三題噺①
風が吹いた。風は、土手に沿って植えられた桜並木から花びらを浚って、川に落としていった。夜を映した川が、薄紅色を纏う。そこに、淡い光を宿した紙灯龍が一つ、静かに流された。もう一つ。もう二つ。続くように幾つも、幾つも。
私はその光景をぼんやりと眺めていた
────灯篭流し。
死者の魂を弔うために、川に紙灯龍を流す行事。
私の地域は一風変わっていて、お盆の時期が夏ではなく春だ。それも、桜が満開の頃。何故かと言えば、この辺りでは桜が咲くとその美しさに誘われて、死者の魂が現世に戻ってくると言われているからだ。花見もお盆的な意味を持ち、やってくる死者たちの分まで飲み物や食べ物を用意する。だから、桜が散れば、魂をあの世へ送り出すために灯寵を流す。
私の手にも、一つの紙灯篭があった。まだ火を灯していない。まだ……送り出す勇気がない。
クロ、という名前の犬を飼っていた。柴犬に近い見た目の雑種犬。全体的に黒っぽい毛並みをしていたので、私は安易にクロ、と名付けた。人懐っこく、私が帰ってくる気配を察すると玄関前まで走ってくるのがとても愛おしかった。幼い頃からずっと一緒だった。大切で、大好きな、家族の一員。
……一週間前、病気でクロはこの世を去った。
鮮明に目に焼き付いた、動かなくなっていく、クロの姿を思い出しては、自分の心にぽっかりと空いた穴を自覚する。
わんっ、と後ろで犬の声が聞こえた。思わず振り返る。小さな男の子の元に駆け寄る茶色の柴犬が見えた。
ほんの少しだけ、期待してしまった。そんな自分に苦笑いを浮かべる。その後、泣きそうになった。いるはずがない。 いるはずがないのだ。分かっているのに、まだ受け入れられない。
「ほら、貴方も、火をつけて、流してきなさい」
立ち止まったままの私の背中を、母がそっと押した。
手に抱える、紙灯篭を見る。そこにはクロのイラストを描いていた。
母に促されるまま川辺に座って、渡されたライターでそっと火を灯す。
「ちゃんと、お別れしないとね。安心して、クロの魂があの世へ行けるように」
「……うん」
この地域の灯龍流しにはもう一つ、意味がある。
この世の者が、死者にいつまでも執着しているとその者の魂がこの世に縛られ、彷徨ってしまう。だから、お別れをし、心に区切りをつけ、この世に留まらせてしまった魂をあの世へと導くために、灯篭流しをする。
私のこの気持ちも、きっとあの子を心配させて、あの世に行かせられていない。
だから今日、私は、きちんとお別れをする。そうして、クロの死を受け入れよう。
静かに、灯篭を川に浮かべた。ゆっくりと押し出す
「ばいばい、クロ」
母が私の頭を撫でた。途端に、ぼろ、と涙が零れる。
「大丈夫、大丈夫。いつかこの喪失感も、大事に、大事に、抱きしめられるようになるから」
「うん……」
誰かが歌を口ずさんだ。穏やかな旋律。この地に古くから伝わる歌だ。
それは故人を偲び、その魂が安らかであるよう祈る歌。またいつかの世で生まれ変わって、巡り合えることを願う歌。
その歌は、徐々に広がって、いつの間にか皆が歌っていた。私も口ずさんでいた。
灯火が遠く、流れていく。離れていく。
「来年、きっと桜を見に来てね、クロ」