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プロローグ

 通いなれたはずの道が、今はまるで彼女を拒んでいるかのようだった。

 全身の力を両足に収束させて脱兎のごとく駆けているにもかかわらず、一向に家にたどり着けない。

 自分の周囲の景色はたしかに流れているのに、なぜだかちっとも進んでいる気がしない。これじゃ迷子みたいだ。通いなれた道のはずなのに……。


 今すぐ泣き出してしまいたい衝動に駆られながらも、フィリアは赤みがかった髪を大きく揺らしてうしろを振り返った。

 やっぱりまだいる。『ソレ』は追ってきている。

 彼女が今いるのは、なんのへんてつもない通学路。中央に両側一車線ずつの幅のせまい車道があり、それを挟んで一段高い歩道が備え付けられている。フィリアがいる側の歩道は、車道の反対側が公園に面していた。


 その公園の端にある木の一本が、突如黒く歪んだように見えた。

 いや、見間違いではない。たしかに歪んだ。

 歪みはだんだんと木の根に近い部分に集まり、その色を濃くしていく。と、次の瞬間、歪みから『ソレ』が這い出てきた。まるでせまい出口から無理やりに抜け出ようとしているかのように、あがくようにゆっくりと。声は聞こえないが、その様子は唸り声を上げているように見えた。


 新しく生まれた『ソレ』は、出てきたときの緩慢な動きが嘘のような素早い跳躍を見せ、フィリアの背後に降り立った。一つ、二つ、三つ……三つめ! 先程から彼女を追っていた二つと合流し、『ソレ』は三つになった。三つになって追いかけてくる!


 逃げなきゃ! 振り返っちゃだめ! 強くそう思おうとするが、背後から迫る圧倒的な威圧感と恐怖感に耐えることが出来ず、フィリアは走りながら何度も首だけでうしろを振り返った。

 『ソレ』はまるで黒い影のようだった。人の形をした黒い影。

 それにゼリーのような軟質の立体感を持たせ、禍々しくめり込むような重量を加えた物。

 そんな印象を覚える。漆黒の全身でただ一点だけ光る赤い目が、その物の敵意を示す警告に感じられた。

 あれは敵。捕まったら殺される。

 フィリアは直感的にそう思った。だから逃げる。どこまでも、どこまでも。


 まばらではあるが、周囲には人がいた。何度か車ともすれ違った。

 しかし、どうしてか彼女はそれらに助けを求める気にはならなかった。

 無駄だと思ったのだ。

 周りの人はただの風景。だからみんなこの現状に気付いてくれないし、助けてくれない。

 逃げるしかない。自分の力で……。


 公園が途切れた先でフィリアはせまい路地に逃げ込んだ。

 アパートとビルの隙間にできたその路地は、人一人がどうにか通れるほどの幅しかない。

 しかも小さなスペースにいくつもの建物がひしめいているために、隙間隙間を抜けていくこの路地は迷路のように入り組んでいる。

 ここならやり過ごすことが出来るかもしれない。

 そんな微かな期待を胸に秘め、彼女はひたすら走った。


 オレンジ色のティーシャツに、水色のショートパンツ。

 それに動きやすさ重視の男物のスニーカー。

 年頃の女の子としてはどうかと思うほどの色気のない格好だが、今日だけは本当にこの服装でよかったとフィリアは思った。

 クラスのみんなみたいにスカートにピンヒールなんてはいていたら、とっくに捕まってしまっているに決まってる。それにしても……。


 どうしてあたしがこんな目に……。


 わからなかった。

 この六日間はなんだったんだろう。あたしが体験した不思議な六日間はなんだったんだろう。

 まるで自分だけが周りの世界から切り離されて、一人ぼっちで置いていかれたような……そんな寂しい日々だった。

 そして挙句の果てにこの黒い影。あたしを殺そうとする黒い影。


 これはいったいなに!? どうしてあたしばっかりが!


 今度はこらえきれず、大きな目に涙が浮かぶ。

 せっかく朝セットした髪は汗で濡れてべったりと潰れてしまっているし、前髪は目にかかってうざったい。

 もう息をするのもしんどいくらいに疲れたし、喉も渇いたし、足も痛いし、さっき腕も擦りむいたし……とにかく辛い!


 できるなら、小さい子どものように大声を出して泣きじゃくりたい。

 そんな思いに苛まれていたフィリアの目に、一筋の光が差し込める。暗い路地を照らすその光は、まるで遅れてきた神様がようやく「こっちだよ」と終わりのない迷宮のゴールを告げてくれているかのように彼女には見えた。

 とっさにフィリアはうしろを振り返った。

 黒い影はいない。どうやら振り切れたらしい。だったら……。

 フィリアは涙を拭い、ぼやけていた視界をハッキリさせた。

 そしてその体に残っていた最後の力を振り絞り、馬車馬のごとく勢いで地面を蹴り進む。

 もう少し……この路地を抜ければ家まではすぐだ。あたしは逃げ切ったんだ!



 しかし、光が目前に迫ったその刹那、フィリアの中で言いようのない違和感が生まれた。なにかおかしい。


 これは……さっき?


 そう、さっきだ。さっきもこの光を見た。そして抜け出した。光の先に。そうしたら……また通学路に戻された。そしてまた走って、この路地に入って、それで……。


 繰り返している? これじゃまるで……。

 

 そのとき、フィリアの目の前にあったはずの光がなにか黒い物に覆い隠された。

 まるで一筋の希望を打ち消す絶望の闇のように広がるその黒い物体は、徐々に存在感を濃くしていく。

 そして、形を成していく。先程からずっと彼女を追いかけてきた、黒い影の形を成していく。

 考えるよりも早く体が動き、フィリアは急停止して踵を返した。だが、途端に彼女は愕然としてしまう。いなくなったと思っていた三つの黒い影。それがせまい路地をひしめき合いながら迫ってくるのだ。

 前後を恐慌に支配され、フィリアは自分の考えの甘さを思い知った。

 繰り返しているんじゃない。あたしは徐々に追い詰められていたんだ。

 だが今さらそれを知ったところでもう遅い。逃げ道はない。もう……だめだ。

 もはや完全に諦めで埋め尽くされた彼女の心は、過酷な現実から目を背けることを選んだ。


 あぁこれがおとぎ話や映画だったら……。

 このピンチにかっこいいヒーローが現われて、あたしを助けてくれるんだろうな。

 それで恋に落ちて、世界を救って、それでそれで……。

 まぁなんだかんだでハッピーエンドなんだろうな。でも……。


 頬をつっと涙が伝う。

 それを感じて数秒経ってから自分が泣いていることに気付いた。

 せまい路地の冷たい壁に背を預け、向かう先のない視線を泳がせる。右からは一つ、左からは三つの黒い影。輪郭は人間そのものなのに、動きがどこかぎこちない。

 フラフラと漂っているような歩き方だ。武器になりそうな物は持っていない。どうやって人を……あたしを襲うんだろう。

 すると、まるで彼女の問いに答えるかのように、黒い影の赤い目の下が裂け始める。

 そして二つに割れたその部分から、なにか鋭利な刃のようなものが覗いた。

 口だ。口と牙。

 なるほど。と、フィリアは思わず笑ってしまった。

 黒い影は、彼女の体など一飲みに出来そうなほどの大口を開け、上から覆いかぶさるように迫ってきた。

 あぁもう死ぬんだ。

 涙が止まらなかった。諦めたはずなのに、悔しくて悲しくてしょうがなかった。

 どうしてこんなことに? 嫌だよ。嫌だ。こんなの嫌だ。


「いやぁ! 誰か助けて!!」


 胸を締め付けていた思いはついにはち切れ、喉を裂かんばかりの声となって吐き出された。



 ――そのときだった。

 なにかとてつもなく鋭い物が風を裂く音が耳に飛び込んできたかと思うと、フィリアの眼前まで迫っていた牙が、黒い影の頭部ごと吹き飛んだ。

 まるで膨らんだ風船に針を刺したみたいに一瞬の内に。

 頭部を破壊された黒い影は、残った上の部分からだんだんと色を薄くしていき、ついには完全に消え去ってしまった。

 フィリアにはなにが起きたのかわからなかった。

 残った三体の黒い影も同じ心境なのか、ピタリと動きを止めてしまっている。


「まずひと~つ」


 路地の出口の方から聞こえたその声に、フィリアはハッと息を飲んだ。

 そして、これ以上ないというほどの早さで首をそちらに向ける。

 声の主は少年だった。

 フィリアよりも一つか二つ年下に見える。

 ハイスクールの一年生くらいだろうか。

 きれいな銀色の髪に、燃えるような緋色の瞳。

 この辺りではまず見られない珍しいデザインの黒い服には、瞳の色を冠しているかのような赤いラインが入っている。そして、背負っているあれは剣のように見えるが……。


「いやぁ、危ないとこだったな。でも、もう大丈夫だぜ」


 少年はヘラヘラと緊張感のない笑みを浮かべながら、フィリアに歩み寄ってきた。

 すると、それに瞬時に反応して三体の黒い影が微かに動いた。まるで現われた少年を新たな標的として据えたかのように。


「おっ……来るか?」


 黒い影の意図が伝わったのか、少年の表情にわずかだが緊張が走ったように見えた。

 三体の黒い影は、フィリアのことなど忘れてしまったかのようにその前を通り過ぎ、ジリジリと少年との距離を詰めていく。


 徐々に縮まる間合い。

 動かないところを見ると迎え撃つつもりなのだろうが、少年は一向に構えをとろうとはしなかった。

 背負った武器のような物にも触れようとさえしない。

 そうこうしているうちに、少年と黒い影との距離はかなり狭まっていた。

 黒い影が地面を蹴れば、一足飛びで少年の頭を食いちぎれそうなほどの距離だ。

 それでも少年は動かない。代わりに不敵に笑ってこう言った。


「今だ! いけ、リュウ!」


 少年の声が途切れるより早く、なにかが動いた。そのなにかは少年の背後から突如跳び上がり、彼の頭を手で踏みつけてさらに高く跳躍する。

 拍子に少年の「いてっ」という小さなうめきが聞こえたような気がした。

 跳び上がったのは少女だった。栗色の髪を左右で結った少女。

 高く高く跳び上がったその少女は、女のフィリアの目から見ても美しかった。

 まるでこのままどこまでも高く、背中に隠した天使の羽をはためかせて飛んでいってしまいそうなほどに。


「自分で戦えないなら、前に出ないでください」


 上空からのその声は、生意気さを音声化したような少年の声とは違い、だいぶ行儀よく感じられた。

 少女は無表情のまま空中で体を反転させ、頭を下に向ける。そしてスカートのようになっている腰の部分から、二つの輝く物を取り出した。


 天使の羽の代わりに取り出したそれは、青い拳銃だった。


 落下体勢のまま、少女は二丁の拳銃を自分の真下にいる黒い影に向ける。と、次の瞬間、二つの銃口から薄い色の筒のようなものが飛び出し、二体の黒い影を脳天から撃ち抜いた。

 体の中心を撃ち抜かれた二体の黒い影は一瞬にして消滅する。

 だが、その足下だった場所になにかが残っていることにフィリアは気付いた。これは……水たまり?

 フィリアが目を逸らしていたその一瞬の内に、少女は地面に着地していた。

 しかし、一瞬たりとも動きを止めようとしない。

 瞬時に残った一体の黒い影に向き直り、右手の銃をその頭めがけて撃ち放った。

 銃口から轟く風を裂くようなあの音。

 フィリアは片目をつぶって顔を背けようとしたが、それよりも早く黒い影の頭が吹き飛んでいた。そのとき、彼女は自分の頬に水しぶきがかかるのをたしかに感じた。


「いやー、あっけなかったな。楽勝楽勝」


 まるで自分の手柄であるかのように高らかに笑う少年。そんな少年に、少女は冷たい視線を向ける。


「あなたはなにもしてない」


「なんだと!」


 少年は少女に冷淡にあしらわれて怒っているが、正直フィリアも同意見だった。この少年はなにもしていない。


「べつにいいだろ。結果的にすぐ終わったんだから」


 言いながら少年は周囲を見回した。フィリアもそれにならって辺りを見回してみる。

 たしかに一瞬のことだった。あれだけ自分を追い詰めた黒い影を一瞬の内に消し去ってしまった。

 今この場に残っているのは、数箇所の水たまりだけだ。

 もしあとほんの少し彼らが来るのが遅れていたらと思うとぞっとしない。まさに間一髪だった。これって……。


「まるで映画みたい」


 フィリアは小さく呟いた。それが微かに耳に入ったのか、少年が思い出したかのように歩み寄ってくる。


「あんた、大丈夫だったか?」


 状況とは対照的に、なんとなく軽い言い方だった。こっちは死ぬ思いだったのに!


「大丈夫だけど……」


「そうか。ならよし」


 やっぱり軽い。

 フィリアはちょっと腹が立ったが、今は抑えることにした。

 そう、今はそれよりも聞いておきたいことがある。


「ねぇちょっと!」


 こちらから声をかけると、少年は少し驚いたように目を見開いた。


「なんだよ?」


「あなた……もしかしてあたしのヒーロー? もしくは勇者とか? あーもしくは……」


 言っていて、フィリアはなんだか自分で自分が恥ずかしくなってきた。

 あたしはなにを言っているんだろう?

 信じられないようなことの連続で、頭がおかしくなっちゃったのかもしれない。

 ほら、目の前の少年だって困った顔してる。


「それはちがうなぁ」

 

 少年は微かに口元を歪ませた。

 心なしか、ばかにしているようにも見える。

 そう思うと、フィリアは顔から火が出そうになってきた。

 だがそうではなかった。少年は真摯な瞳でフィリアを見つめると、彼女を指差してこう言った。


「この物語の勇者は……あんただ」

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