第二十八話:新しい日常
ここしばらく、退屈を感じていない。
窓の外の目が痛いくらいの青空を見上げて、ふと私は弾んでいる心に気がついた。
ヴァレンスが紡ぐ、とうに知っている内容の授業。それは以前の私であれば退屈で仕方がないものだった筈なのだが。
横目でさり気なく視線をやると、そこには真剣に板書をするアリエッタの横顔が見える。彼女にとっても既に知っている箇所のはずだが、復習を目的としているのだろう。瞳は鋭く澄まされており、張り詰めた空気さえ感じさせている。
だが黒板とノートとを行き来する視線が、ふと私の視線に気がつく。
するとアリエッタは刃の様に研ぎ澄まされた表情をふにゃりと緩め、笑みを返してきた。
ああ、わかっている。わかっているのだ。退屈を忘れたその理由。
見慣れたはずの笑顔ですら、知らない魔術を見つけた時のような衝撃を与える。この可愛らしい弟子がいるからこそ、つまらぬ人生に光が指しているのだ。
この晴れ晴れとした青空に、我が心を重ねて見てしまう。
人として生を受けて千五百年。まだまだ人生には面白いものもあるものだ。
とはいえ、ここの所刺激は少ないというのもまた事実であった。
アリエッタの成長を見守る日々は楽しく、やりがいもあるが、だからこそ彼女を成長させる出来事が少ないと張り合いのなさを感じるのもまた事実。
ここは一つ私自身が成長の機会を作ってこそ師匠というものだろうか。
となれば適度な魔物を召喚するか、古い知り合いを当たるか──
考え始めれば楽しいもので、どの程度の相手をぶつけるのが適切か、どういった状況ならばより彼女のやる気につながるだろうか、などと考えていると。
「それでは今日の授業はここまでとしよう。今日の内容は長く使うことになる技術だ。復習を忘れぬように」
ヴァレンスが授業の終わりを告げる。
良いか悪いか、退屈には慣れているが、この後はアリエッタの修行がある。楽しみを待つ時間はやはり長く感じてしまう。そういった感覚も久方ぶりのものであるので、悪い気はしないのだが。
授業が終わるととたんに喧騒が満ち始める教室。まさか千歳以上も年が離れている彼らと同じ感覚を持つことになるとは、不思議なものだ。
「あー静かに。今日はお前達に連絡事項がある」
しかし、ヴァレンスがそう告げると、喧騒は蓋をしたかのように収まった。
一応はここがエリート達の集まる場所、というのはこういう時にふと思い出す。
即座に聞く態勢を整えた生徒たちを見回して、表情にこそ出さぬもののヴァレンスは満足げだ。
「よろしい。ぼちぼち気になっている者もいるかもしれんが、『若鳳杯』の開催が近づいている。その件についての連絡だ」
静まり返った教室の中を、ヴァレンスの太い声だけがよく通る。
だが──『若鳳杯』。その単語が告げられると、生徒たちの間にふつふつと興奮が伝播していくのを感じる。
「『若鳳杯』ですかヴァレンス先生ッ!」
「そういえばそんな時期だった!」
そして、突沸。加熱した興奮が、一気に沸騰した。
若鳳杯。聞き慣れない言葉だが、生徒達の様子を鑑みるにそれなりに名のある行事の様だ。
「落ち着け! ……知らぬ者もいるだろうから説明するが、若鳳杯はセントコート魔術学園が主導して開催される闘技大会だ。参加資格は魔術学園に在籍する一年次生であること。これから本格的に魔術を学ぶ前に自分の力を認識しておき、やがて成長を実感する助けとするのが目的の腕試し大会とされている」
ヴァレンスの説明によれば、腕試しを目的とした闘技大会。若鳳杯とはその様なものらしい。
思わずほうと声が漏れた。
「私からすれば卵の殻を破ったかどうかという時期のお前たちに腕試しも無いとは思うのだが──いずれ、未熟だった自分を回顧する役に立てるという目的は非常に有意義なものだと考えている。ぜひ奮って参加してほしい」
腕試し。それは私がアリエッタをこの学園に送り込んだ最大の理由であったからだ。
ごく普通の者達と比べ、現状の自分がどれほど優れているか。比較対象が私しか居ない狭い世界から解き放つことで、自分の身につけた力の大きさを実感させる。
その目的を果たすのに、大会という行事以上のものはないだろう。
名門として有名なセントコートの特待クラスにあって群を抜いた力を持つアリエッタだ。出場すれば優勝は間違いない。
まあ一年次生限定の大会ということで強敵の存在は期待できないだろうが、元々はそれも予定していなかったことだ。
今はただ、我が愛弟子の晴れ舞台を観てみたい。
「と、言うわけでだ。これより一週間、若鳳杯の参加を受け付ける。出場の意思がある者は私に申し込むように」
それでは今日はこれで終わりとする。
ヴァレンスの宣告と共に、再び歓声を上げる生徒達──授業の終わりに沸いたのではない、華々しい祭りの開催に張り上げられる喜びの声。
私もまた、声こそ上げずとも強い喜びを感じていた。
ほくそ笑む様に口角を上げる。若鳳杯とやらには、私の愛弟子のステージとなってもらおう。
◆
……と、言ったものの。
飽くまでもアリエッタの活躍を観たいというのは私の考えに過ぎない。
アリエッタに出る気がなければ、関係の無い話だ。
私が言えば出るだろうとは思うのだが、それは私の我儘。最も優先すべきは飽くまでもアリエッタの意思だ。
しかし、それでもやはり見たい。我が弟子が称賛を浴びるその姿。だが……
「先生。どうしたのですか?」
あれこれと考えていると、知らず表情に出ていたのだろうか。
アリエッタが私の顔を覗き込んでいた。
「いや……なんでもない。アリエッタこそどうかしたか」
「何やら悩んでおられるように見えましたので……」
そんなに分かりやすかっただろうか。
考え事をしているのを見抜かれていたらしい。
「そうですわね。何やらいつもより険しい顔をされているように見えますわ」
と、最近修行に混ざりに来るようになったシャーロット。
……自分でそうと思っていないだけで、案外顔に出やすいのだろうか?
別にそれで困るというわけでもないのだが、なんとなく良い気はしない。
少し気をつけてみるか……と、まあそれはいい。
「いや、悩みというほどでもないのだが、若鳳杯とやらが気になっていてな」
隠すほどのことでもないので、答える。
若鳳杯という単語を出すと、アリエッタは頬に指を当てた。
「若鳳杯、ですか。先程ヴァレンス教諭が仰っていた大会ですね」
「大きな大会ですもの、テオさまでも気になりますのね。気になっておられる、と仰るのは?」
私の言葉に、それぞれの反応を見せるアリエッタとシャーロット。
この反応を見ると──アリエッタは、あまり大会に興味を轢かれていないように見える。
「いや……お前達は出るのかとふと気になってな。ああ、先に言っておくと私は出る気は無いぞ」
「ふふ、先生は今更腕試し、といった感じでもなさそうですものね」
そう、学生の中でも一年生を対象にした大会だ、私が出るなど赤子の玩具を奪い去るも同じ所業。今更その様なものに参加するつもりはない。
ないのだが──結果が見えていようとアリエッタの活躍を観たいというのが、難儀なところなのだ。
程度は違えど、結果が見えているというところは同じ。であれば、アリエッタが大会に意義を見いだせなくても無理はない。
「ただ、お前達が大会に出るならば見る意義もあると思ってな。それを少し考えていただけだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
アリエッタが穏やかな笑みを浮かべる。
「そういうことでしたら、大会に参加してみるのも良いかもしれませんね。先生以外の人と模擬戦をしてみるのも、偶にはいい刺激になるかもしれませんし……」
「それがよろしいですわ! アリエッタさんならきっと優勝間違いなしです!」
図らずも催促するような形になってしまったが、大会に前向きな気持ちを示すアリエッタ。
両手を挙げてもり立てるシャーロットに苦笑しているが、悪い気はしていないようである。
これは僥倖。興味を持つ形で大会に参加してくれるというのならば、これ以上のことはない。
「ああ、お前ならば間違いなくよい結果になるだろうな」
「ふふ、観ていてくれますか? 先生」
「当然だ。大いに期待している」
押した太鼓判は決して弟子贔屓しているだけのものではない。
まあ今更アリエッタの力は私でなくとも疑う余地は無いだろうが。
……楽しみだ。若き才能の集まる中、縦横無尽の活躍を見せる姿。
まさかこの歳で祭りに胸をときめかせることになるとは。わからないものだ。
「嬉しそうですわね、テオさま」
「……む、分かるか?」
「とてもわかり易いですわよ。前はわからなかったけれど、テオさまって案外表情豊かですものね」
……と、心中でほくそ笑んでいるつもりが、また顔に出ていたらしい。
数十年数百年を生きた老練の者にならばまだしも、ごく最近付き合いを始めた十五歳の少女にすら言われるとは。
なんだか年甲斐もなくはしゃいでいるようでみっともない気がする。
「……まあ、そうだな。楽しみだ」
しかし楽しみだというのは紛れもない事実である。
素直に返せば、二人から柔らかに笑みが返される。
笑われるというのは人生で何度もなかったことだが、それでも腹は立たなかった。
この二人に親愛の情を感じているからというのもあるが、今は機嫌がいい。仮に見も知らぬ者に笑われたとて、軽く流せるだろう。
祭りを楽しむなんていうのは、覚えがないことだ。年甲斐にも無いというのはあるが、若々しい気分と言い換えることも出来る。
楽しみ、と口に出す。自分でも驚くくらい良い機嫌におかしくなってしまい、吹き出してしまう。
ああ、楽しみだ。なるほど、なんとも悪くない──いや、いい気分であった。
若鳳杯とやらは雨天の場合はどうなるのだろう? 天候の操作など軽いものだが、なんらかの理由で中止になったら極めて不愉快だ。もしも邪魔をする者などいたら──
こんな思考がまた子供の様だと考えて、私はまた笑った。




