約束なしの待ち合わせ
白銀の世界に、私は彼に会いに来ていた。斜面を登る私の吐息と雪に沈み込む靴音だけが、私が着実に前に進んでいること証明していた。今日はよく晴れていて、ゴーグルがなければ雪原の反射が眩しすぎて眼がくらんでしまうだろう。太陽の存在感は強く、真っ白な世界の中で、私の吐息と靴音、それに強い陽射しとが、シンフォニーを奏でているようだった。こんなことを考えてしまうのも、私が浮かれてしまっているからだろう。
普段はジャズしか聞かないし、ジェイポップを毛嫌いしていて、そのことによって優越感を感じていることで自己嫌悪することもある。それでも今日は、ジェイポップの歌詞を読み上げたなら片っ端から頷いて共感してしまいそうだ。
彼に会いに来るのは一年ぶりだ。私はこの毎年、この季節に彼に会いに来る。とはいっても、もう三年は会えていない。毎年、私は一目でも見るためにやって来るのだけれど、彼も会いたいのだとは限らない。彼は気まぐれだし、いつも同じ場所にいるとは限らない。それでも私は、彼に会いに来る。この季節の短い間だけが、彼に会える確率が最も高いのだ。
彼に初めて会ったのは、大学三年生の時だった。単位も順調に取り、地元での就職を考えていた私は、就活が本格化する前に旅に出ることにした。その途中、この雪山に立ち寄った。その時、私は彼に出会い、一目惚れしてしまった。
山小屋で出会った人たちに話すと、見間違いじゃないかとか、疲れていたんだろうとか茶化されたけど、中には私の話に共感してくれる人もいた。彼に会ったことがあると言う人の情報では、彼は気まぐれでどこにいるかわからないけれど、この時期にはこの山に毎年来ているようだとのことだった。それ以来、就職後も毎年この時期に私は彼に会いに来ている。
両親からは結婚を心配されている。その不安はもっともだと思う。若い娘が、――厳密にはまだまだ若いと胸を張って言うことはできなけれど――この時期になると決まって旅行に行くのだから。しかも会えるかどうかもわからない相手の所へ。それでも私は、彼に会いたくてたまらないのだ。
目的地まで着くと、リュックからシートを敷いて腰を下ろした。水筒とマグカップを取りだし、熱い珈琲を注ぐ。舌を火傷しないように気を付けてすする。雪山は寒い。長居は危険だ。今回は一時間かな、と検討をつけた。
珈琲を飲みながら、白銀の世界を見やる。周りは一面の雪世界で、時計を見ることもしない。大体の時間間隔は、晴天の太陽が教えてくれる。昔は腕時計を頻繁にチェックしていたけれど、一年前からそれはやめた。心が苦しくなってしまうだけだからだ。ふと思いついて、念のため持ってきた一眼レフをリュックサックから取り出す。就活前の旅行時に購入したものだ。手に取ってしばし考えてから、リュックに戻す。彼の姿を撮影することも考えたけれど、彼の許可を取れそうにないし、それに自分の目に焼き付けておこう、なんて考える。その代わりと言ってはなんだけれど、双眼鏡を取りだして首にかけておく。
私を斜め左上から照らしていた太陽が、真上の方まで移動した。あと十分くらいかな、と思う。その時であった。
遠吠えが一つ、聞こえた。はっとして、周りを見渡す。
彼の姿はない。
急いで双眼鏡を手に取り、遠くの森を見やる。いない。
立ち上がって後ろを見てもいない。東にも、西にも、北にも南にも彼の姿はない。
彼を探すために歩き回ろうか、とも思ったけれど、それはやめておいた。雪山で無計画に歩き回るのは危険だ。それに、私よりも彼の方が走るのは速いのだ。
私はシートに座り直し、珈琲を注いで飲みなおした。水筒に入れていたとはいえ、もうだいぶ冷えてしまっていたけれど、格別の味がした。
その珈琲を飲み終えると、私は帰り支度を始める。双眼鏡やマグカップをしまい、立ち上がる。また来年だな、なんて独り言をつぶやく。
雪山に、沈み込む私の靴音と上気した私の吐息だけが響く。真上から少しだけ西へと傾き始めた太陽が、今日と言う日の折り返しを告げていた。十歩ほど歩いた時、背後からまた一つ遠吠えが聞こえた。後ろを振り返る。彼の姿はどこにもなかった。
ふっ、と口元から笑みがこぼれる。来年もまた来よう。
名前の通り、もうちょっと送りオオカミじみてくれてもいいのにな、なんて考えながら、私は雪山を下りるのだ。
2015年11月24日に、三題噺のお題メーカーを使用して書いたものです。
お題は「音」「氷山」「静かな関係」でジャンルは「ラブコメ」でした。
三題噺のお題メーカー
https://shindanmaker.com/58531
元の投稿は以下のページです
https://nishinokyogulliver.wordpress.com/2015/11/24/008/