第二話:爽やかな朝に
私の名はテオ=イルヴラム。自他ともに認める、史上最大最高の魔術師だ。
食事も必要とせず、睡眠も必要とせず、性欲も完璧に律し切る事が出来る不老不死の存在──そんな私の朝というものは、それでも眠りから目覚める事で始まる。
不要とは言っても心地が良い事には良いからだ。
娯楽としての睡眠。それはいつ起きてもよく、いつまで寝ていてもよいものだ。
故に退屈で仕方がない時には一月ほど眠り続けた事もある。が、それは元々稀な事。特に最近──アリエッタを弟子に取ってからはちゃんと毎朝、決まった時間に起きている。
「あっ……先生! 朝食が出来ましたよ。今日は目玉焼きを焼いてみました。マーマレードも作ってみたのですが、パンと一緒にいかがですか?」
リビングへと移動すると、エプロンを着けたアリエッタが朝食を作って待っている。
これも、お決まりの光景だ。食事もまた、私には必要ではないものではあるが──
「お前が作ったものなら、いただこう。……いい香りだな」
「はいっ。そう言っていただけると、わたしも嬉しいです」
前言撤回。食事は心の潤いのためには必要不可欠のものである。
マーマレードは甘酸っぱい香りがなんともさっぱりとしていて、これぞ目覚ましいというものだ。
穏やかで、それでいて開く花のように爛漫なアリエッタの笑顔に、思わず私も頬が緩む。
──アリエッタが我が弟子となって、三年の月日が過ぎようとしていた。
極限まで無味無臭に引き伸ばされていた退屈な時間はもはや影もなく、濃密で刺激的な日々は矢のように過ぎていくようだと感じている。
その三年の月日での変化を最も強く感じるのが、この時間であった。
本人たっての希望で家事はすべてをアリエッタが取り仕切る事になり、それに伴って朝昼晩は食卓を囲みながら談笑などするようになった。
昔の私ならば暇に飽かしてムダな事をするようになったものだと嗤ったろうが、今この場にいる私ははっきりと言える。こうした『余裕』を無駄と馬鹿にしていたからこそ、あの無味無臭で無意味な日々があったのだと。
トーストにアリエッタの作ってくれた柑橘のジャムを塗る。
爽やかな香りがトーストの熱気に伴って立ち上り、一口かじれば良く焼き上げられたパンのさっくりとした歯ごたえが心地よさを強調し、次いで中のふんわりとした食感が甘さを包み込む。
「……美味い。砂糖の量が良い。この甘さは好みだ」
「ありがとうございます。先生の好みは把握していますから」
変化は私だけに訪れたものではない。
アリエッタもそうだ。彼女が家に来たばかりの頃にあった卑屈さのようなものは消え、今では非常によく笑うようになった。
穏やかで淑やかで、どこに出しても恥ずかしくない美しい娘になったと言えるだろう。
そう、どこに出しても──
「アリエッタ」
「はい先生。いかがなさいましたか?」
食事の手を止め、アリエッタの瞳を見る。
そうするだけでアリエッタも同じようにし、話を聞く態勢を整えた。
三年の月日は、矢の如く過ぎ去ろうとしている──
「前に学校に行かせるという話をしたな。その事について、少し話をしておこうと思うのだが」
「学校ですか……ではここに来てからもう三年にもなるんですね」
この話をするのは少し躊躇った。
弟子を取り、修行をつける。完全に思いつきで始めた事だったが、それは想像を遥かに超えて楽しく、今では私の生きがいと言っても過言ではないものとなっていたからだ。
生まれつきの魔力には優れなかったものの、アリエッタは勤勉でかつ頭の回転も速い。未熟故にその伸び幅は目覚ましく、めきめきと上達していく様を見るのは、若かりし頃に魔術を究めんと打ち込んでいた頃の自分を思い出す──
……いや、自らの心を偽る必要もあるまい。正直なところ、アリエッタと離れる事に乗り気ではないのだ。
この穏やかな時間も今や私にとってかけがえのないものだ。──この国の高等学校は三年間通う事になる。前までの私ならば一瞬と認識する時間だが、アリエッタの居ない三年間など想像もしたくない。
「その……学校は、必要なものなのでしょうか。昔は学校に通える事を嬉しく思っていたのも確かです。でも、先生の教えの方が、ずっと有意義なように思えます」
そしてそれは、アリエッタにとっても同じだと思っている。
言う通り、昔は彼女も学校に行けるという事を励みにしていた。が、今ではこうしてここに残りたいと感じられる事を言っている。
実際に魔術に関して言えば学校で教える事よりも私の教えの方がずっと優れているのは事実だ。魔術の深奥を見た私の教えは最短にして最優。いかにアリエッタの素質があったとはいえ、三年という月日で彼女を『今のレベル』まで育てられるのは私くらいのものだろう。
「それは事実だが、私では魔術以外の学問というものを──この国の常識というものを教えられん。自立し、外で暮らす際に最低限の常識がないというのでは困るだろう」
だが、教養となるとそうもいかない。
もしもこの先彼女が私の下を離れ、外で生活したいとなった場合、世の歩き方を知らないというのは問題だ。
「……わたしはずっと、先生の下で暮らしたいと思っています。それがご迷惑になるのでしょうか」
「迷惑になどなる筈がなかろう。が、それでも外でなにかやりたい事が見つからないとも限るまい」
「でも……いいえ、ありがとうございます。先生は、わたしの事を思って言ってくださっているのですよね」
「む……まあ、そうだな」
くすりと笑うアリエッタに、ついぶっきらぼうな返事をする。
全く、そういうのはわかっていても言わぬが花であろうに。が、まあ誤解されるというのも本意ではない。
「しかしだ、未熟なままに力試しというものもないだろう。その前に私なりの入学試験というものを受けてもらう。今のお前ならば容易く合格出来る課題を課すつもりだが、手は抜かぬように」
「勿論です。先生の仰る事にわたしが手を抜くなんて、ありえません」
言いつつも、私はアリエッタが手を抜くなどとは考えていなかった。
不老不死とはいえ、誰かと暮らす三年というものは短いとは言えない期間だ。お互いの事はよくわかっている。
……アリエッタの方も、私の本心など見通している事だろう。これが最強の魔術師の姿かと、まったくもって情けない話だと思うが、それも最早慣れてきた。
「食事を済ませたら試験を始めるとしよう。なにか準備があるなら済ませるまで待つが」
「大丈夫です。心の準備は済ませておきましたから」
「ならばよい」
ぶっきらぼうに返して、止めていた食事の手を進める。
それをみて、アリエッタはくすりと鼻を鳴らした。
アリエッタの微笑みに私を馬鹿にする感情が含まれていないからというのもあるだろう。だが──私を知る者が私を笑う、なんていうのは、ここ千年はなかった事だった。だがこうして笑われてみると、存外悪くはない。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「……ふん」
改めて礼を言われると、私は小恥ずかしくて不機嫌とも取れる返事をしてしまう。
だがアリエッタは、それを見ては穏やかに笑うのだ。
魔術に打ち込んできた千と数百年。不要と断じていた人との会話は思った以上におもしろく──また、難しい。