第一話:伝説の魔術師と奴隷の少女
ただただ、退屈だった。
魔術を究る究極の魔術師、星辰の支配者、三界戦争の英雄。シンプルなものだと、神というものもあったか。
これらはすべて、様々な時代の誰かが私を呼んだ名前である。
魔術を用いて不老不死となり幾星霜。その最中に自らの力試しとして、それはいろいろな事をした。
時には荒れた大地を緑溢れる地に変え、時には邪竜と恐れられる巨大な魔物を倒し、時には宝物を収めた無限の塔を打ち立てた。
私のしてきたことを人の尺度に合わせて考えれば、この大仰な異名の数々も、さほど行き過ぎているわけでもないのだろう。
だが私の本当の名が老いて逝く人々と共に忘れられていった事と同じく、千の名前も大した意味を持たない。
邪竜を倒しても、魔王と呼ばれるものを封印しても、星さえ操ってみせても、なんと無意味なことか。
私はそれを今、痛感させられている。それも、たった一人の弟子の手によって。
「テオさん、出来ました!」
私の目の前で、まだ十五歳の少女が、幼さを残した顔で朗らかに笑う。
翳した手には高密度の魔力を球状に安定させた魔術が生成されていた。
おそらく、それなりに下地のある魔術師が数年を修練に費やしても、これほどの魔力をこうまで安定させることは難しいだろう。
成功した魔術を見せたくて、私に褒められる事を予感して天真爛漫に笑みを浮かべるこの少女こそが、私が千と数百年の人生で取ったただ一人の弟子だった。
ああ、なんと恐ろしいことだろうか、我が弟子アリエッタ=ペルティア。
そこらの魔術師が見たらすくみ上がるような魔術を手に、幼く笑う少女。
私はこの少女が恐ろしい。
「よく出来たなアリエッタ。努力の賜物だ」
「……! はいっ! ありがとうございます、テオさん!」
ああ、なんと。
我が弟子のなんと可愛らしいことか──!
千年以上の人生で最大の衝撃、最高の危機。
気まぐれにとった弟子があまりにも愛くるしすぎた。
修練の成果を試す際に外界へと降りる以外に人と接することをせず、たまに降りても自分のことに集中し、ロクに会話をしてこなかったせいだろう。自分を慕い、褒められようと必死に修練に打ち込む姿は可愛らしくて仕方がない。
大した才能もない普通の少女が、私に認められたい一心で次々と高度な魔術を覚えていくそのさまは、万能ゆえの退屈でくすんでいた私の脳髄に虹色の電撃を走らせる。
高度とは言っても、私からすれば児戯のようなものだが、アリエッタにはまだ少し難しい。それをなんとか上手い具合に教えようという試みそのものが刺激的だったし、一つ覚えるたび嬉しそうに笑うアリエッタを見ていると私まで嬉しくなってきてしまう。
まずい。これは本当にまずかった。
千の異名も、それに連なる偉業もこの少女の前では何一つ役に立たない。
それらを誇ったことはないが、ある程度は自分を語られる存在の通りと思っていたのもまた事実。
弟子が一喜一憂を見せる都度、私までも笑ったり気分を落としてしまうというのは、なんとも情けのないことで数年前の私が見たら何と言うだろう。
「テオさん? なにか、考え事をしていらっしゃるのですか?」
「……気にするな。それよりも、反復を続けろ。感覚を掴んでいるうちに確かなものにするといい」
自分自身に対するイメージと、弟子への愛情のせめぎあい。どうやらそれが顔に出ていたらしい。
ごまかすような私の言いつけにも、アリエッタは快く返事をして、言われた通りに修練を再開する。
本当に、素直で良い子だ。『師ではない』私の言葉も、それが上達のためだと言うのならばすんなりと受け入れる度量もよい。
こういったところが師としての親心のようなものをくすぐるのだ。このせいで、ついつい指導にも力が入ってしまう。
──魔術で姿を変えて弟子の通う学校に潜入などしてしまうくらいには。
姿を変えるとは言っても若返っているだけなのだが、通常人間が若返ることはない。変装にはこれで十分だろう。
名実ともに最大最高の魔術師である私が学校に通うなど、いくら若い姿でいても冗談甚だしいのだが──
「大方コツは掴んだようだな。今日はそのあたりにしておくと良い。魔力の使いすぎは翌日に響く」
「わかりました。ありがとうございます、テオさん!」
しかしそれも、普段見ないアリエッタの一面を見られることに比べるとどうでも良くなってしまう。
彼女は私のことを『先生』と呼ぶが、今の私は魔術学校の学生テオドール=フラム。友に向けた『テオさん』という愛称は、この学校という場所ならではのものだ。
この新鮮さがたまらなくよい。千と数百年、魔術の研鑽のみに打ち込んできた私にとって、愛称で呼ばれるという経験はごく貴重なものだった。
魔術を究るべく歩みを続けた数百年。始めは楽しかったが、すぐにやることはなくなった。
それからの千年以上は退屈で仕方のない時間を過ごしていたのだが──最近は、毎日が新しい刺激だらけで楽しくて仕方がない。
それというのも全てこのアリエッタという少女を弟子にとったところからだ。
もしもあの時、気まぐれに弟子を取ろうと思わなかったら、どうなっていたことか。
ふと、視線を遠いところへとやり、私は過去を回想した──
◆
ただただ、退屈だった。無機質な部屋にて息を吐く。
魔術を究る事を志したのは、いつ頃の話だったか。
目標としていた魔術の極みとやらにはとっくに到達し、すでに千年以上が経過しようとしている。
まだ魔術を極める前の私ならばきっと魔の道に終わりはないと、今の私の言葉を笑ったろう。
だが今の私にとっては不老不死も、死者の蘇生も、星の創生も、次元の破壊さえも──思い付く限りのことは、全てが容易い些事にすぎない。
思う限りの事を思うがままに行える。それが今の私が到達した魔術の極みという境地であった。
だからこそ、この世は退屈であった。
望むことを望むがままにできる世界というのは、読み古した本に等しい。
興が乗って本を読み返すことで新しい発見をする段階はとうに過ぎ、私がこの世界で何かを起こす、ということはこうすればこうなるという事象の再確認に過ぎないことだった。
最初のうちは研鑽した魔術を扱うことに愉悦を感じ、世界各地で様々な実験を行ったが、今ではもう結果が見えていることをしようとは思わない。
また一つ、ため息が漏れた。
何かわずかでも愉快なことがあれば、この苦痛を一時でも忘れられるものを。
魔術というのは、私が考えているよりもずっと深いものだと思っていたというのにこれでは──不老不死の法など施さねばよかった。
その気になれば『不老不死を殺す』ことも可能ではある。だがそれもまた結果がわかっていることの確認に過ぎない。それを行うには──まだ何かこの世界には面白いことの一つでもあるのではないかと、希望を捨てられずにもいる。
ああせめて、僅かなりとやりがいのあることでも見つからないだろうか。
まったく、困難を感じられる者が羨ましい──と。
そこまで考えて、気がついた。
私自身が困難を得られないというのならば、誰か他の者に代替させればよいのではないか。
他の誰かが魔術の極みへと至る様を、手を貸しながら見守る。こうすれば、対象の者を通じて困難を味わうことが出来るのではないか?
私が魔術を施せば、今日にでも新しい世界の支配者を作ることは可能だ。だが私は飽くまでも手を貸すことに終始し、障害を取り除くのではなくそれを乗り越える手助けをする──
要するに、弟子を取るのだ。もどかしさを味わいつつ、どこまで上り詰めるかを愉しむ、なかなか良い考えなのでは無かろうか。
私という最高の師がつきっきりで修練を行えば、あるいは私に比肩する魔術師が育つかもしれない。中途半端な結果に終わっても、その力を持って弟子が何をするか、というのには少しばかり興味がある。
その力でより良い世を作るか、力による支配を行うか。前者ならば放っておいても良いし、後者ならば世界が取り返しがつかなくなる前に私自身が事を収めればよい。
なるほど、考えるほどに様々な楽しみ方がありそうだ。
私は全知ではないがほぼ全能である。考えうる限りのことは私が独力で行うことが出来るゆえに、他人を頼るという発想は埒外であった。
ふと顎をなぞる。なかなかの妙案だという確信がそうさせた。
そうと決まれば、早速行くか。
善は急げ、という。私にすればたかが数百年の浅瀬ではあるが、魔術の極みを志そうなどという人間にせっかちでないものはいないだろう。まだまだ奥がある、時間が足りない──などと、不老不死になっている人間がここにいる。
精神を集中させ、遠く遠くにある街を視る。時折、こうして外界を確認していた。飽いた飽いたと日々を暮らす私も、同族である人間が絶滅したとあっては幾ばくかの寂しさを感じるので、滅んだりせぬようにと最低限気は使っているのだ。
遠見の術を使えば、そこにはこの間視たよりもより発展した石造りの街が視えた。
次いで、手を翳す。すると渦巻く闇の門が発生する。
これは『ゲート』と呼んでいる、ある地点と地点を直接繋げる術だ。馬車でも何ヶ月とかかる距離を、一瞬で移動することが出来る。
さて行くかと呟いて、私は闇の門に体を埋めた。
◆
人気のない路地に発生させたゲートから体を覗かせる。見られていない事を確認してから、路地より大通りへと場所を移す。
人のいる場所を訪れたのは、何十年ぶりか。詳しくは数えていないが、平和であったことは確認している。
遠見の術で俯瞰して見下ろす光景と、人の目線で見る街は、思っていたよりも姿が違った。
前に来たよりも平均して少しだけ高くなった建造物は、植物が長い年月をかけて成長する様を思わせる。
人の数は多い。そこら中の活気が、ざわめきとなって少しだけ煩わしい──が、久々に見るとなかなかどうして悪くはない。
人混みに紛れ、街を歩く。私の纏う黒いローブはそれなりに目を引くらしく、時折視線を向けられるが、せいぜいが『変わった者がいる』程度の認識のようだ。それだけ多様な存在がいる社会なのだろう。
これが昔、神界を巻き込んで魔界と戦争をしている頃だったら、人々の視線もより攻撃的なものになっていたかもしれない。あの当時は『違う』ということそのものが罪だったのだから。
それに比べると、大分よい世界になったものだ。
これだけ危機感のない人々が溢れていれば、適当な者を見繕って攫ってもよいのだが──肝心の弟子に意欲がないのは問題だ。攫って無理やり魔術を教え込んでも、効率は悪いだろう。
と、なれば。
平和な世でも残る悪習を利用するのも手か。
私が足を止めたのは、奴隷商が構える店の前であった。
奴隷を買う。これならば、無駄に事を荒げることはない。意欲の方は、魔術の修練さえしていれば普通の人間と同じように──と、言うのは人里離れた私の住処を考えれば語弊があるが、ともあれ虐げられることは無いという身分を交換条件にする。
それでも学ぶ姿勢がないのならば、適当な場所で放してもいい。
この国における奴隷とは、犯罪者あるいは何らかの理由で身寄りがなくなった者たちが売られたか、生活が困難な者が自分を売ることでなるモノ。
保証された衣食住と、誰かの『下』でないという身分は、彼らにとっても悪いものではないはずだ。
両開きの立派なドアを押し開き、中へと入る。
人相の悪い太った男が、私の姿を睨めつけた。
「これは、いらっしゃいませ。奴隷をお求めですか? それでしたら光の曜日の競りにまた訪れていただきたく存じますが──」
物腰は柔らかく、表情は笑っているが目は笑っていなかった。
なるほど、店が開くのは特定の日だけなのか──と一つ知る物事を咀嚼する。
それにしても奴隷の売り買いが行われる『光の曜日』とは。なんとも皮肉の効いたジョークだ。
「文字が読み書きできる者の中で、最も若い者が欲しい」
が、私は構わずに続けた。煩わしさを嫌ってわざわざここへ足を運んだのだ。
もとより敵意を持っていた奴隷商の眉がわずかに歪む。
が──
「……! すぐに連れてまいります。文字の読み書きが出来る中で、一番若い者ですね」
すぐさま、今度は満面の笑みで態度を翻す。
私が袖の内より金塊を取り出し、机の上に置いたからだ。
所詮商人、カネというものの価値は高く置かざるを得ない。当然誇りを持って売買を行っている者もいるだろうが、他の人から搾取することを生業としている者たちだ。金よりも価値を高く置くモノは──せいぜい、自分の命くらいなものだろう。
とはいえ、それは悪いことではない。奴隷の売買そのものはともかく、商人が金を重んじるのは当然のことだ。自分の命が最も尊いというのも、多くの者にとって綺麗事ではごまかせない事実だろう。
そんな事を考えていると、奴隷商の男が帰ってきた。そばには、一人の少女を伴っている。
「お待たせいたしました。こちらが今手前どもの出せる、最も若く文字の読み書きを可能とするものですが──」
言葉とともに手で背を押し、少女が男の前へと出される。
私に一言で言わせれば──中の下。魔力は平均よりやや下で、こんな場所にいることを考えれば高度な魔術の知識も持っていないだろう、ごく普通の少女といったところだった。
しかし、奴隷商は妙に勿体ぶった様子だ。
その理由も、想像はつくが。
続く言葉を引き伸ばした奴隷商を一瞥すると。奴隷商は表情を変えぬままに続けた。
「実はこの少女、さる没落した貴族の娘でしてな。それに、この見た目でしょう? 没落した貴族の娘を自分たちの色に染め上げたいというお方は多い。需要に答えるべく、この娘はまだ綺麗な身体でいます。そういうわけでして、手前どもとしては、次の競りでは目玉になると思っているのですよ」
その値を釣り上げようとしているのだ。
貴族の娘。その肩書はなるほど、奴隷を『そういう目的』で買おうとする者達には、価値のあるものなのだろう。『綺麗な身体』というのはそういう意味だ。
だが外見もある程度は保たれるように努力しているようだ。ストレスか栄養か、健康状態の悪影響は出ているもののなるほど、肌は白く、新雪のような髪は美しく、顔も悪くはない。
加えて重要なのは若い、つまりより多い時間があるということ、文字を教える手間を省くというだけだったが──その目は、少しばかり気に入った。
斯様な身分に身を落としても、決して泣き言は言わない──そう考えていつつもこの世の本当の悪意を知らない脆さ。汚れでくすんだ姫の像。その材質は、硝子だ。
彼女を求めるような者の手に渡れば、あっという間に砕けてしまうようなか細い誇り。だがそれ故に磨けば光る、とでも言うべきだろうか。脆くも気高い、そんな心根を表す瞳。
「気に入った。この娘をもらう」
私の声に、少女がびくりと身を震わせる。
やはりそうだ。捨て鉢になったようで、強がっているだけ。とはいえ無理もないだろう。この年頃の少女に、奴隷として生きていかねばならないという現実は重い。
それに、運命の日が早まった上に購入者が得体のしれないローブに身を包んだ男では、同情の余地はある。
「気に入っていただけたようで何より。ですが、今しがた言ったとおり、この娘はとっておきでして──」
しかし奴隷商はこの語に及んで回りくどく話を続けようとする。
わざわざこの場に連れてきたのだ、売る気が無いわけはない。
なんとも、無意味なやり取りだ。
「私はまどろっこしい話は好かん。いくつ欲しいか、貴様で決めろ」
そう告げて、私は再びローブの内から金のインゴットを取り出し、机の上へと置いていく。
それが一つ、二つ、三つ──ごとり、ごとりと音を立てると、奴隷商だけではなく、少女の顔色も変わってきた。
金は造れない。故に金の価値は安定している──というのがこの世界での常識だが、私にそんな常識は関係ない。
ならば「かね」に糸目を付ける必要もない。
「じゅ、十分でございます! どうぞそちらは仕舞ってくださいませ」
五つ目を積もうとしたところで、奴隷商は慌てて静止の声を発した。
ここまで積めば見栄えが良くなったのだが。しかし私は言われた通りに金を仕舞う。いけ好かない男だが、その嗅覚が気に入った。
まともではないものをまともではないと感じる感性。そこへと深入りしない注意深さ。人間性はともかく、賢しい行動は嫌いではない。
「へへ……では、こちらが手錠の鍵になります」
卑屈な笑みを浮かべる奴隷商から鍵を受け取り、少女を一瞥する。
少女はまた身を震わせて、漏れ出る声を押し留めていた。
臆病だ。少しやりづらいが、いずれ慣れるだろう。
私は再び『ゲート』を発動し、自宅への門を繋げる。
一昔前、この魔術をはじめとした空間魔術は高等魔術と扱われていたが、現代でもまだ『ゲート』は高等な魔術であるようだ。
「旦那様は──いいや、深くは聞きません。再会はしないことを願っております」
「利口だな」
恐る恐る踏み込もうとして、その足を引いた商人を見ぬまま返す。
代わりにもう一度少女を見ると、少女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
目だけはきつく結ばれているのは、彼女なりの矜持なのだろう。
僅かな逡巡のあと、少女は私の元へと近寄った。
門をくぐればそこは人里離れた私の屋敷だ。
しばしの間、彼女は人の世界から隔絶されて生きていくことになるのだが──
「誰か、別れを告げるものはいるか」
「……いません」
「そうか」
もとより、こんな場所にいる身だ。それがいれば、奴隷になどなっていないだろう。
ゲートに体半分をうずめ、少女の手を引く。
目は強く瞑っていたが、抵抗感はなかった。
そう身構えることもあるまいに。臆病な少女に微笑ましさを感じる。
いくら人の社会では高等魔術とされていても所詮はただの移動魔術。痛みも痒さもあるはずもない。
少女の腕を離すと、少女はようやく目を開いた。そこはすでに、私の屋敷だ。
腕の感覚が消えたことで、少女はそっと目を開く。
すると先程までとはがらりと変わった光景に、目を見開いてあちこちを見回し始めた。
「えっ、あ、ここは?」
「私の屋敷だ。念の為言っておくが、ここを出たとて人の里は遥か遠くだ。自死を目的とするのでないならば、脱走など考えぬように」
釘を刺す言葉に、ごくりとつばを飲む。
言いながらに、私は少女の手枷を外していた。
「な、何を……?」
「枷を外しただけだ。それは、私の目的にはそぐわない」
今日は身の振り方を簡単に説明するだけのつもりだが、少女を買ったのは魔術師として修行を受けさせるのが目的だ。
手枷をはめたままする訓練もやろうと思えばあるが、それは今ではないし、そうするとしても魔力なりで適当な枷を作るほうが都合がいい。
だが少女は私の言葉に何か勘違いをしたようで、唇を結ぶ。見てわかる、恐怖の表情だ。私にすれば随分と見慣れたもので、すぐに分かる。
「では今後の身の振り方を説明する。必要があれば補足はするが、私は無駄を嫌う。二度同じ事を説明するのは避けたいのでよく聞いておけ」
「……っ。はい」
まあ奴隷として買われたのだ。年若い少女が恐怖するのは無理もない。
とはいえ、それは修練の邪魔になりかねない。一つ息を吐いて、私は説明を始める。
「まず──お前を買った目的についてだが、お前には奴隷としての仕事は期待していない」
「はい……え?」
「お前を買ったのは、弟子が欲しくなったからだ。故に、魔術の修行を行う事がここでのお前の仕事と言っていい。お前を鍛えてどうこうというつもりもない。得た力は好きに使うが良い」
走りの言葉に疑問の声を上げると、少女は目をぐるぐるさせながら私の言葉を必死に噛み砕こうとしていた。
考えていた事と、今の状況があまりにも乖離しすぎていて混乱しているのだろうか。話自体は聞いているようだし、難しい事を言っているつもりはない。今はわからずとも後に理解できるだろうとし、私は続ける。
「修行が仕事と言ったが、当然最低限身の回りの事はやってもらう。自分の部屋は自分で片付ける事、共用部分は整然に。掃除や食事は当番制。ここまではいいか」
「……あの、それはどういう……?」
「人として最低限の事をしろという事だ。それさえしていれば、余暇の時間は何をしていてもよい。尤も、今この屋敷には本を読むくらいしか娯楽はないが」
修行の他、共同生活を行う上で最低限の事はしろ、というと少女の混乱は更に深まったようである。
通常こういった雑用はすべて弟子に行わせるというのが師弟関係の基本であるようだが、然程の手間でもない事をあえて押し付けようとは思わない。私が彼女に期待をしているのは弟子として魔術の修行に打ち込むその一点だ。無駄に疲労させて修行の効率を落とすのはよろしくない。
言い終わる頃には、少女は混乱しているままではあったものの、幾分か警戒心を薄めていた。単純に、理解が追いつかなくて警戒している余裕をなくしただけかもしれないが。
「ここまでで聞きたい事はあるか」
「正直に申し上げれば、何一つとして理解が出来ません……わたしはその、奴隷で……」
「もう奴隷ではない、それだけだ。先程言ったとおり、お前に期待しているのは弟子としての振る舞いだけだ。それを本分とする限りは、何をしても良い」
とはいえ、目まぐるしく変わる待遇に混乱する気持ちはわかる。
人は急激な環境の変化に強くない。買った時の僅かな反抗心や、不安、今混乱している事から察するに、奴隷としての身分はあまり長くないはずだ。
貴族の娘から奴隷になり、今では魔術師の弟子──それが数日数週間のうちに入れ替わるとなっては、理解も追いつかないだろう。
……ふむ、そうだな。まずは形から入ると言うし、そのあたりから整えていくか。ボロ布を纏っている状態は、確かに奴隷そのものだ。
少女に指を向けると、幼い顔立ちが恐怖に歪む。私は魔力を込め、少女の服を着せ替えた。白と黒を貴重とした、単純なブラウスとスカートだ。
「あっ……ふ、服が……!?」
「生憎センスは古いがな。欲しい物があれば、どういったものが欲しいか細かに伝えろ。善処する」
「こ、これで十分です。……一体、ご主人様は何者なんですか? 大掛かりな器具と魔法陣が必要な『ゲート』を使ったり、なにもないところから服を出したり……正直、私には想像も付きません」
どこか放心したように聞く少女に、私はほうと息を漏らした。
ここにきて、ようやく少女が自分の意思が介在する言葉を口にしたからだ。
……そういえば、良い機会かもしれない。名前など大した意味はなかったが、共同生活を行う上ではお互いを認識する記号が必要だ。
呼ばれる時は異名ばかりだったし、本名を使うのは本当に久しぶりの事だ。埃を被っている名前を使ういい機会かもしれない。
「見ての通り魔術師だ。名はテオ=イルヴラム。好きなように呼ぶと良い」
「あ……! 申し訳ございません。主人に先に名乗らせるなど……」
「同じ事を言わせるな。私はお前の主人ではなく、師だ。円滑に技術を伝授する上である程度は敬ってもらうが、奴隷と主人の関係は求めていない」
奴隷としての身分は然程長くない、と感じていたが、それでも身の振り方は叩き込まれているようだ。
案外、物覚えはいいのかもしれない。だとすると、修行の方にも期待ができそうだが。
「それで、お前の名前は?」
「はっ、はい! あ、アリエッタ=ペルティアです」
自己紹介を要求すると、少女──いや、アリエッタは困惑しながら名を告げた。
警戒心はもはやそれほど感じないが、根本的に臆病ではあるらしい。
まあ、良い事だ。臆病ならば言い換えれば慎重であるという事。大成する前に潰れてもらっては困るので、その気質は扱いやすい。
「そうか、わかった。ではアリエッタ、食事は済ませたか? 私はこれから昼食を摂るが」
「あ、いえ……あ、お作りします……!」
「それは追々でよい。勝手がわからぬ者に任せても非効率的なだけだ。と、そうだな……そこに座っておけ」
動こうとするアリエッタを制してから指を振るい、テーブルの前に椅子を出す。
失念していたが、唐突に弟子をとると決めたもので日用品を用意するのを忘れていた。
後である程度は用意していこう。必要なものがあるならば、本人から告げさせれば良い。
魔術で器具を操り、いつもの食事を作っていく。ある程度型にはめた魔術を同時に施すと独りでにパンが焼かれ、卵がフライパンへと滑り落ち、フライ返しが焼けた目玉焼きを皿へと運ぶ。
ふと背後から、感嘆の息が聞こえた。調理器具達が踊るようにでも見えたか、その目は輝いている。
こういったところから魔術に興味を持つのは良い事だ。思わぬ収穫だったな。
ものの数分で食事の準備を済ませ、配膳する。
アリエッタは席についた私と、自らの前に配膳された食事とを交互に見て、困惑を隠せずにいる。
「食えないものがあったか」
「い、いえ……! ただ、私も頂いてしまっていいのかと……」
「そのために用意した。質素なものだがな。もう少し良いものが食いたいのならば自分の当番で腕を揮え」
「滅相もございません……! 誰かと一緒のお食事なんて久しぶりで、つい……」
やはり、こういう所でも奴隷としての生き方が染み付いているようだった。
どれだけの期間奴隷としての生き方を叩き込まれたかは知らないが、随分と卑屈なものだ。
しかし、そんな脆さがあるからこそ気に入ったのだ。弱さに見合わない誇りを持っている少女が、大きな力を得て何をするか。私はそれに興味を持っている。
私の思惑は露とも知らず、少女は私を伺いながらスプーンを手にとって、スープに口をつけた。
「……あったかい」
その目には、涙が浮かんでいる。
それはスープなのだから当然温かい──と思ったが、奴隷としての身分を教えられるため、あえて冷たい食事を出されるなどしていたのかもしれない。
細かい心境はわからないが、それほど感動するものだろうか。心を見ればわかるが、面倒なのでそこまでする必要もない。
こうして、アリエッタとの共同生活が始まった。
食事を喜ばれるというのは、案外悪くない感覚だった。




