混沌の解読はスズランの香りの声で -3-
「みのりん~!ついに今日から始まるんだね。」
朝の照会が終わって、今日も疲れきって机にうつ伏せになっていた私をユキが勢いよく起こしてくれた。
「う······うん、そうだね······」
「あ、そうだ、ユキちゃん~?」
前のドアから出ていたかすみ先生がまた戻ってきてユキちゃんを呼んだ。
「はい~!」
ユキはあっという間にかすみ先生についていった。
会話のできるひとがいなくなった今、クラスメートのおしゃべりの間に、私はまたゆっくり眠りにはいった。
昼休みになるまでの授業をほとんどうつぶせに寝ながらつぶした。
休みの時間の度に寝ているから、ユキも私を配慮してくれたのか声をかけてこなかった。
昼休みになって、かばんからコンビニで買ってきたサンドイッチを取り出した。
ユキは待っていたかのように、自分の弁当を持って私のそばにやってきた。
「サンドイッチ!自分で作ってきたの?」
「いや、コンビニで買ってきたんだよ。 そんなに手先が器用でもないの。」
「昨日もサンドイッチ食べなかった?」
「うん、そうだね。」
「コンビニでずっと買って食べると健康に良くないよ! ご両親がお弁当作ってくれないの?」
「心配してくれてありがとう。 両親は家にいないので。」
「え?どこにいらっしゃるの?」
「お父さんは韓国で職を得て、韓国で生活している。」
「そうなんだ······お母さんは?」
「お母さんは私が幼い頃亡くなったって。」
「あっ、ごめん······」
「大丈夫。とても幼い時なので覚えてないよ。 あまり気にしないで。」
「うん······」
「そろそろ相談教室に行ってみなければならないようね。」
「あ、うん!がんばれ!」
「ありがとう。」
相談教室への道では、多くの友達がそれぞれペアを組み、さまざまなテーマで会話を交わしていた。
昨日放送したTV番組、最近SNSで人気の映像、カフェで発売された最新メニューなどのテーマを楽しく語る声が、お互いに廊下に活力を吹き込んでいた。
あまりにも平和で平凡な高校の姿だった。
その真ん中を横切る私は、私とはあまりにも異質な姿に眼前に広がる風景をただ漠然と眺めているだけであった。
無意識的に聞こえてくる話に一つも共感できないことについこの場にいる私という人は異質すぎるのではないかと思った。
ユキも親しい誰かとこんなに会話をしているのかな。
そう思いながら窓の外を眺めた時には、少しずつ小雪が降っていた。
気が付いたら、相談教室までの道のりにピリオドを打った。
相談教室に入ってすぐにしたのは、案内文を作ることだった。
「ノックをお願いします。 ノックしても反応がなければ、ドアを開けて入ってきて寝ている人を起こしてください。」
昼ご飯を食べた後や、学校の授業を全部終えて静かな部屋に一人でいるときっと眠そうになると思って、メモを書いてドアの外に貼った。
そうやってやってくるかもしれない相談者をとめどなく待ち始めた。
私の目は、目の前の静寂な本棚と棚を見ることに飽きて、それに従って、私の体も自然と窓に向いた。
寒い天気にもかかわらず、運動場は活気に満ちていた。
誰もいない部屋で人を待ってばかりいるから少し退屈で、少し寂しかった。
いつも私の心を締め付けているそのような寂しさとはまた違った、単純に人との接触がなくて静かな部屋で感じる寂しさ。
学校ではいつもそばにいたユキの声がなかったためか。
いつも孤独に包まれているような私に、こんなささいな寂しさが感じられるなんて、ちょっと興味深くもあった。
ずっと何もしないでいるのは気が進まなかった。
窓を背にして数多くの本が積まれている本棚の前に向かった。
しばらくの間、本を見て回り、一冊を選んで机に持ってきて座った。
座って本を読んでからある程度時間がたってから、だんだんまぶたが重くなってきた。
誰もいない虚空にしきりに頭を下げてあいさつをしているうちに、ノックの音が聞こえた。
ノックの音はここが図書館ではないこと、 これから人と向き合って相談を進めることもできるということを私の脳裏に刻み込んだ。
まさか初日から誰かが訪ねてくるとは本当に予想もしなかったので、あっという間に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
まさか初日から誰かが訪ねてくるとは本当に予想もしなかったので、あっという間に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
ずっと何も答えずにはいられなかったので、震える胸をつかんで深呼吸をした。
「はい。入ってください。」
ゆっくりとドアが開き、三年生とは見えない、一人の男の子が入ってきた。
「こんにちは······」
声は弱く、震えていた。
「前の席に座ればいいよ。」
「名前は何?」
「山下そら······です。」
山下そら。
その名は、 まるで静かな水面に石塊を落としたように、 私の心を揺り動かした。
何も知らない、相談に来た生徒に不安な姿を見せることはできなかった。
あえて目立たないように、揺れる瞳を正し、震える心を深呼吸でいやしてくれた。
「そう。どんな用件で相談教室に来たの?」
「あ、あの、用件は······」
「何があったのか、言いにくいことかな?」
「······」
私は静かに起き上がり、そらの後ろに向かって縮こまっている体をかばってあげた。
「人はね、誰でも心の中に自分しか開けられない錠前があるんだ。 ところで、その錠前を閉め続けていたら、誰もその人の本心が分からないだろう。 時にはその錠前を外さなければならない時もあるんだよ。 そしてその鍵は君にある。」
「······」
「大丈夫。私を信じて。 必ず守ってあげる。 何か間違っても、全部責任を取るから。」
あまりにも無謀で責任感がない気がするが、私の心は目の前のそらの本心を確かめたいと、確固たる意志を見せていた。
「いじめを、やられています。」
「······勇気、出してくれたね。 ありがとう。よくやった。」
高ぶった感情をやっと静め、また席に戻って座り、質問を続けた。
「いじめなら、具体的にどのようないじめ?」
「お金を、奪われています。」
「そらの声は依然として震えていた。」
「それだけなの?」
「······はい。」
予想通り身体的な暴力に関する話は出さなかった。
「そら、私は今きみを尋問しようとしているのではない。 むしろ隠そうとするともっと大変になるかもしれないよ。」
「顔を······殴られたりしました······」
「そんなことをした人は誰なのか、知っている? もしかして多数の人なの?」
「いいえ、一人です。」
幸い、複数の人に暴力を受けているわけではないように見えた。
「じゃ、その人の名前は知っている?」
「えっと······名前は······」
当事者の名前を言うことにはためらいがあるように見えた。
確かにその人の報復を恐れているのだ。
「そら、これからこのことについてはサザエにこれ以上被害が及ばないように約束するよ。今度一度だけ私を信じてくれ。」
私は小指をそらの前に突き出して言った。
一瞬の静寂が流れた後、ソラは本人の小指を差し出した。
私はほほえみながら指をかけた。
「名前、長門夜架です。」
「よくやった。」
そらの目から涙がぽたぽたと落ちた。
やがて、そらは今までの恐怖、迷い、悲しみをすべて吐き出すように、声を出して泣き出した。
私は静かにそばの棚の上にあった紙くずを渡した。
落ちるそらの涙は、私の心の中の「怒り」という感情の植木鉢をぬらした。
だれがこの哀れな魂を汚したのか。
だれがこのきれいな心に傷をつけたのか。
だれがそらを傷つけたのか。
うつむいて泣いているそらを見つめながら力の限りこぶしを握った。
こぶしを握りしめて、 駄目押しをした。
必ずあいつがそらに謝るように作ろうっと。
そらがある程度落ち着いた後、話しをかけた。
「今日は頭が痛いと言い繕って早退しよう。 そして明日もできるだけ仮病でも使って出ないようにできるのかな?」
「······はい。」
「信じてくれてありがとう。あ、そしてもしもの時のために連絡先を交換しておこう。」
「ありがとうございます。」
そらはかすかな笑みを浮かべてあいさつをし、相談教室を出た。
あの笑顔を守りたいと、あの笑顔をいつかもっと大きくしてやると。私は誓った。
相談教室の中である程度考えを整理した後、すぐ職員室に向かった。
昼休みがほとんど終わっていたので、先生たちはみんな授業の準備に忙しそうに見えた。
だれのじゃまもなく、 出席簿をさがして出した。
長門夜架。
その名前を探したかった。
その名前を切望した。
そらのために。
私のやり場のない怒りのために。
3年A組、長門夜架。
私と同じクラスだった。
静かに出席簿を伏せて、教室に向かった。
教室に入ると鐘が鳴って、クラスの友達は全員自分の席に向かった。
私は教室の前の座席表から夜架の名前を探し、その席に座っている生徒を確認した。
その時ふと、こんな気がした。
『今すぐ私に何ができるのか?』
『長門夜架。その人が誰なのか調べて何をどうしようと言うべきか?』
『どうすればそらが謝られるようにすることができるんだろう?』
整えない感情の表出は問題の解決に全く役に立たなかった。
いや、むしろ、こんな不安定な怒りだけでは、状況をさらに悪化させるだけであった。
頭を抱えて苦悩にふけっていたら、いつのまにか午後の授業が全部終わっていた。
「みのりん~一緒に帰ろう!」
「あ、うん。」
立って帰る準備をしていたとき、聞こえてくるユキの声に思わず頭を上げて答えた。
それから急に頭痛がした。
短い時間にたくさんのストレスを受けて、その緊張があっという間に解けたので禁断症状が来たようだった。
かばんを探って水と余分な抗うつ剤を取り出して大急に飲んだ。
「みのりん······?大丈夫?どこか痛いの?」
ふらつく体をユキが支えてくれた。
「うん······偏頭痛があって······」
鬱病による抗うつ剤禁断症状とは言い難かった。
今日の放課後相談教室は休もう。 私が家まで送ってあげる。
「いや、大丈夫。ユキも早く帰らないと······」
「ダメよ!途中で倒れたりしたら危ないじゃん!みのりんが嫌だと言っても今日は私が最後まで連れて行ってあげる!」
ユキの意地は簡単には曲げるとは見えなかった。
「わかった。」
「はい。」
ユキは自分の手を差し出した。
私は黙って差し出した手を握った。
「みのりん、大丈夫?」
赤い夕陽が敷いてくれるレッドカーペットを二人で静かに横切る中で、ユキが聞いた。
「うん。薬飲んである程度良くなったみたい。」
「よかった。」
「なんか······なんか高校3年生になって誰かの手をつないで家に帰るのは妙な気分だね。」
「うん?そうかな? 私はみのりんと手を握って行くのが好きなんだけど。」
「そう言われると照れくさいじゃん。」
「へへ~」
「ユキ。」
「うん?」
「誰かの心を傷つけた人は、同じように傷ついてもいいのかな?」
「うん?うーん······他人を傷つけた人が罰を受けるべきなのかは分からないけど······ せめて傷ついてもいい心はないと思う。」
傷ついてもいい心はない。
ユキのその言葉は、濁った心を瞬く間にきれいにしてくれるようだった。
何も言わずにユキの手を握って行って、気がついたら、いつの間にか家の近くまで着いていた。
「もうすぐ近くだよ。 送ってくれてありがとう。」
「無理しないで、ちゃんと休むんでね?」
「うん。暗くなったから気をつけてね。」
「うん!また明日。」
蛍光灯がけたたましい音を立てて割れ、部屋の中は一瞬で静かになった。
手から赤い血が流れ落ちた。
これで、いいんだ。
そらのために。
私のために······




