別れ
「おーい! そろそろ出航するぞお!」
巨大な船に張られた帆が、風を受けてたなびいていた。あとは錨を上げるだけで、船は合衆国に向けて出発するだろう。
船には、大勢の人間が乗り込んでいた。商人や政治家、遠征を行う冒険者……そんな中で、そのどれにも属さない女がただ一人、甲板でボーッと遠くを見ていた。
「……」
彼女の視線のずっと先には、ほんの先日まで彼女が居た場所、そして彼女の愛する人がいた。
しかしもう二度と戻ることも、そして会うこともない。
そんな資格など、ないのだから。
――――カラカラカラカラ……
錨が上げられ始めた。それにより船を止めていた力が失われ、船はゆっくりと進み始める。
「いってらっしゃああああい!」
「!」
彼女は驚いて、声の聞こえた方向を見る。そこには4歳くらいの、母親に抱えられた女の子がいた。
「ああ! 良い子にして待ってるんだぞ!」
少女に向かって、船に乗っていた父親らしき商人がそう叫んだ。おそらく、仕事で合衆国に長期出張をするのだろう。
「……」
彼女はそんな微笑ましい様子を、無言で見ていた。
彼女はこれまで、各地を転々としてきた。しかしどの時も、あの商人の男のように、自分を送り出してくれる人は居なかった。
彼女の職業はスパイ。孤独である事が運命づけられている。そんな彼女に見送りが誰も居ない事は、当然だった。
幼い頃から誰にも心を開かず、打ち明けられず、ひとりぼっちで生きてきた。
しかし少し前、そんな彼女にも始めて“つながり”が出来た。
始めは、それがとてもうれしかった。あれほど望んでいた“つながり”を持つことができ、彼女は幸福の中にあった。
しかしすぐに、その幸福は恐怖に変わった。やっと出来た“つながり”を失ってしまうことが、心底恐ろしくなったのだ。
そしてそれは、最悪の形で現実となってしまった。
いや、少し違う。現実とはならなかった。少なくとも彼女の“つながり”は無くならなかったのだから。
“つながり”を失ったのは、フォートだったのだから……
「なぁ、あそこ……誰か泳いでないか?」
船に乗っていた一人が、ある程度港を離れたところでそうつぶやいた。
それを聞いた隣の男は「あれ、ほんとだ」といった。
「おいおい……ここは海水浴場じゃないんだぞ? しかもこんな真冬に……どこのマヌケだアイツ?」
そんなやりとりを端から聞いていたレイは、他にすることもなかったので、興味本位に眺めた。そして、思いもよらなかった人間を見つけた。
「フォート……!」
なんと、キンキンに冷えた真冬の海を泳いでいたマヌケとは、まさに彼女の“つながり”だったのだ。
「レイ! いるんだろ!?」
0度を下回る極寒の水上で、フォートは叫んだ。そして甲板上の、自分を好奇の目でみる多数の視線の中からレイの姿をすぐに見つけた。
そして、再び叫んだ。
「なんで…なんで行っちゃうんだよ! 僕に……何の断りも無しに!」
「……」
レイは黙っていた。黙るしかなかった。
逃げ出した自分が、一体何を言えば良いのかわからなかったのだ。
「なんで何も言わないんだよ! せめて……なんか言ってから出でけよ!」
「……」
「聞いてるのか!? なんか言ったらどうなんだよ!?」
「……お前は」
「!」
「お前は……話したとして……私を行かせたのか?」
「行かせるわけないだろバカ! だからこうして追いかけてきたんだよ!」
「……だよな。だから……」
何も言わずに出てきたのだ。
「私のことはもういい。放っておいてくれ。私はもう……自分のことが心底嫌になったんだ」
「はぁ!?」
「私なんかより、お前の隣にいるのにずっとふさわしい奴はいくらでもいる。だから……私のことはもう、忘れてくれ」
「いや、なに言って……」
「じゃあな……もう…追ってくるなよ」
レイはそう言うと、甲板から姿を消し、船室へと入っていった。
それを見たフォートは、ついに説得の無理を悟った。
「……」
しかし彼に諦めるつもりは毛頭無かった。
「……」
船室に隠れると、レイは涙を拭った。涙を流す姿など、フォートに見せるわけには行かない。そんな姿を見られたら、彼はきっと……自分を絶対に、一人にしないだろうから。
本当は、いつまでも彼と一緒に居たい。でも……自分が心底、嫌になる。
ゲイナスは言った。『もし自分のために誰かが不幸になれば、先輩は二度と幸せになれない』と。しかし残念ながら、それは間違いだった。
フォートをかばって会長が死んだとき。彼女は会長の身を案じるよりもまず、フォートの無事に安心したのだ。
それどころか、会長がフォートの代わりに犠牲となったことを、喜んでしまったのだ。
他人の不幸の上に、自分の幸せは築けない? そんなことはない。
レイは…彼女という人間は、フォートの不幸でさえ、自分の幸せの”糧”とすることが出来たのだ。
何と酷い女なのだろう。
そのことに気がついたとき、彼女は心の底から自分のことを軽蔑した。
ゲイナスが言っていた以上に下賤だった自分の人間性に、落胆してしまったのだ。
そして、『自分のような人間がフォートの側に居て良いはずがない』と思うようになった。
彼のことを愛しているからこそ、フォートの側には自分のような人間ではなく、もっと心優しい人間に居て欲しい。
そう思い、彼女は出て行ったのだ。
――――ザワザワ……
「……?」
突然、甲板が騒がしくなりはじめた。何が起きたのかを知るため、彼女は聞き耳を立てる。
「おい! アイツ沈んだぞ!」
「誰か助けにいけよ!」
甲板では、フォートが“ブクブク”と水泡を浮かばせて沈んでいったために、怒号が飛び交っていた。




