提示しても、集団という巨大な手に押し潰される……それが――。
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「え~、資源が貴重な時代ですから。ちゃんと節約、リサイクルをするのが“当たり前”であり。当たり前の事を、当たり前にできる人間が道徳のある人間ということになりますねぇ」
私は糸を引くような粘着質な声を、話半分に聞きながら、ぼんやりと考え事をしていた。
「え~、皆さんはこの世界に生きているだけで、必要とされている人間ということは間違いありません。ですからこれから道を踏み外さないように。人から必要とされる人間になりましょうねぇ」
率直に言って耳障りが良い言葉だなと思った。声の耳障り自体は全然良くないな、とも。
そして私の頭の中には疑問が残る。
道を踏み外した人間は誰からも必要とされなくなるのだろうか。
道を踏む外す人間の中には、理由がありそうせざるを得なかった人もいるのではないか。
道を踏む外した人間を必要としていないのは――この社会なのではないか、と。
私の思考とは関係なしに鳴る、授業終了のチャイム。
挨拶もそこそこに、クラスの全員が帰り支度を始めており、私もそれに続いた。
「新田。ちょっと廊下に出て下さいねぇ」
筆記用具を鞄に詰めたところで出鼻をくじかれた。ため息を吐きながら、鞄を椅子に置き廊下に出る。言われることは何かわかっている。
「髪を染め直して来なさいねぇ」
教師は紫に近い桃色に染まった私の髪を指差し、そう言った。
私は煮え切らない表情を隠すわけでもなく出してから、はい。と短く返事した。先程、綺麗事を並べていた教師の値踏みするような視線がとにかく不快で、一秒も早くここから抜け出したかったし、抜け出した。
教室に戻り帰り支度を終えた時、廊下側の窓を見やると、制服の似合わない巨体の女生徒がこちらを見ていた。
見知った顔に軽く会釈をしてから廊下へ出ると、彼女は周りをはばからぬ大声を私に向ける。
「リンリ~ン! さっきゴトーに絡まれてたよね~! ゴショウ
ショーさまって感じ!」
うるさいぐらいのその声に、私は吹き出し笑った。いつもの事の言葉の間違いは訂正せずにただ笑った。
「え~、今笑いドコロあった~?」
「いや……いいよ。心配してくれてありがとね」
私達は帰路についた。私の頭に漂っていた疑問や不快感を吹き飛ばしてくれた礼に、紙パックのジュースを1つ奢って私も買った。
思い出せば、彼女と出会ったのも自販機の前で同じものを買おうとしてぶつかったのがきっかけだった。
おおよそ私とは真反対と言える彼女と居るのは楽しかった。
簡単に割り切れる社会の異常さに、押し付けられる道徳の歪さに頭を悩ませ、排斥されないように擬態している私の価値観。
そういうのが馬鹿らしく思えてくるのだ。彼女を見ていると。
「……ねぇ」
「なぁ~に? リンリ~ン」
「“要らなくなった人”って……何処行くんだろうね」
「知ってるよ~! クロモリってところ行くって聞いたもん!」
“黒き森”ね、と苦笑いしながら飲み干した紙パックを握りつぶす。再生紙特有のザラつきが指を伝う。
認識されないもの、かつ多くの人必要とされないものは“黒き森”に落ちる。物も、人も……。昔から伝わる信仰であり、伝承で――事実だ。
「私が聞きたいのはそういう迷信みたいな話じゃなくて――」
そこまで舌から出して、止まる。頭に疑問符を浮かべている彼女を見たら、やはりどうでも良くなってきた。
彼女に出会えて良かったと思う。私は社会の道徳に合わせて擬態することは出来たけど、それを続けてたら今の価値観で見れば不幸になっていたと思う。
今の生き方が好きだ。自由が好きだ。
……だけどこの生き方では“生きられない”。道徳は私の自由を許さない。
だから、彼女に出会ってしまったことは不幸とも言える。
――だけど。
「いや――それでいいや」
いらない、と呟いて握り潰した紙パックを道端に放り投げた。
それは夕日に照らされた電柱に落ちると、みるみるうちに影と同化し“消えた”。
「あ! リンリン超ワルじゃ~ん!」
変わらない大声が響いた。
私も行き方を変えなければああなるのだろう。
でも――まだ、今暫くはこの時間を楽しませて欲しい。
いつかは生まれ変わって、私も大人になるのだから。