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そんな俺達の関係が変化したのは、俺が工場で働き始めてそろそろ三か月が経とうかという頃だった。その日の俺は、仕事で失敗して気落ちしていた。普段なら失敗なんてそれほど気に留めないのだが、その日に関してだけは別だった。何故なら当時の俺は、次の日に会社との面接を控えていたからだ。派遣の契約を更新するかしないかを決める話し合いだ。それまでの働きが悪ければ、契約の更新が出来ない旨を通告されてしまう。
そんな日を前にしてのミスに、流石の俺も動揺して落ち込んでいたのだ。というよりも、むしゃくしゃしていたという方が近いかもしれないが――どちらにせよ不愉快を感じていたことには違いない。
だから俺は気晴らしに、家の近くのパチンコ屋に足を運ぶことを決めた。かつてはかなりのめりこんでしまい、消費者金融に手をつけるほど中毒になっていたパチンコだが、一度取り立てで酷い目に遭ってからはあまり視界に入れないようにしていた。しかしその日はどうにも、普段俺を止める理性が働いていなかった。俺は「今日だけだ」と言い聞かせながら、仕事帰りに自転車を飛ばし、かつては馴染みだったパチンコ屋に向かった。
――そして、そこで初めて遠藤の裏の姿を見た。パチンコ屋の脇にある狭い道で、白いポロシャツとグレーのズボンを纏った遠藤が、誰かの胸倉を掴んでいたのである。普段の貧弱そうな雰囲気からは考えられないほど乱暴な手つきで、遠藤は男の襟首を締め上げていた。拘束されている男の方は、浮浪者ぜんとした汚らしい姿をしている。枝切れみたいな体に薄汚れた緑のコートを引っ掛けて、髭の生えた顔には脂汗をにじませていた。左頬が、遠目から見ても解るほど赤く腫れている。まるで殴られたかのような痕だ。一方の遠藤は、冷え切った目でその男を見ていた。
思いもかけぬ光景を目にした俺は、咄嗟に急ブレーキをかけて自転車を停め、唖然としながらそれを見ていた。後から思えばすぐにその場を去ればよかったのだが、そんなことは驚きのあまりまったく思いつかなかった。
遠藤は、男を地面に放り捨てた。アスファルトを転がった男が呻いて、体をびくんと跳ねさせる。そして、それきり動かなくなった。気絶したようだ。遠藤はそれを、何かとてもみっともないものでも前にしたかのような顔で眺めていた。
「……マジかよ……」
思わず漏らしてしまった声に、遠藤は勢いよくこちらを振り向いた。しまった、と青ざめた時には既に、俺と遠藤の視線はかち合っていた。遠藤は黒縁眼鏡の向こうの瞳をかっぴらいた。
「……高橋さん……」
遠藤は俺の名を呼んだ。俺が反射的に顔を強張らせると、遠藤はすぐに困ったように苦笑した。いつも職場で見る笑顔と、なんら変わりなかった。
「……困ったな。見られてたのか」
認識されてしまえば逃げ去るわけにもいかず、俺は仕方なく自転車からおりた。いやね、と遠藤はズボンのポケットに両手を突っ込む。
「パチンコ屋から出てきたら、コイツが俺の自転車を盗もうとしてたんだよ。それで、かなり負けた後だったからこっちも気が立っててさ……でも、やりすぎたかな」
「やりすぎたって……」
俺は視線を逸らした。かかわりたくない、と思った。早く話を終わらせて、この場から逃げ出したかった。
――だが俺は、すぐにあることを思いついた。それは、その時の俺にとっては素晴らしいアイデアだった。恐怖が消え、俺の口元に笑みが浮く。
「……遠藤さん。このこと、職場に知られたらまずいんじゃないですか?」
俺が通っていた職場はかなりの大手食品製造企業だった。一日テレビをつけていれば、コマーシャルを見ない日なんてないだろう。老若男女、誰もが知っていると言っていい。そんなところの社員が暴行事件を起こしたとあらば、懲戒解雇の可能性だってあるはずだ。
俺の言葉を聞いた遠藤が、顔をひきつらせた。
「……まあ、ちょっとやばいかもね」
俺は目を細めた。
「遠藤さん、大丈夫です。俺、言いませんよ」
しかし遠藤は俺の言葉に安心せず、探るように俺を見返している。何かあるのだろう、と言わんばかりだ。話が早いと思った俺は続けた。
「その代わり、って言ったら何なんですけど。俺、明日派遣の更新面接があるんですよね。でも、今日ちょっと仕事でミスしちまって……更新なしになるかもしれないのが怖いんですよ」
何が〝その代わり〝なのか――遠藤がそう聞いてくることはなかった。遠藤は俺の言葉に目を見開きはしたものの、すぐに「解った」と笑みを浮かべた。