第三十五話:天魔
靴が石畳を叩く、乾いた音が反響する。
規則正しく、冷たい音を響かせる。
誰も居ない暗い道を、一人の女が歩いていた。
唇には寒色のリップが入れられており、絶世の美女といえる顔の造形ながら、切れ長の瞳がその冷酷な本性を現しているようでもあった。
しかし何より──この国の人間ならば、薄暗い中でなおその肌が目に止まったろう。
いや、この世界の、と言うべきか。その肌は、人間には無い青い肌だったのだから。
「ふん……平和ボケした人間どもが闘技場だなんて、本当に笑わせますこと」
その口からは足跡の様に、侮蔑の言葉が吐き出される。
それはまさしく言いがかりと表現するにふさわしいものだったろう。だが三百年前に辛酸を舐め、二度と同じ屈辱を味わわぬようにと力を磨いてきた彼女らにとっては、幸運なだけで平和を享受する人間が戦う技術を競う場所を建てているという事実が侮辱されている様に感じられる。
だがその声は、嬉しそうに弾んでいた。
何故ならば──
「楽しみね。力自慢で集まって来た未熟な魔術師達が、阿鼻叫喚に包まれる様が。力を競う舞台が壊れ、無力に泣き叫ぶ様が」
その思い上がりの象徴とも言えるそれを破壊する魔術を、これから仕掛けに行くのだから。
行き過ぎた悪戯のような感覚で、彼女は数百人を殺す爆弾を設置する。
調子に乗っているから悪いのだと嘲る為に。間違いを正してやる程度の感覚で。
それが愉快だからこそ、声には愉悦が交じり、溢れて出てくる。
……とはいえ、それを口に出すのは少々迂闊ではないか?
そんな疑問に答えるとすれば、否である。
今、この闘技場には強烈な人払いの結界が張られていた。
よほど手練の魔術師でなければ、この闘技場の存在にさえ気がつくことが出来ないだろう。
気がつくことが出来るのは、ほんの一握りの魔術師達。大魔術師ガーディフか、あるいは勇者フレアくらいのものだろうと自負している。……あるいは、天魔テオ=イルヴラム。
だがあれは一過性の天災の様なものだ。戦争で現れたのが魔族にとっての不運であり、人間に取っての幸運だった。彼女らはそう認識している。
そういった開放感もあり、悪巧みの愉悦もあり、魔族の女性──魔王復活を企む四災が一人『雷帝エイナ』は悠々と人間達の建築物を闊歩していた。
偲ぶこともせずに、人々への憎しみを口にしながら──ついに、闘技場の舞台へと繋がる扉に手を掛け、そして大仰に開け放った。
「……ろくな使い方をしないものほど立派ですわね。成金根性とでも言うのかしら?」
舞台を一瞥し、鼻を鳴らして吐き捨てる。
言葉の通り、舞台は立派なものだった。石畳で均された舞台は傾斜も隆起も凹みもない。
使用用途を考えれば、よく手入れされていることは一目にしてわかる。
それがまた、気に食わない。どうせ遊びにしか使っていないのだろう。研鑽してきた三百年を茶化されたようで、エイナは歯を噛みしめる。
まあいい。それもこの後のメインディッシュのスパイス程度にはなるだろう。
エイナは闘技場に足をかける。
中央へと歩いていき、身を屈める。
「──」
人間の耳には聞き取れない言語を紡ぐと、エイナの体から微小な光が溢れ始めた。
徐々に、秒針が時を綴る様に魔法陣が描かれていく。
やがてたっぷりと五分ほどを掛けて複雑な陣が刻まれると、陣は薄っすらと色を落としていき、完全に隠匿される。魔力の残り香さえ感知できなくなるのを確認し、エイナは小さく息を吐いた。
「上出来ね。範囲は絞ったけれど……ふふふ、爆心地に居た者はきっと黒焦げでしょう。我ながら慈悲深いものだわ」
ひと仕事やり遂げたエイナは満足気に笑い、その成果に思いを馳せる。
雷に打ち据えられて表面のみが炭化し崩れ落ちた傷口。近くで雷撃を受け疑問にさえ思わず炭になった少年少女。その香りを近くで確認できないのは残念だけれど──
人々が突然の惨劇に怯え逃げ惑う姿。友を、家族を目の前で喪う絶望。それらさえ見られれば、十分に過ぎる。
当日が楽しみだ。これでしばらくの間、穏やかに眠れそうだ──と。
踵を返した、その時だった。
「……なるほど。何が目的かはわからないがくだらない事をする奴がいたものだ」
聞き慣れない少年の声が響き──突如として、なんの前触れもなく少年の姿が現れた。
「……ッ何者!?」
混乱よりも驚愕よりも先に、エイナの体が対魔術師戦の構えを作る。
しなやかな体勢から垂らすようにした両の手に、黄金色の魔力が集う。
「いや、いいわ! 死になさい!」
腕を掲げ、魔力を投げつけるように振り払う。
鞭のような動きで腕が撓り、魔力が解き放たれた。
──同時に。獣の喉を裂くかのような、悲鳴にも似た轟音。
雷の魔力が解き放たれ、少年の体を激しく打ち据えたのだ。
彼女はこれを、自らの二つ名にちなみ『雷霆』と呼んでいる。
瞬きの間に落雷を発生させ、対象を撃ち抜く魔術だ。
腕を振るうたった一動作で発生し、超速度・高威力・必中の一撃を放つ超々超級の大魔術である。
「(瞬きの間に発生し、山に落ちれば全ての生命を瞬きの間に絶命させる死の落雷! この小僧が何者でも関係はないわ!)」
エイナが『雷霆』に寄せる信頼は大きい。だからこそ、同時に正しく威力を評価している。
山に落ちれば、伝った電撃はあらゆる生命を瞬時に焦がし、絶命させるだろう。物理的な威力だけでも大岩を砕き、鉄を撃ち抜く。
──あれこれと述べたが、要は回避不能の神速から放たれる必殺の一撃だ。
放てばなんの感慨もなく命を奪う、エイナが雷帝たる所以。『三英雄』が出てきても問題はないと、魔人達が豪語する自身を支える至宝の魔術。
だからこそ、エイナは違和感を覚えた。相手の命を奪って当たり前の大魔術を放ったというのに、祈るようにその力を思い浮かべた自分の思考に。
「……ふむ、威力速度共に大したものだ──が、こんなものか」
未だに傷一つ、焦げ跡一つなく、落胆の表情を浮かべ立っている少年の姿に。
「……!? ──ッ!?」
突如訪れた非常事態。時限魔法の設置を見られるというありえないアクシデント、口封じを失敗するという幻覚のような現実。
そして──期待はずれだと、少年の評価。
目の前のあらゆる環境が、エイナから冷静さを失わせていた。
「おッお前は! お前は一体なんなんだァ!」
いくつものありえない現実が重なって、エイナは己の置かれた理不尽を叫ぶように少年に問う。
『雷霆』を見せたにも関わらず、落胆さえ見せる少年は、質問の意味をたっぷりと考えてから──はっとして手を打ち、答える。
「テオ=イルヴラム。お前達──魔族には『天魔』の方が通りがいいのか?」
天魔テオ=イルヴラム。その名を聞いて、エイナの動きが、表情が固まった。
『三英雄』の最後の一人にして、魔族にとっては不倶戴天の敵。
時に天災にさえ例えられる、理を超えた存在──
「て……テオ=イルヴラムですって……!? バカな、だってあの男はお前の様なガキでは……!」
「わけあって今は学生として行動しているのでな。別に信じられぬというのならそれでも構わん」
自分で言いながらにして、エイナは己の言葉の愚かさに思い至る。テオ=イルヴラムならば己の姿を変えるくらいは容易いだろう。
それよりも──
「何故……今になって人間界のこんな場所にお前がいるのよ……!?」
ただただ重くのしかかる理不尽に、エイナは涙さえ声に含ませて、不運を呪うように叫ぶ。
三百年の研鑽を積んだ自分ならば、今の自分達ならば三英雄など──テオ=イルヴラムでさえ、最早問題にならないと思っていた。
そう、問題にならない。今の自分達でさえ、テオ=イルヴラムには。
虫が噛む程のダメージさえ与えることが出来なかった。一矢報いることさえ出来ない。毒を持っていても、皮膚さえ破れないのでは意味がない。
詰んでいた。この男がこの場にいる時点で、何もかもが。
三百年、ずっと復讐を誓ってきた男を前にして、たった一度、自分から攻撃魔術を放っただけで──エイナの心は、折れていた。
「人間界に人間がいて何故も何も無いだろう。私には魔族のお前がこの場にいることの方が不自然に思うが──しかし問題はそう、それなのだ」
憎きテオ=イルヴラム。だが今や彼の紡ぐ一語一句が、エイナの命を永らえさせる。
恐らく自分はここで死ぬ。だって、わかるのだ。
漏れ出る──という言葉ではとても表現できない、豪瀑の如き魔力が、その感情を──怒りを叩きつけてくるのだから。
「最近、私は弟子の育成を楽しみとしていてな──何かと、あの子のことは気にかけているのだ。危機を知らせる魔道具なんかを持たせたりして──くく、随分とらしくないことだろう? とはいえ平和な世だ。命に関わる危機などそうそう訪れないとは思っていたのだが──あろうことか、弟子の晴れ舞台を控えたこのタイミングで、持たせた魔道具が危機を知らせてな」
言葉ではにこやかで、笑い声さえ交えて、テオは説明する。
テオの紡ぐ一語一句。それがエイナにとって命の猶予である事は紛れもない。だが同時に、その一語一句が心を凍りつかせる。
「答えてもらおうか? 何故貴様の様な魔族が、『若鳳杯』の舞台である闘技場にいる? そこに刻まれた破壊魔術の陣はなんだ? どういう意図でそれを刻んだのか答えろ」
語調こそは、平坦だ。だが、語気の強さが、何よりも魔力に乗った感情がその怒りを表している。
どう答えるべきなのか? エイナはかつて無いほどの速度で頭を働かせる。
……嘘を吐く? 出来るわけがない。真偽を見破る程度、あの男ならば容易いだろう。
正直に話す? 出来るわけがない。正直エイナにはテオの言っていることの一割もわからなかったが、この場に破壊魔術を仕掛け、この闘技場に集まってくる人間を虐殺しようとしていたなど。
エイナの顔に、玉のような汗が浮かぶ。
口が開き、閉じる。それを三回ほど繰り返して──エイナの瞳が、決意を宿す。
「誰がお前などに答えるものか……! ここでお前を殺し、魔族の夜明けとしてやるわ!」
それを予想していたのだろう。テオが、ため息を吐き出す。
明らかに見下した態度に、エイナの怒りが戻ってくる。復讐の誓いが思い返される。
最初に放った『雷霆』の、十倍はあろうかという魔力が収束し、掲げられる。
天災がなんだ。自分の力だって、全力ならば災害の被害など悠に超える。
「はああああッ! 魔族に! 栄光」
「ない」
だが──地形に影響を及ぼす魔術の発動を、テオが許すはずがない。
雷よりも早く、テオはエイナに接近する。
エイナは、時が止まったかのような感覚を覚えた。
無感情な瞳が、自分を見上げている。手が添えられている──という事実までには、気がつくことが出来なかった。それほど短い時間。
それが、彼女が最後に見たモノとなった。
直後──エイナの体を、認識さえ出来ぬ間に太陽を凝縮したかのような熱が駆け巡る。
自分が死んだことさえ気づかずに、雷帝と呼ばれた魔族の女は虚無の灰となった。
後は、風が彼女のいた痕跡さえも極小の単位まで散らしてしまうだろう。誰にも、自分にさえ認識されないまま、彼女は自分達が施した魔術により──魔王を復活させるための術式に組み込まれ、永劫の辛苦にさいなまれることになる。
「……ああ、頭に血が昇ってしまったな。吐かせる手段など幾つもあったというのに」
一方で。
テオ=イルヴラムは自分のしたことに驚いていた。
何故こんな事をしたのか。先のことを考えればそれを聞き出してから始末すべきだったはずだ。
あの口ぶりでは、後を託す者もいるのだろう。何かしでかす度、処理に動かされるのは面倒だと、舌を打つ。
そうさせたのは、彼の持つ弟子の存在だ。
鈴が知らせた生命の危機。それを取り除くことは、今したようにあまりにも容易い。
だが、それでも。害意を持ってアリエッタに危機を運ぶ存在が許せなかった。
「我ながら、アリエッタが絡むとどうも短慮と言うか……反省せねばならんな」
情けなさそうにため息を吐き出して、テオは地面を見下ろす。
巧妙に隠された破壊の魔術を一瞥し、念じると、エイナが刻んだ魔術式はガラスが砕ける様な音を残し、消滅する。
「……と、そろそろ学園に戻らなければ授業に遅れてしまうな」
多分、明日には『雷帝エイナ』の記憶もテオの頭からは消えているだろう。魔族が何やら企んでいて、闘技場に細工をしていた……という記憶は残りつつも、個人の魔術師としてのエイナは、テオに何も残さなかった。
『門』を開き、テオは学園へと変える。
昼休みを利用して片付ける、簡単な仕事。この一件は、結局テオの記憶にその程度のこととして刻まれたのだった──




