サンタおじいさんからの贈り物-巡洋艦名取 短艇隊
サンタおじいさんという題名で皆さんはクリスマスにプレゼントを持ってきてくれる赤い服のサンタさんを想像したでしょうが残念ですが私は普通の人間です。
名前は松永市朗といいます。
ではなぜ題名に「サンタおじいさん」がついているかというといつも私が家の中で2人の孫からそう呼ばれるからです
ではなぜ孫たちに「サンタおじいさん」と呼ばれるかというとこれは毎日の私の口癖が原因なのです。
うっかり忘れ物をしたときには「しまっタ」
道を間違えたときには「こまっタ」
孫に約束したプレゼントを忘れたときには「よわっタ」
といつも家の中でこの3つの口癖を使うので最後の「タ」が3つあることからサンタおじいさんと呼ばれています。
半分はうれしいですが半分はちょっとさみしい気分です。
しかしこのように書けばみなさんは私のことを「頼りない物忘れの多いもうろくじいさん」のように思われるでしょうが昔は全然違いました。
皆さんのような若いころ、私は日本帝国海軍に入って軍艦に乗りアメリカを相手に戦ったことがあります。
アメリカは今では日本と仲のいい国ですが昭和のはじめは非常に仲が悪くて領土や石油などの資源をめぐって意見が対立し,3年半にわたって戦争をしたことがあります。
歴史の時間で習ったと思いますがこれが太平洋戦争です。
そのときには私の年は20歳前半でしたが一度として「しまっタ」「こまっタ」「よわっタ」などと弱音を吐いたことはありませんでした。
それどころか世界中の海洋の専門家すべてがあっと驚くような記録を打ち立てたのです。
これから私が「サンタおじいさん」でなかった70年前の昔の話をしたいと思います。
70年前といっても私にとってはまるで昨日のことのように部下の顔や言葉や何もかもを思い出すことができますよ。
この本を読んだ後にこんな頼りない「サンタおじいさん」にも弱音をはかない立派な青春時代があったのだと思っていただければ私は大変うれしいです。
またみなさんの学校や生活の中で「しまっタ」「こまっタ」「よわっタ」ときに私の話を思い出して「なにくそ!もっとがんばるぞ」という気持ちになってくれたらこれ以上うれしいことはありません。
これをもってサンタおじいさんから皆さんへの心のプレゼントにしたいと思います。
それでは今から時計の針を70年前にもどしますので最後まで私の話を聞いてください。
サンタおじいさん 松永市朗
1 原爆投下
「本日朝 広島市に新型爆弾が投下される 被害甚大」
昭和20年(1945年)8月6日月曜日の朝でした。
部隊の通信機から当時23歳で通信長を務めていた私の耳に突然その連絡が飛び込んできました。
「広島がやられたそうだ!」
「新型爆弾とはどんなものだ!」
「被害甚大とはどの程度だ」
われわれの部隊内はこの一報によって騒然としてすぐに私は広島城内の地下防空壕にあった陸軍の司令部に問い合わせたのですが何度やっても電話がつながらない状態なのでこれは司令部そのものが壊滅しているのだと直感しました。
その後、広島方面に飛行機で偵察に出ていた部下達からも被害状況が逐一入ってきましたがどの報告も今までの爆弾とは明らかに威力が違うものであること、しかもその爆弾がたった1発であったこと、広島市内は空から見ると真っ黒になっていること、広島城を中心に一瞬にして壊滅して市外へ非難しようとする一般市民が蟻のように列を成しているということを聞きました。
私は原爆が落とされた広島市からわずか南西70キロしか離れていない山口県岩国市内にあった日本海軍岩国航空隊の通信長としてこの日勤務していたのです。
この日は原爆投下の少し前の午前7時9分に「アメリカの大型爆撃機1機が飛来中、警戒されたし」という報告をすでに受けていました。
しかし爆撃機の数が少ないのですぐに警戒解除となり「護衛もない爆撃機1機で何ができる」と全員が朝日で銀色に光り悠々と飛ぶB29爆撃機を見ながら思ったものですが実はこの1機は先発した天候観測機であとに続く爆弾を投下する本隊の3機に広島上空の天気良好を伝えて原爆投下が決定されたのです。
みなさんもご存知のように昭和20年8月6日午前8時15分、人類史上初の核兵器が広島に投下されました。
当時の広島は広島城内に陸軍第5師団本部、宇品港には陸軍船舶司令部などがありまさに軍都としての機能と威容を誇っていました。
広島市の人口の内訳は一般市民が29万人、軍に関係していた人が6万人でその合計35万のうち14万人が何千度という熱と爆風と放射線で犠牲になってしまったのです。
その中にはみなさんと同じ年頃の学生もたくさんいて学校や勤労先で被爆して亡くなった数は数え切れません。
翌日東京の大本営では原子爆弾対策委員会をひらき対策を検討したようですが時すでに遅くその明後日8月9日午前11時2分長崎市でも原子爆弾が投下されました。
この原爆でも長崎市人口24万人のうち6万4千人の尊い命が犠牲になりました。
われわれ軍人はこのころ「マッチ箱1つの大きさで都市を壊滅させる爆弾があるそうだ」という噂をすでに耳にしていました。
またこの爆弾が従来の火薬を使ったものではなく「ウラニウム」という物質を使うことも知っていましたがおそらくこの戦争には間に合わないだろうと全員が思っていたのです。
しかし実際にアメリカ軍は巨額の資金と豊富なスタッフ、十分な時間をかけてこの原子爆弾の開発を成功させて太平洋戦争に間に合わせたのです。
「この新型爆弾を最初に作った国が戦争に勝ち世界を制する」
といわれていたように日本は長崎に2つめの原爆を投下された1週間後にアメリカを含む連合国に無条件降伏をしたのでした。
8月15日正午、岩国の基地内においてラジオで天皇陛下の玉音放送を聞いた私は戦争に負けて悔しいという気持ちよりも死んでいった多くの戦友たちの顔を思い浮かべながら
「今までの苦しい戦いはいったい何だったのだろうか?死んでいった多くの友人や仲間達の死は結局は犬死にだったのであろうか」
と自問自答したのでした。
2 私のおいたち
私、松永市朗は大正8年(1919年)に九州の佐賀県三養基郡三川村という農村で生まれました。
佐賀県は福岡県の隣にある県でその中の三養基郡は県庁所在地の佐賀市と鳥栖市の間にあります。
今では佐賀県は人口も増えどんどん発展して町になってきたようですが、約90年前にあたる大正8年はまだまだ田んぼや畑が広がるのんびりした田舎の時代でした。
子供のころの私は体格が同じ年頃の少年よりかなり小さかったのですが勉強そっちのけで毎日元気に野山を走りまわる典型的な「腕白小僧」でした。
今のようにパソコン、テレビなどの娯楽がない時代の子供たちはもっぱら外に出て近所の友達と外が暗くなるまで遊ぶのが常でした。
特に私の生まれた三川村というところはまわりを山に囲まれた地形で自然が多く、春になると小川で鮎や鮒を釣り、夏になると同じ川で水泳をし、秋には稲刈りの横に積まれたわらの中に入ってかくれんぼをしたり、冬にはこま回しや凧揚げをして遊んだものです。
またこの時代の男の子は戦争ごっこが大好きでよく神社の境内で2つのチームにわかれて日露戦争の戦いをまねた陣地争奪戦をやったものでした。
私は近所では相当いたずらばかりしていたようで、よく喧嘩して泣かせた相手の家に、おばあさんがかわりにあやまりに行ったという話を後で聞かされました。
もの心ついたときから私の母と妹はお父さんの勤務する場所に一緒についていったので残された私は小学校と中学校時代の生活はほとんど祖母との2人暮らしでした。
私のお父さんは松永貞一といい、海軍の軍人で第一次大戦の時にヨーロッパの地中海に出征していたときに私が生まれました。
その後、お父さんは昭和16年に始まった太平洋戦争ではベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)司令官としてマレー沖海戦を指揮して航空機だけでイギリス海軍自慢の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを2隻撃沈したことで一躍有名になりました。
また私のおじいさんも若いころはは日本陸軍の兵隊で明治37年に始まった日露戦争に参加しました。
中でも日露戦争中一番大きな犠牲をはらった戦いの「203高地攻略戦」で有名な乃木将軍のもと輸送の任務で従軍した話をよく聞かされたとおばあちゃんは語っていました。
このように、私の家系はもともと軍人の家系なので、男の子である私の心の中には自然に「大きくなったらお父さんやおじいさんのような立派な軍人になる」という意識が芽生えました。
特に船が好きだった私は海軍に行きたい、そして兵隊ではなくお父さんのような兵隊を指揮する立場の将校になりたいと思い出したのです。
船が好きになったのは、私が佐賀県立三養基中学校一年生のときに父が勤めていた台湾の澎湖島に行ったとき、山口県の門司港から台湾の基隆港まで初めて大きな船に乗ったときのことです。
佐賀県の山の中で育った私は、「世の中には、こんなに大きな船があるのか」と思ったほどの船でしたが、後で聞くとお父さんはもっと大きな軍艦をたくさん指揮しているということがわかったのです。
門司港から台湾の基隆港まで3日間の船旅でしたが、大きな波に揺られるこの船旅の間、私はいつも甲板に上がって360度広がる海の広大さと美しさに感動していました。
目的地の澎湖島は、台湾と中国本土の間にある小さな群島で私はここで父と母と妹に久しぶりに会うことができましたが、運悪く、途中の門司港でたくさん食べたバナナが原因で「腸チフス」という伝染病にかかり高熱が出てきました。
大好きな家族には会えましたが、楽しみにしていた観光や買い物、海水浴もできないまま到着したとたん、すぐにおとうさんの部下の上与奈原軍医大佐が手配してくれた馬公海軍病院に緊急入院することになりました。
しかも、私のかかった腸チフスは伝染病ですから他の患者に伝染しないように病院の中の一番奥にあった隔離病棟に移されておよそ40日間テレビも娯楽もまったく無い、しかも壁にはヤモリが這うような殺風景な病室で過ごしました。
入院中、台湾人の17歳になるやさしい看護婦さんが専属で私の面倒を見てくれました。私は年上の彼女に親しみを込めて日本語で「おねえちゃん」といつも呼んでいました。
腸チフスにかかったらまず食事が制限されます。当時はペニシリンなどの腸チフスに対する特効薬が無く、ただ絶食して熱が下がるのを待つというだけの処置でした。
絶食中は、割り箸の先につけた水あめを1日5本だけなめるという食事療法でしたので中学1年生の食べ盛りの私にとってこの地獄のような治療方法はあまりにも過酷で我慢ができないものでした。
そのために毎日、「おねえちゃん、これじゃあ全然足らないよ、もっと食べ物をください」と何度もお願いしたものですが軍医の方針を貫かれた「おねえちゃん」は心を鬼にして嫌われ役に徹していたのです。
そのかいあって私は40日後に退院できることができましたが大切な夏休みはすでに終わっていました。
このお世話になった「おねえちゃん」には戦後40年経って私が所属していた佐世保ロータリークラブと台南ロータリークラブという2つの組織の連携で再会することができました。
ロータリークラブとはお医者さんや会社の社長さんなど、社会的地位のある会員を世界中に持った社会奉仕を行う組織のことです。
澎湖島で40年ぶりにあった「おねえちゃん」は57歳になっていましたが当時の面影は残したままでしたが事故で片足を無くして車いすに乗っていた姿に苦労がしのばれました。
「おねえちゃんおひさしぶりです。松永です。あのころは無理ばかり言ってごめんなさい」
といった私の言葉に涙を流してうなずきながらしっかり手を握り締めてくれました。
おねえちゃんが57歳、私が53歳の再開でしたがそのときだけはまるで時計が40年逆転して17歳と13歳の少年時代に戻ったようでした。
さて、まるで病気になるためだけに行ったような台湾旅行から同じ船旅で無事に日本に帰ってきた私でしたが、海の広大さ、潮の香り、船の魅力に惹かれてますます海軍の将校になる意思が固まりました。
しかし海軍の将校になるには当時、広島県の江田島という島の中にあった海軍兵学校を受験して合格しなければなりませんでした。
この学校は日本全国から海軍将校を目指す優秀な生徒がたくさん受験するので、東京の陸軍幼年学校と並んで難関とされていました。
また兵士になることが前提ですのでただ単に学力だけではなく身長、体重、視力、聴力などの身体テストもあり体の小さい私にとってはまさに難関中の難関でした。
事実、中学4年生のときに受けた試験は、身長がわずかに足らずに不合格になり、がっかりしました。
やっと身長が伸びて規定の最低ラインを超えた中学5年生のときは受験ができたものの筆記試験で点数が足らずに不合格になりました。これにはもう一回がっかりしました。
2回も不合格だったので周りの目に「本当に大丈夫か」という視線を感じ始めた私は、「お父さんのような海軍将校に本当になれるのだろうか」と自分自身でも大きなプレッシャーを感じるようになりました。
しかし「3度目の正直」と言う言葉があるように、なんとか次の年に受けた試験がパスして念願の海軍兵学校の狭き門をくぐることができたのです。
このときの入学試験倍率は20倍でしたので、よく自分でも通ったものだと感心しました。私のほかに同じ佐賀県三養基中学からは平山成人君と広尾彰君という生徒が2名、私を入れて合計3名が合格したことになります。
兵学校から届いた合格電報をもらったときは苦労して難関校に通った喜びよりも「やった、これでもう試験を受けなくていい。怒られなくて済む」という重圧から開放されほっとした気持ちが先にたったことを覚えています。
数日して落ち着いてからようやくうれしさがこみ上げてきて「やっとお父さんと同じ海軍兵学校に入れた、これでお父さんに負けないような立派な将校になることができる」と実感が湧いてきたのでした。
3 海軍兵学校
海軍兵学校は明治2年(1869年)に東京の築地で創立された海軍の仕官を養成する学校で当時は東京から移転して広島県の沖にある江田島という島の中にありました。
私の入学した昭和12年(1937年)4月はこの
兵学校ができてから68年目にあたりましたので入校した我々300名は海軍兵学校68期生と呼ばれます。
全国から志願した頭脳、体力、精神力とも優秀な生徒とともにこれ以後は江田島の学校内にある宿舎で勉学や体育のみならず寝起きもともにするわけです。
みなさんの学校と違って海軍兵学校は兵隊を指揮する将校を教育するところですのでその教育方法は一般の学校とは違って非常に厳しいものでした。
たとえば集合時間を1分でも遅れたら「鉄拳」といって1発殴られて、もし言い訳をしようものならさらに1発殴られます。
また遅れた1人だけが殴られるのではなく遅れた生徒が属している班のメンバーすべてが「共同責任」として均等に殴られることもありました。
この鉄拳で顔を殴るしつけを「修正」と呼んでいました。
以下は修正の手順です。
「貴様!集合が遅い 1分遅刻だ!」
「気合を入れるから一歩前」
「はい!」
「足を開け」
「はい!」
「歯を食いしばれ」
「はい!」
「眼をつぶるな」
そして次の瞬間左の頬に拳骨で「ゴンッ」と容赦ない一発が飛んできます。まさに目の前に星が光るような感覚が襲ってきますがそれでもよろけたり倒れたりせず踏ん張って先輩の次の声を待ちます。
「終わり」
「掛かれ」の声でやっと開放されます。
毎日廊下や食堂などでこれが行われますが非常にシンプルに短時間で終わります。
そして信じられないでしょうが殴ったほうも殴られたほうもそこには私情はまったくありませんので恨みを持ったりすることはまずありませんでした。
入ったばかりの我々新入生は4号生徒と呼ばれ、3つ上の1号生徒に生活態度や精神育成までまるで「親父」のように毎日厳しく修正されたものです。
また2つ上の2号生徒は「お兄さん」のような立場で厳しく我々新入生徒に指導してくれました。
そして1つ上の3号生徒はまるで「お姉さん」のように優しく接してくれ、1号生徒に鉄拳修正をされて沈んでいる私達を文字通り「父に叱られた弟を慰める姉」のような役割してくれました。
私も新入生のときは「早く1年経って殴られない3号生徒になりたい」と思っていたのですが私達4号生徒の見えないところで3号生徒もやはり殴られていたことがあとでわかりました。
兵学校の授業の内容は一般の高校と同じく国語、漢文、英語、数学、理科、社会などがありますが、当然、軍人を教育する場所ですから武器の使用方法、戦術、戦闘、柔道、剣道を文字どおりスパルタ教育で教え込まれたのです。
またその他に、軍人である前に船乗りでもあるので、航海術、気象学、海洋学、天文学などの艦船に配属されたあとでも必要な教育もありました。
学校内の成績はハンモックナンバーと呼ばれて卒業後も軍人を続ける限り一生ついてまわり、この席次によって海軍内での昇進や昇給が決まるので全員が一生懸命勉強したものです。
また海軍軍人は
「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」
と教えられていました。
ですから男性でも身だしなみや服装のチェックなども怠ってはいけないと言う理由で学校中すべての廊下の端には等身大の大きな鏡があり、必ず身なりをチェックしてスマートであることも要求されました。
また行動は敏捷が美徳とされており校内の階段はつねに2段づつ急いで駆け上がり、降りるときは急いで1段づつ降りることがスマートとされていました。
その他に、約束時間の必ず5分前に行く「海軍5分前の精神」や難しい作業や準備は先に済ませておく「出船の精神」、トップが常に危険に身をさらして見本を示す「指揮官先頭・率先垂範の精神」、指揮官が危険な現場を離れるのは常に最後であるという「キャプテン・ラストの精神」など洗練された海軍の教えは戦時中のみならず戦後の会社の経営者にも影響を与えているほどです。
そして特筆すべきものに兵学校の有名な言葉で昭和7年に当時の松本校長が作った「海軍五省」というのがあります。
1 至誠に悖るなかりしか
2 言行に恥ずるなかりしか
3 気力に欠くるなかりしか
4 努力に憾なかりしか
5 不精に亘るなかりしか
五省とは文字通り5つの反省を意味しており、これは今の言葉に直訳しますと
1 自分の心にうそをついていないかどうか
2 言っている事と実際の行動は恥ずかしくないか
3 いつもやる気が充実しているかどうか
4 すべてにおいて努力しているかどうか
5 いつも怠けていないかどうか
海軍兵学校生徒は毎晩ベッドに入って寝る前に必ずこの言葉を声に出して、自分の今日の一日を反省していました。
みなさんも一度試してみてください。
この言葉は国内のみならず海外の軍人も感動させたようで、戦後は英訳されて敵国であったアメリカの海軍兵学校であるアナポリス海軍兵学校でも正式採用されたほどです。
よく後世の人が「海軍兵学校は鬼のような先輩や先生から毎日殴られたり怒鳴られたりしてまるで地獄のような環境で青春時代を送らされた」と言われますが、実際に勉強した我々にとってこの学校の4年間は、もちろん女性との淡い思い出は無かったですが人生の中で一番充実して光り輝いた期間でした。
このことだけは自信を持って断言できます。
これから私が今でも海軍兵学校時代のいい思い出になっていることを書き留めます。
「赤道通過」
兵学校でも日曜日、祭日などの休日はありました。
その前の日になると1号生徒から4号生徒までが一つの班をつくり学校からカッターを借りて江田島の近くの島までミニ航海をします。
もちろん生徒とはいえ船乗りの卵ですから事前に海図を見てどの島に行くか、食料はどうするか、テントや寝袋の手配はだれがするかなど準備は万全にして行動計画表を学校側に提出してから許されるのです。
島に着くと、今でいうキャンプファイヤーを囲んで、持ってきた飯盒でご飯を炊き、野菜や肉、海で釣った魚などを調理して全員で食事をした後、星空を見上げながら流行歌を歌ったり、将来の夢や故郷の話、近所の女の子の話などをして朝まで語り合ったものです。
ここではもはや学校内の先輩と後輩という関係はまったく無く、ただ星の下で語り合う人間同士という関係で心の底から思っていることや考えをお互いにぶつけあったものです。
その行きと帰りに必ずカッターで通過する小さな海峡があります。
学校のある江田島の沖合いにポツンポツンと1000メートル間隔で赤い浮きが浮いていました。この浮きと浮きの間を結んだ眼に見えない線を我々は「赤道」と呼んでいたのです。
実際に遠洋航海などでは赤道を通過するときには必ず船の上で「赤道通過祭」というお祭りをするそうですが、我々はこの小さな「赤道」を越えるときには必ず「赤道通過!」と大きな声で叫びます。
この意味はこれから以降は1号生徒から3号生徒までが学年の隔たり無く無礼講で接することができるというルール変更の合図なのです。
また帰りは逆で同じく「赤道通過!」の声がかかるとまたルール変更で学年の上の言うことを絶対聞かねばなりません。つまり無礼講の終了を意味します。
「古鷹山登山」
学校の敷地の裏には標高392メートルの古鷹山という山があります。日曜日などの休日には学友と弁当を持って1時間半ほどかけて山の頂上まで上ることが楽しみでした。
頂上付近には鎖を引っ張って登らなければいけないような急な岩場もありましたが、その難所を抜けると瀬戸内海がパノラマのように広がり、眼下の兵学校や反対側には呉港に浮かんでいる戦艦や巡洋艦などをすべて見ることができました。
汗をいっぱいかいて頂上に着くと、学友と持ってきた弁当をほお張りながら指を指して「あれは戦艦山城、あれが巡洋艦長良…」などと軍艦の名前を言い合いながらお互いの知識を自慢したものです。
ですから、海軍兵学校出の生徒にとって「古鷹」という名前は非常に思い入れが強く、私も後日、巡洋艦古鷹に分隊長として乗ったときはまさに感無量でした。
「生徒倶楽部」
学校のそばには民間の家を借り切って「生徒倶楽部」という息抜きのための休憩場所が何軒か用意されていました。
江田島は四方を海に囲まれた島ですので休日でも広島などの本土に行って遊ぶことができません。そこで学友たちと島内にある指定された「生徒倶楽部」でトランプや囲碁、将棋、雑談、レコード鑑賞などをして休日を過ごしました。
また「生徒倶楽部」の中にはその家族の中に年頃の娘さんがいる民家もあって、思春期真っ只中の私達はそのような特別な思いのある「生徒倶楽部」に行くときは目いっぱいおしゃれをして行ったものです。
江田島の島民はみなさんが我々生徒に親切でみかんの季節になると、いつも「宿舎に持ってお帰り」と言って山ほどみかんをもらい、抱えて帰ったこともありました。江田島の人々はわれわれのことを尊敬とやさしさをこめて「生徒さん」と呼びまるで本当の家族のように大事にされたのです。
「弥山マラソン」
年に一度、全校生徒対抗で今では世界遺産になった厳島神社がある宮島にカッターで競争する行事がありました。
この行事には各班が気合を入れて望み、まさに「昨日の友は今日の敵」のような形相でカッターを力いっぱい漕ぎます。
競技はカッターだけではなく宮島に上陸後は「弥山」という標高が530メートルある山の頂上までマラソンをするのです。今で言うトライアスロンですね。
しかし足の速い一人だけが走りきってもだめで班の全員が同時にゴールしなければならない厳しいルールがあり、最後には元気なものが体力の無い生徒の肩を両側から支えながらゴールします。
「棒倒し」
土曜日の午後3時になると恒例の「棒倒し」がグラウンドで行われます。
みなさんも運動会や体育会で同じ種目があると思いますが、われわれの棒倒しのルールは今のルールとは全く違うものでした。
200mほど離れて紅白に分かれたチームがお互いの守っている棒を倒すところまでは同じルールですが、この合戦のあいだは「無礼講」で上級生であろうが級友であろうが思い切りぶん殴っても文句を言われない合意がありました。ですから攻撃側は「用意!始め!」の合図とともに日ごろから目をつけていた先輩を見つけてわざと殴りに行きます。
しかし我々下級生は棒を守るために円陣を組んで守備に回されるので相手の攻撃陣が来るや否や肩や頭を踏んづけられて登られるのにひたすら耐える係でした。
はるか頭の上では取っ組み合いや殴り合いが展開する音しか聞けないので今、自分達のチームが勝っているのか負けているのかの戦況すらわからないままにゲームが終わります。
わずか3分あまりの「棒倒し」が終わると構内の医務室は殴られてパンダのように目の周りが黒くなった生徒や体操着がボロボロに破れて血まみれになった生徒たちでいっぱいになったものです。
しかし週一回のこの棒倒しがわれわれが唯一先輩を殴れる機会でしたので仮に殴れなくても「息抜き」になったのは事実です。
「遠洋航海」
兵学校の最後のイベントでは、訓練と経験を積むためにどのクラスも練習艦という軍艦に乗って遠洋航海に出かけます。
68期の私たちは新造の練習巡洋艦香取という軍艦で上海まで航海したのですが、実際の太平洋の荒波というものは瀬戸内海でしか練習しなかったわれわれにとってとんでもない環境でした。
いつもは船酔いなど絶対しないと豪語していた生徒も大きな波のうねりの連続で起き上がれないくらいの激しさでした。
明治時代初期、勝海舟と日本の訪米団は咸臨丸という木造の小さな艦に乗って太平洋を航海したのですがよく当時の船で長距離の航海をこなせたものだと全員がつくづく感心したものです。
「MMK」
海軍はスマートでなければなりませんということは以前に述べましたよね。その風習で海軍内でしか通用しない一種の合言葉みたいなものがありました。
現代でも「KY」という言葉がありますね。これは「空気を読めない」の頭文字を取ったものだそうですがそれと全く同じことが兵学校でもありました。
ちょっと例を挙げます。
「昨日はMMKだった。」・・・ 「昨日はモテてモテて困った」
「あつはZUだ」・・・「あいつはずうずうしい奴だ」
「FUを忘れた」・・・「ふんどしを忘れた」
「Nる」・・・「のろける」
など他にもいろいろありましたが、なんと今の若い人の間でもこのような合言葉が流行していると聞き「歴史は繰り返す」というのを実感します。
このように、一般には鬼のように厳しいと言われる海軍兵学校も、私たち生徒にとっては非常にいい思い出がぎっしり詰まった宝箱のようなものなのです。
4 海軍兵学校卒業
昭和15年(1940年)8月7日海兵68期の我々288名は戦争が近づいてきたので予定を半年繰上げで3年間半の教程を無事終了して卒業しました。
入学時は生徒数が300名のクラスでしたが訓練中の事故や病気のために12名が欠けた卒業式になりました。
卒業式では卒業証書とは別に成績優秀者だけに「恩賜の軍刀」という刀が授与されます。
これは明治11年に陸軍士官学校の優秀な者に明治天皇が自ら軍刀を授けたことが起源で、この軍刀をもらった人は「恩賜組」といって将来の出世を約束されたのも同然でしたので他の級友からは羨望のまなざしで見られたものです。
その後校長先生から日米開戦が切迫していることと、もし開戦したら我々は早速指揮官として現場に行き、責任を持って部下を統率して任務を果たすように訓示がありました。
卒業式の後、外に出ると校庭に後輩や先生たちが2列で人垣を作って待っていてくれてその間を行進して海にあった「表桟橋」に向かいます。
このときに今までさんざん殴った後輩から
「先輩今までありがとうございました」
「御武運を祈ります」
「また海の上で会いましょう」
と涙ながらに肩をたたいて別れを惜しんだものです。
行進が「表桟橋」に着くと全員が海軍少尉候補生として練習艦香取という艦に乗り組みます。この艦は同じ年にできたばかりの新造艦でわれわれのような少尉候補生が遠洋航海で航海術や砲撃、魚雷攻撃などの実習するのが目的の艦でした。
遠洋航海は毎年太平洋を横断してサンフランシスコまで行って戻る行程だったのですがアメリカとの戦争が現実味を帯びてきたこの時期は目的地が上海に変更されました。
しかし目的地はかわっても艦内でやることは同じで、毎日のように甲板掃除に始まり砲身磨き、敵を探る訓練、攻撃訓練が課せられてわずかな期間でしたが学生気分が一度に吹っ飛びました。
練習艦鹿取の任務を終えた私は、その後戦艦陸奥の乗り組みを命じられました。
戦争中ではありませんでしたが実戦部隊に乗り込んだ私の下には部下がつきました。
部下の中には少年兵からのたたきあげで昇進してきた私よりもうんと年上の曹長という人間もいます。
兵士としてだけでなく船乗りとしての経験も実績も自分より何年も長い部下を従えて私は海軍兵学校を卒業した人間の責任の重さをひしひしと感じました。
そのころ世界にはビッグ7という強力な戦艦が7隻ありました。
イギリスのネルソン級戦艦2隻、アメリカのコロラド級戦艦3隻と日本の長門と陸奥です。
この7隻すべてが口径40センチの主砲を持っており当時世界の最高水準の戦艦で私は、幸運にもそのひとつである陸奥に乗ることができたのです。
戦艦にはむかしの国の名がつけられていて、私の乗った陸奥は今の青森県に当たる地名がつけられたのです。
最初に乗艦したときはまるで城の天守閣のような大きな艦橋に驚きましたが何よりも頼もしく見えたのは8本の主砲です。
主砲の射程距離は30kmもあり、水平線にあらわれた敵をむこうが手が届かないうちに撃つことができました。また艦の排水量は32000トン、長さは215m、幅29m、8万馬力のエンジンで27ノットの速力を出せる、まさに「浮かべる城」そのものでした。
陸奥はそのような優秀な艦でしたので、休日には政府の高官や皇族などたくさんの見学者がひっきりなしに訪れました。
私は兵学校時代には勉強はまったくできませんでしたが、人前で楽しそうに話す度胸とユーモアが買われていつも団体訪問客の案内役に選ばれたのです。
あるときご婦人方が多数陸奥に来て私にこう質問しました。
「あの世界一大きな8本の主砲はそうとう重いのでしょう。いったいそんな重いものをどのように動かすのですか」
「もちろん重いですけど水圧で軽々と上下に動かすことができますよ。まるで日劇のラインダンスのようです」
とおどけて足を交互に上下して説明するとほとんどの人が声を立てて笑って聞いてくれました。
この陸奥は私が退艦してから約2年後に、不幸なことに山口県の柱島で停泊中に謎の爆沈をしてしまいました。
お昼時間の12時10分に「ドーン」という大きな音とともにまわりの艦隊のみんなが見守る間に3番砲塔から切断された形で2つに折れて乗組員1500名と共に沈んでいきました。
この事故で生き残ったのは350名ほどでほとんどは爆死で亡くなったようです。
爆沈の原因はノイローゼになった乗組員が自爆したとか敵国のスパイが爆弾を仕掛けたとかいろいろありますが、いまだに不明です。
このことは軍の極秘あつかいとされ以後軍内でも陸奥の話題は一切禁止され、この沈没海域付近は一般船舶の航行禁止になりました。
ですから国民は戦後まで陸奥の爆沈を知らされず、米軍もまた同じで進駐軍は日本に上陸後「ところで陸奥はどこだと」言ったそうです。
5 開戦
昭和16年(1941年)12月8日、日本はアメリカを主力とする連合軍に宣戦布告しました。
ハワイにある真珠湾に、4隻の空母を主力とする第一機動部隊がおよそ350機の飛行機で襲いかかり、停泊中のアメリカの戦艦や巡洋艦を湾内に沈没させたのです。しかもほとんどの飛行機は無傷の姿で戻ってくることができましたので作戦は大成功です。
日本国民は朝早くのラジオでこの一報を聞き「憎き鬼畜米英相手によくやった!」と歓喜に沸きたちました。
同じ日、私は戦艦榛名という30000トンクラスの艦に乗り組み、仏印(今のベトナム)の陸軍上陸作戦を支援する行動中に艦上でこの報を聞きました。
この奇跡の大勝利を聞いてまわりの上官や部下達は全員が
「よくやった!」
「日本万歳!」
と大喜びしていましたが、私だけは複雑な心境でした。
なぜかというとこの大勝利の裏に人知れず私の友人が参加して帰らぬ人となっていたからです。
日本の飛行機が真珠湾に突入する前の夜に実は特殊潜航艇という2人乗りの小さな潜水艦5隻がすでに湾内突入作戦を行っていました。
しかし真珠湾の入り口に張られた防潜ネットという網にひっかかり5隻とも湾内には入ることができず偵察任務は果たしたものの攻撃は失敗に終わり4隻は撃沈されました。
この隊員10名の中に同じクラスメートで同郷の広尾彰君が搭乗していたのです。
しかも開戦最初の犠牲者なのでその中で捕虜になった酒巻少尉一人を除いて戦死した9名が日本国民全員から尊敬と感謝の念で「九軍神」として神様あつかいをされました。
広尾君は私と同じ佐賀県の三養基郡出身でした。
当然同郷という間柄、海軍兵学校時代は、勉強でわからないところをお互いに教えあったり、先輩に一緒に殴られたりまさに苦楽を共にした「肉親」と呼んでもいいほどの仲でしたので撃沈される様子を思うだけで胸をかきむしるような悲しみを感じましたが「これが戦争というものだ」と何度も自分に言い聞かせたのです。
大勝利に酔う日本国民にもうひとつの朗報が続けて飛び込んできました。
開戦から2日後の12月10日、シンガポールに配備されていたイギリス海軍最大の戦艦プリンスオブウエールズとレパルスを日本軍が飛行機だけで撃沈させたというニュースです。
このころ世界中は「大鑑巨砲主義」といって大きな大砲を持った戦艦こそが海軍の主力でこの数が多ければ多いほど強い海軍であるというのが常識でした。
しかし日本は開戦時にその戦艦を真珠湾で飛行機が撃沈するという離れ業をやってのけたのですが、あくまでもこれは停泊中の戦艦でしたので動いていない戦艦は飛行機に弱いが作成行動中の戦艦には通用しないだろうと言われたのです。
この反論をくつがえしたのがこのマレー沖海戦です。
イギリスが誇るこの2隻の戦艦はマレーシアに上陸する日本の陸軍部隊を攻撃するためにシンガポール港を出港して、いつ敵が来ても迎え撃つ準備ができていたにもかかわらずサイゴンから飛び立った日本の爆撃機130機によってわずか1時間の戦闘で沈没、艦長のフィリップ大将以下840名が戦死してしまったのです。
この報告を電話で聞いたイギリスのチャーチル首相は、
「最初この報告を聞いたときはハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。ただ幸いだったのは私が1人のときにこの報を聞いたことだ」と述べ、また戦後の彼の著書では「マレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだ」と言っています。
いずれにせよこの日をもって海戦の主力が戦艦から航空機に移り「大鑑巨砲主義」が終わったとされています。
さきにも述べましたがこの奇跡のような海戦をベトナム・サイゴン司令部で指揮したのが私の父親松永貞一中将だったので私はその後様々な部署で有名提督の息子として「親の七光り」扱いを受けたのでした。
「お父さんの名を辱めないようぼくも精一杯がんばろう」
と心に誓ったものです。
日本は、それからの戦いではどの方面でも一方的勝利が続き、年が明け、陸軍の山下奉文将軍が率いる部隊がシンガポールを攻略するまで日本は連戦連勝で、「戦えば必ず勝つ」といわれました。
これは野球で例えるなら1回の表でいきなり満塁ホームランが飛び出したようなもので国民誰もがこの戦争は楽勝だと感じたのも無理もありません。
しかし、約半年後の昭和17年(1942年)6月6日のミッドウエー海戦で日本の主力空母4隻を失って大敗して以降は物量と工業力を生かしたアメリカの戦法に抵抗できずに今までの連勝ムードはどこへやら、「戦えば必ず負ける」ような転落の一途をたどったのです。
アメリカの工業力の強大さを知る山本五十六司令長官が言った
「アメリカと戦争しろというなら長期戦は絶対無理です。しかしどうしてもやれというならせいぜい半年間は暴れて見せます」
という言葉が現実のものになったのです。
これは野球で例えるなら2回の裏でアメリカが満塁ホームランを出して同点に追いついたようなものです。
その後日本は毎回ヒットが出ずに0点が続きアメリカは毎回得点を重ねて最後の9回の裏に2発の原爆を投下して駄目押しの満塁ホームランを出したようなものです。
しかし国民にはこのスコアは発表されず新聞やラジオでうその報道を流して終戦まで最初の4点のリードが続いているものだと信じ込まされていました。
今のようにインターネットや携帯電話のない時代でしたので正確な情報を取るすべのない国民はわからずじまいでしたがそれでも戦争終盤になるとB29という大型の爆撃機が日本の主要都市を次々と爆撃するようになると
「日本は本当は負けているんだ」
「海軍は全滅したらしい」
「おれたちは軍部にだまされている」
と誰もがうすうすは感じていましたが憲兵の取締りが厳しいこの時代では決して大きい声では言えない風潮がありました。
私は、この戦争中3度、乗っていた艦を沈められた経験があります。
1回目は昭和17年(1942年)10月11日、古鷹という巡洋艦に乗っていたときガダルカナル島沖の海戦で撃沈されました。
このときアメリカ軍は開発直後の電信探査機というレーダーの初期版でこちらを狙って正確な射撃をしかけたのです。
その結果、戦闘がはじまってからわずか10分くらいの間に敵艦からの砲弾が正確に雨あられのように飛んできました。
約80発の砲弾は私の働いていた艦橋をはじめ、あらゆる大切な部署に命中して航行不能になり、その後沈没したのです。
このとき沈む艦から脱出した私は漂流しているところを味方の駆逐艦に発見されて九死に一生を得ました。
2回目は昭和19年(1944年)2月17日、私が次に乗艦していた那珂という巡洋艦が、トラック島に停泊している時に、敵の飛行機によって爆弾を投下されて撃沈されました。
前回と違ってこのときはは島に停泊していたので沈没した艦から海に飛び込んだ私は泳いで近くの陸地までたどり着き助かったのです。
3回目が名取という巡洋艦で、フィリピンの首都マニラから南洋諸島のパラオに輸送任務についている途中をアメリカの潜水艦によって魚雷攻撃を受けて沈没したのです。
6 巡洋艦名取
巡洋艦というのは、戦艦よりは戦闘力は大きくないが速い速力で相手を追っかけて、魚雷攻撃をかけたり足の速い空母の護衛をしたりする船で、大きく2種類に分けられていました。排水量が1万トン以上の艦を「重巡洋艦」といい日本の有名な山の名前が艦名につけられました。
排水量が1万トン未満の艦は「軽巡洋艦」といいこちらは川の名前が艦名につけられました。
私の乗り組んだ巡洋艦名取は排水量5500トンの建造から20年以上たった老齢艦でした。
名取という名前は宮城県を流れる名取川からつけられたもので日本海軍が信頼していた巡洋艦長良型の3番艦として長崎の三菱重工で建造されました。
巡洋艦名取は全長162メートル 横幅14メートル、エンジン主力9万馬力で時速36ノット(約60キロ)で走ることができます。
また兵装は主砲14センチ砲5門、12,7ミセンチ高角砲1門、25ミリ機銃12門、13ミリ機銃4門、61センチ魚雷発射管8門、対空用と 水中用レーダーが一つずつ装備されていました。
艦長の久保田智大佐は長野県出身の豪快な性格の方で、かつてパラオから多くの日本人をフィリピンに避難させたおりその中に妊婦が一人乗っていました。
彼女はすでに臨月の状態で乗艦して艦内で出産したのですがその生まれた子供に「太平洋の上で生まれた子供だから洋一と命名しましょう。お母さんに出産のお祝いにワインをお贈りします。」と名付け親になったこともあります。
戦争に使われる軍艦に女性が乗ることさえ珍しいのに、その上出産して子供の名前を艦長がつけるというケースは長い海軍の歴史の中で後にも先にも名取だけです。
そしてそればかりか名取の乗員全員に伝わるように艦内放送で
「ただ今本艦上で元気な男の子が生まれた。名前は私が洋一君と命名した。今日は赤飯を出すので全員で祝福するように。以上!」
と報告したとたんに乗り合わせた避難民を含めて艦内すべての人から
「よかったよかった」
「おめでとう」
と祝福の声が一斉に沸き起こりました。
そのような人情があり、またユーモアに富んだ豪快な艦長でしたから、乗組員全員がまるで自分のおやじのように慕って、艦内はまるで家族のような雰囲気でした。
もちろん軍隊ですので普段の生活は朝の甲板掃除から始まって主砲や魚雷の発射訓練、飛行機に対する対空訓練などまさに地獄のような訓練や任務に追われる毎日でしたが「久保田艦長のためなら死んでもがんばるぞ」という気合がつねに艦内にみなぎっていました。
これは非常に重要なことで、狭い艦内で長い海上生活を送る以上、親子のような信頼関係がなければ成り立ちません。
名取は戦争が始まった最初のころはさまざまな海戦に従軍していましたが私が赴任したときのこの艦の仕事は「戦う」ことではなく物資を「運ぶ」ことが主な任務でした。
太平洋の戦況が悪化していくとともに陸軍の兵士は中国大陸の満州から徐々に南方の島々に移動されていきました。
その移動にともない当然兵士だけではなく銃や大砲、水、食料など長期間の孤立した島での戦いに必要な物資を南方諸島に送る必要に迫られたのです。
最初は輸送艦という物資を運ぶ目的の船でその輸送任務を行っていたのですが私が赴任した時期にはすでに多くの輸送艦がアメリカの潜水艦に魚雷で沈められていた後だったので名取はその早い足を活かして輸送艦のかわりの任務についていました。
我々名取乗員が、「久保田一家」と称しながらフィリピンとパラオの約1000キロの行程を何度も輸送任務をこなしていたときのことでした。
7 名取撃沈
8月18日午前2時ごろでした。
夜間艦橋にて見張り員の大きな声が響きました。
「前方雷跡確認!敵魚雷急速接近」
「おもかじ一杯!魚雷をよけろ!」
よける暇もなく名取に魚雷がぐんぐん近づいてきてついに船腹に突き刺さりました。
私は通信長として艦橋に配置していましたがこの声を聞いた直後「ドーン」というものすごい音と何かにつかまっていなければ立っていられないほどのすさまじい振動が同時に伝わってきました。
戦艦のような装甲の厚い艦なら魚雷の1本や2本は平気ですが、5500トンクラスの巡洋艦などひとたまりもありません。
「やられた!」
「魚雷だ!応急処置を取れ」
「火だ!先に火を消せ」
「負傷者の手当てをしろ!」
真っ暗になった艦内ではさまざまな怒号や叫び声、命令が飛び交いました。
魚雷が命中した付近は艦の装甲に大きな穴が開き、そこから海水が一気にどっと入ってきます。また魚雷は装甲を突き破って大爆発を起こしますので艦内にはいたるところで火災が発生して火とともに有毒ガスが発生しました。
もうもうと渦巻く煙と火炎ののなか、怪我が少なかった乗組員が日ごろの訓練どおりに必死に応急処置をしますが、彼らの奮戦もむなしく広がる火と増えてくる水の勢いは全く衰える様子はありません。
しかし傷つきながらも名取はなんとか速力6ノットでまだ航行が可能でしたが午前3時半にしつような潜水艦はとどめを刺すためにもう一度魚雷を発射してきました。
速力6ノットではよける暇もスピードもありません。まるで止まっている的を打つように2本目の魚雷も名取を捕らえました。
もうだめかと思い目をつぶったときに艦の後方に突き刺さった魚雷は幸いにも不発でした。
しかし付近にはまだ潜水艦が息をこらしてわれわれを狙っているのがひしひしと伝わってきます。
その中で艦内の様子が伝えられます。
「火災発生 消火不可能」
「艦内有毒ガス発生」
「主砲弾薬庫付近温度上昇」
各部署からの報告をじっと聞いた後ついに久保田艦長は立ち上がって伝声管に向かってこう叫んだのです。
「沈没を避けるために艦内の重量物、武器を海に投下せよ」
相手と戦うために運んでいた重たい砲弾や銃、武器などがつぎつぎと海中に捨てられていきます。
続いて
「カッターに生水と乾パンを載せるように」
「艦内の木材で急いでいかだを組み海に浮かべるように」
てきぱきと艦長の指示に従ってパラオへの食料、弾薬、兵器などが海に投下されましたが名取の艦首はどんどん海に沈んでいくのみです。
「カッター、内火艇、いかだを降ろせ」
この指示に従って全員が救助船を海に降ろし始めました。
しかし朝の5時過ぎに苦りきった顔で機関長と話をしていた艦長はついにこう命令したのです。
「総員退去!総員上甲板へ!」
この命令が出たら軍艦の最後です。全員がどんな任務も放棄して艦の一番上に出てきてすぐに海に飛び込み、少しでも艦から離れて避難しろという最後の命令です。
あちこちのドアやハッチから顔にやけどをしたものや片腕をもがれた者、骨折して片足を引きずるものが甲板上に集まってきました。
傷を負っていないものたちはすでに海に飛び込んで泳いでいます。
艦上では部下の飛び込む様子を久保田艦長はじっと見ており
「最後のぜいたくをするぞ」
といって一度に2本のタバコに火をつけて吸い始めました。
そして甲板の最後の兵が飛び込むのを確認した後に艦長室に入り中から鍵をかけました。
艦長は艦が沈むときは責任を取って最後まで残るというのが日本海軍の伝統でした。
そのことを知っていた私は艦長室に敬礼をして最後の別れをしたあと部下とともに何も持たずに海に飛び込みました。
さっきまで私たちが乗っていた名取は波間で泳いでいる我々の後方で逆立ちするような姿勢のまま海に沈んでいきました。
その中にはパラオ島に運ぶ予定だった大切な食料や武器、弾薬が残されたまま、脱出できなかった兵士とともに海の藻屑となったのです。
私はその様子を泳ぎながら見て、われわれの物資を心から待っているパラオ島の兵士と沈んでいった仲間のことを思うと
「畜生、アメリカめ!今に見ていろ!」
と歯ぎしりをするような悔しさを感じたのです。
戦後わかったのですが私たちを沈めた潜水艦はハードヘットという名前の潜水艦で輸送任務中の名取をかなり前から追跡して魚雷を発射したそうです。
沈没地点は北緯12度5分,東経129度26分でした。
8 漂流
漂流1日目 8月18日
私は名取から海に飛び込んだあと急いで部下を探しました。
南洋の海ですので海水の温度は冷たくなくて幸いでしたがこの日の海はとても時化ていて天気も悪く、5メートルほどの大きなうねりが何度も襲ってきていかに泳ぎが達者な海軍の兵士といえども何回も水を飲まされるような悪状況でした。
私にとって乗っていた艦が沈められたのはこれで3回目なので心に少し余裕がありましたが他の者達は初めての経験の者もいたのでそれが心配でした。
そこで真っ先に考えたことはとにかく部下が離れ離れにならないように急いで自分の回りに呼び寄せることでした。
波のうねりの関係で自分の浮いている周りが山のように盛り上がったときには漂流している全体の人数がわかります。
状況を確認するとだいたい300名ほどが泳いでいて、そのまわりには沈む時に艦から放出したカッター3隻と内火艇というボート2隻、いかだが多数が目に入りました。
カッターというのはみなさんも映画「タイタニック」の最後のシーンなどで見たことがあると思いますが大きな船が沈んだ時に降ろされる乗員救助用の木でできたボートのことです。
船の端を、なたで切ったようにカットされている形状からカッターと呼ばれます。
商船や客船はもちろんですが海軍の軍艦にもこのカッターは備えられており沈没時の訓練では必ず艦が沈む前にロープを切って海に浮かべるよう教育されていました。
名取に装備されていたカッターは長さ9m、幅2.5m、重さ1.5トンで45名乗り、左右合計12本のオールがついていました。
操縦方法は1本のオールに2人ずつが担当して、通常では1人の艇長の指示で24名が漕ぎ、その他の20名が余った空間で次の交代まで休憩できるように設計されています。
波間で漂っている隊員たちに階級の上のものが「全員おれのまわりに急いで集まれ」と声をかけて波間に次第に1つの集団が形成されていきます。
そして大きくなった集団は別の大きな集団と合体して一かたまりになり、近くに浮いている無人のカッターに近づいて怪我人から順番に乗るように指示が飛びます。
カッターに乗り切れなかった人たちはエンジンのある長さ11メートルの30名乗りの内火艇2隻と急ごしらえのいかだに分乗しましたが内火艇の一隻は艦から海に降ろしたときに損傷したようでまもなく沈没してしまい、もう一隻はエンジンの故障で波によって遠くへ運ばれて行ってしまい次第に見えなくなってしまいました。
エンジンがかからなければオールで漕ぐことも帆で進むこともできないのが内火艇の欠点です。
戦後聞いた話ではこの内火艇はその後漂流中にフィリピンに向かうアメリカの軍艦に見つかって全員が捕虜になったそうです。
エンジンがかかればロープで引っ張ってもらおうと唯一頼りにしていた内火艇を失ったわれわれカッター3隻といかだ集団はなんとか一箇所に集まりロープで固定して今後のことについて相談しましたが「とにかく今日はこの場にとどまり、1人でも多くの漂流者を助けよう」ということで意見がまとまりました。
さらに名取の久保田艦長と補佐していた副長が艦とともに亡くなった今、艦内で航海長であった27歳の小林英一大尉が3隻といかだ集団の指揮を執ることに決まりました。
そして3隻のカッターにはそれぞれ大尉クラスの仕官が艇長となり総指揮官の小林大尉の命令を受けて行動をすることも決まりました。
当時通信長であった大尉の私も艇長の中の1人に選ばれたのです。
天気の悪かったこの日は一日中漂流者の救出作業に明け暮れ、最終的には約200名の兵士がカッター3隻といかだに分乗しました。
またこの日は非常に波が高かったので横波で転覆をおそれた私は「シーアンカー」の作成を提案しました。
「シーアンカー」とは海碇ともいい文字通り海の中の碇で波間に漂う船を安定させるために考案された道具です。
私の提案に賛成してくれた小林大尉は残りの2隻にも「シーアンカー」を作るよう命令しました。
さっそく真っ暗の中で私はカッター内にあったスリングという重い機材と漂流していた木材で「シーアンカー」をつくりましたがその時に兵学校で習った「もやい結び」がしっかりできたので「本当に教育は大切だな」と実感したのです。
兵学校の教官の「ロープの結び方は40種類あるがこのもやい結びだけは死んでも忘れるな」との言葉で私達は目をつぶってもこのもやい結びはできるように訓練されていたのです。
このにわかづくりの「シーアンカー」によってカッターはうそのように横揺れがなくなりました。
これで横波に対しては抵抗力ができましたが漂流時に海水にぬれた軍服が夜の寒い気温に触れて体力を奪うのをぶるぶる震えながら夜明けを待つのは地獄のようでした。
「早く朝よ来い!」
私は寒さに震える隊員たちを見ながらそう念じたものです。
カッターにいる私達さえそのような状況でしたので半身を水に浸かったまま漂っているいかだの乗員の寒さと疲労は想像を絶するものだったでしょう。
漂流2日目 8月19日
悪夢のような一夜がやっと明けました。
しかしこの日も熱帯性低気圧が居座って天候に恵まれずに一日中太陽の姿を見ることができませんでした。
空には我々の名取の撃沈を聞いたのでしょう、味方の飛行機が飛んで来ましたが、大きく手を振るわれわれを救助する様子もなく、通信筒という連絡メモが入った筒を海面に投げて遠くに行ってしまいました。
通信筒の中のメモには「駆逐艦に救助を要請するのでその場を動かぬように」と書いてありました。
明るくなってから見回すと、カッターに乗っている隊員は下は17歳から上は50歳まで年齢はばらばらでしかもすべて同じ健康状態ではありませんでした。
沈みゆく名取から海に飛び込むときに漂流物にぶつかって手足を骨折したものや打ち身などの怪我をしていたもの、すでに艦内でやけどをしていた人もいました。
カッターの中にはこのような大きな怪我をしていた人たちが10名ほどいましたが、医薬品も医療機器もない状態ですので介抱のかいなくそのうちの4名が亡くなりました。
全員敬礼の中、死体はそのまま海に流しました。
そのほかのけが人もまわりの隊員たちが
「がんばれ、がんばれ」
「味方がすぐ助けに来るそうだ」
と励まして濡れた衣服が早く乾くようにみんなで全身をさすっていましたが長く持ちそうな容態ではありませんでした。
全員の頭の中には通信筒のメモを信じてすぐに味方の駆逐艦が来るであろうと予想しましたが結局この日は待てど暮らせど救助は来ないまままた夜を迎えたのです。
「明日は救助が来るだろうか。ひょっとしてこのまま救助は来ないのではあるまいか。また救助の艦も潜水艦に撃沈されたのではないのだろうか」と360度島も船も何も見えない星空の下で私は思いました。
漂流3日目 8月20日
待ちに待った太陽が東から昇ってきます。
それを見て誰かが軍歌を歌います。
「見よ東海の 空明けて 旭日高く 輝けば
天地の生気 溌剌と 希望は躍る 大八洲
おお 晴朗の 朝雲に 聳ゆる富士の 姿こそ
金甌無欠 揺ぎなき わが日本の 誇りなれ」
全員が久しぶりに見る太陽に手を合わせて
「やった太陽だ」
「これで寒さに震えずにすむ」
と感謝しながら全員が助かったような顔をしていました。
先日に続いてやけどを負った2名の隊員が朝息を引き取りました。
「痛い痛い」と終日我々に訴えていましたが結局さするだけで何もしてやれずに亡くなり、昨日同様敬礼をしながら涙で見送りました。
私は昇ってくる太陽を見ながら
「動くかここにとどまるか、今日が決断の日だな」
と思っていました。
同じことを思ったのか総指揮官の小林大尉は集まっている3隻といかだにむかってこう言いました。
「現在の生存者数は」
しばらく手旗信号で3隻のカッターといかだの隊員とのあいだにやりとりがあって
「合計195名です」
「よし!定員45名にこだわらずいかだによって漂流している隊員をすべてカッターに全員移動させる」
その言葉の後疲れきったいかだの隊員たちが全員カッターに引き上げられました。
3隻で195名ですから1隻に60名が詰め込まれたかたちになり、45名定員のカッターはまるですし詰め状態で体を動かす余地もありませんでしたがそれでも誰も文句を言いませんでした。
そして全員に聞こえるような大きな声で
「総員に告ぐ!これよりわれわれは名取短艇隊を組織する」と叫んだのです。
そして続く言葉に全員が耳を疑いました。
「我々名取短艇隊はこれより回漕と帆走で一路フィリピン本島を目指す!」
この意味は、けが人を満載したカッターで東京から神戸間に匹敵する約600キロを回漕(オールを手で漕ぐこと)と帆走(風があるときに帆をたてて進むこと)で踏破しようということです。
軍隊の上官命令は絶対服従です。
しかしさすがにこの時はあちこちで
「絶対無理だ」
「フィリピンまで何キロあると思っている」
「不可能だ」
などと大きな声ではありませんが明らかに全員から不満の声があがりました。
特に漁師出身者などは「遭難時にはむやみに動くものでない」と頑として言うことを聞こうとしなかったし「昨日の通信筒のメモにも動かぬようと書いてあったではないですか」と抵抗するものもいました。
しかし小林大尉は全員に諭すようにゆっくり言いました。
「味方の駆逐艦は輸送作戦を優先させるので我々を助けに来るかどうかわからない。また実際に来ていたかもしれないが撃沈された可能性もある。カッターが沈没海域に3隻浮いていたのは味方の飛行機が昨日確認している。木でできたカッターは絶対沈まないものであるのは海軍の常識である。誰かの反対意見のように味方が救助に来ればいいが、もし我々がこのまま動かずにここにいて救助がこなかったら全員飢えと暑さでまちがいなく死ぬであろう。その時、我々は戦死ではなく行方不明の扱いとなる。戦死と行方不明ではおまえたちだけではなく、おまえたちの家族を見る近所の目も変わる。まして巡洋艦といっしょに沈んだ久保田艦長以下の将兵も同じ行方不明扱いになるのだ。われわれに根性がないために死んでいった仲間まで不名誉な行方不明者にしてもいいのか!」
全員静かに聴いていました。
この言葉のあとは誰も文句を言い出しませんでした。
それどころか
「お願いです小林大尉、どうか我々をフィリピンへ連れて行ってください」
「そうだ、何とかフィリピンまで行こう!」
「やってやれないことはない!」
と前向きな意見すら出てきたのです。
しかし実際は「言うは易し行うは難し」で沈没地点のこの位置からフィリピン本島までどう少なく見積もっても600キロはあるし、だいたい着の身着のままで海に飛び込んだわれわれは長距離の航海に必要な海図やコンパスや六文儀などの機械はおろか食べ物や飲み水すら満足にないという状況で、果たして犠牲者を出さずに無事フィリピンまで行けるのかなと正直私自身も心配したものです。
幸いカッターの中には樽の中に非常用に45名分の乾パン(親指大のビスケットのようなお菓子)があるのは確認していましたが昨日、おとといと2日間すでに食べている分を差引いて60名に対して一週間分ほどの量しかありません。
乾パンとは日清戦争のあと日本陸軍が長期遠征に行った兵士の補給用に従来のおにぎりにかわる携帯食として開発したものです。
特長は最長で5年間保存可能なこと、栄養価が高く、食後ものどが渇きにくいというもので完成後は陸軍だけではなく海軍でも採用されてすべての軍艦のカッターに配備されていました。
現在でも自衛隊や地震などの災害救助用の補給食として使われています。
小林大尉は自分の説明に納得した隊員たちを見回して
「水はスコールの雨を飲んでとにかく凌げ、食料は乾パンを節約して30日分に伸ばすように」と指示しました。
また3隻とも艇長が乾パンの入った樽の上に腰をかけて乗っかり、ちゃっかり乾パンをくすねるような不届き者が出ないように見張りをするよう指示しました。
およそ船の世界の常識として、漂流した場合の最後は食べ物に飢えて死ぬよりも先に残った食べ物をめぐって乗組員の反乱が起こり殺し合いの果てに全滅する例が多いそうです。
私もこのことを兵学校で習って知っていたので食料が少ないカッター内でできるだけ反乱が起きないようにするにはどうしたものかと真剣に考えました。
小林大尉も同じ意見で、私に「おい松永、全員をリラックスさせることができるいい案があれば何でもいい、どしどし意見してくれ」と頼みにきたものです。
みなさんもご存知のようにフィリピン海上といえば赤道直下です。
昼間の太陽は「暑い」という表現では足らず「痛い」と言ったほうがいいくらいの日差しで軍服から露出している肌をまるで突き刺すような感覚が襲ってきます。
このような過酷な日中にさらに体力を消耗する回漕作業はいたずらに疲労を高めるだけなので
「昼間は夜に備えてできるだけ眠るように」と命令が出ました。
そして日が落ちて涼しくなってから次の朝まで24人が1時間、その後交代して別の24人が1時間、これを繰り返して計10時間回漕することに決まったのですがさてどちらが西か東か見当すらつきません。
もちろん太陽が出てくる方角が東で沈む方角が西ですからある程度の方向はわかるのですが広い海の上ではたった1度角度が違っても正しい位置に船を進めることができないことなど全員が知っています。
ここで小林大尉は全員に質問をしました。
「いいかよく聞け。子供のころからの迷信や言い伝えでも何でもいい。とにかく方位や天気を特定するのに役に立つことわざや言い伝えの言葉を思い出してくれ。思い出したら階級の上下なく遠慮せずにどんどん意見するように。以上!」
この言葉のあとに実家が漁師の兵から、「おばあちゃんに昔言われたことがあります。『辰巳の雷はこわくない』と。なぜかと言えば地球の自転上、東北方向(辰巳)に光っている雷は遠ざかるだけだからです。」
またあるものは
「さき(南西の方向の空)が悪いと雨」と言います。
「遠くの音が良く聞こえれば雨」
「夫婦喧嘩と北風は宵のくち」
「あはは!」
このようにいろいろな言葉や言い伝えが飛び出し続けたのです。
言い伝えを思い出して言う方もそれを聞く方もまさに命がかかっているので真剣そのものでした。
1人の士官が言いました「真西に行けばフィリピン群島ですね。それではオリオン座とさそり座を使いましょう。オリオン座は天の赤道付近にあります。さそり座は天の赤道のやや南寄りにあり、これらは地球上のどこでみても必ず東方からでて西方に沈みます。これらの星座が東にあれば背を向けて進み西にあれば向かって進めば確実にフィリピンがある西に進めるわけです」
海軍兵学校では3年半にわたり航海術を学んだわれわれ士官ですがそれはあくまでも軍艦内で立派な装置や地図があることが前提の授業でした。今はそのような文明機器を頼ることなく航海しなければならないので昔の遣隋使や遣唐使時代の船乗りの心境がよくわかりました。
いつも高い艦上から眺めていたやさしい海面が急に悪魔のように思えてきたのです。
夜、星が出てから星座の位置で方向を確認後、フィリピンへの10時間の回漕がはじまりました。
元気に艇長の掛け声のもと漕ぎ手全員が声を出してスタートです。
カッターとは難しい乗り物で、特に最初の漕ぎ出しは全員の息が合っていないとスピードがでません。
しかしさすがに訓練を受けたものたちです。
「オー」「エス」
「オー」「エス」
と掛け声のもとぐんぐんスピードを上げていきます。
全員が玉の汗を流し、顔を真っ赤にしながら交代しながら10時間を何とか漕ぎきりましたが全員が久しぶりの回漕なので手が豆だらけになったようです。
私は艇長の仕事として掛け声を出すだけでしたから回漕後、豆ができた手をさする隊員に
「みんなすまない、がんっばてくれ」
と声は出さずに心の中で謝るのみでした。
漂流4日目 8月21日
この日以後は小林大尉の命令どおり食料を節約して朝は乾パンを1つだけ食べるようにしました。
「たったこれだけか」
「子供じゃああるまいし」
小声でそのような不満を聞いた私が声の聞こえたほうを向くと隊員はあわてて下を向きました。
その後乾パンを食べたものから順番に眠りにつきました。
昼間は暑いのでカッターの底にもぐりこんでなるべく陽が当たらないようにして寝ますが、スコールが来たときは全員が大きな口をあけて上を向いて水分の補給と体や頭を洗います。
着ている軍服は当然ずぶぬれになりますがスコールが去った後の直射日光でものの30分もすれば乾きましたので、このことだけはありがたかったです。
服が乾いた後はまた深い眠りにつきます。
夕食時にもう1枚乾パンを支給しますが食べ盛りの若い人にはなんの足しにもならない量です。しかし私にとっては足元の樽の中身がどんどん減っていくのがまるで寿命のともし火が減っていくように感じられました。
突然誰かが叫びました。
「おい!時計がとまったぞ!」
その声に続いて
「あ、おれの時計も止まっている!」
私も自分の腕時計に目を落とすと防水加工されていない当時の時計ですからすでに止まっていました。
しかしこのことは私の中では想定内でしたので
「ついに来たか」ぐらいにしか感じませんでした。
ここでみなさんに質問です。
このあとの回漕は24人が一時間ごとに交代で行いますがどのようにして時計のないわれわれは1時間を計ったのでしょうか?
答えは指を使ったのです。
兵学校で天体観測の授業で知っていた知識が役に立ったのです。
腕をまっすぐピンと伸ばして手のひらを下に向けて次に親指が下になるように軽く手首を立てます。力をいれずに自然に開いた指は親指と人指し指との間が約15度になります。
そして、皆さんもご存知のように地球は24時間で一回転します。
すなわち。「360度÷24時間=15度」となるのです。
さいわい夜の回漕ですから星はよく見えます。水平線上に目標の星を一個決めてその星が親指から人差し指まで移動する時間が1時間なのです。
夜になり星が出てきたらまた回漕が始まりました。
10時間の回漕でどのくらい走ったかがわからなくてこの先何日同じ作業を繰り返すのか話題になりました。
計画では1日10時間で30マイル(約48キロ)を漕ぎ12日で600キロを踏破する予定でしたが角度が違っていたらその分距離が長くなります。
幸いこの日は風が出ていたので回漕を中止してオールに軍服の先を結んで帆に見立てて帆走することができましたが走行距離がわからないのは同じです。
2日間連続でオールを漕ぐと人によってはきのうできた豆が破れて血が出て固まり、さらにその上に新しい豆ができた者もいました。
全員が朝が来たことを確認して豆で痛む手をかばうようにして夜に備えて眠りました。
全員の中に昼間は夜間の回漕に備えて睡眠、夕方から回漕という日課が定着しました。
しかしいくら漕いでも夜間に見えるものと言えば月と満天の星空と星座、あとは夜光虫がカッターの周りに漂うだけで何も変わり映えもしない毎日です。
夜間回漕時に
「本当にこの方向で大丈夫かのう」
「わしら反対方向に向かっていてもわからんのう」
「あー腹減ったー」
と不満とも文句ともつかない言葉がささやかれ始めました。
しかし軍隊という組織は上官の命令は絶対ですので、いかに不満であれオールの手を緩めることはできません。
最初は空腹でおなかが鳴っていましたが4日目ともなるとかえって空腹すぎておなかもならなくなりました。
しかし全員の顔からはあきらかに空腹と疲労のためのストレスが目立ってきました。
私はこのころから隊員の、「息抜き」が必要だと感じ始めたのです。
このままだと我々指揮官に向けられる内部の不満が爆発して最悪の事態が発生すると感じたのです。
カッターを寄せて小林大尉にその旨を伝えると大尉も同じことを考えていたようで「松永、明日の昼寝は抜きだ!そのかわり海水浴にする!」と言われたのです。
漂流5日目 8月22日
昨日の案で海水浴とはいったものの3隻のカッターで太平洋を漂う体力の無い我々に海水浴ができるのか?
また隊員から文句を言われるだけではないか?
と否定的に考える私の顔をよそに小林大尉は
「名取短艇隊集合!本日はこの3隻のカッターの周りで海水浴をすることを許可する!総員かかれ!」と命令しました。
そのとたん3隻のカッターから元気なものから順番に「ドボン、ドボン」と水に飛び込む音が続き、ついに怪我人を除くほとんどの隊員が3隻のカッターで囲んだ水域だけですがつかの間の休息を味わいました。
私の心配をよそに多くの隊員達は喜んで水をかけあったりもぐったり、好き放題水泳を味わったのです。
「こんな大きな海で海水浴ができるとは思わなんだ」
「毎日肩がぶつかる狭いカッターの中にいたのでここはまるで天国のようじゃ」
「熱くなった体を冷やせるので気持ちがいいのう」
と全員が息を吹き返した様子に小林大尉と私は安堵の顔を交わしたのです。
またこれは大きな発見でしたがカッターの底に潜るとどこから来たのか小さなカニがカッターの外板に何匹かうごめいていて潜ってそれを捕まえた隊員から出た「今日の夕ご飯はかに鍋に決定!」の言葉に全員が大笑いをしました。
泳いでるときに海の中でたくさんの魚を見つけましたが釣り道具も何もないわれわれにとっては指をくわえて見ているだけでした。
魚を取って食べたがっていた隊員から
「今度船が沈んだら、真っ先に釣り道具を持って飛び込もう」
と冗談が飛び出しました。
このように昼間は熱い太陽の下何もすることがなかった我々も海水浴という娯楽を発見してからというものストレスが無くなったからでしょうか、お互いに笑い話が出たり、冗談を言えるようになったのは指揮をするほうからすれば大変助かったのです。
漂流6日目 8月23日
昼間に小林大尉が3隻を集めてこう言いました。
「全員今からクイズを始める!当たった人には景品が出るぞ。ただし景品は上陸してからだ」との声に
「景品は腹いっぱいのご飯」の返事に全員がどっと笑いました。
その後各カッターでは
「上は洪水、下は大火事 これはなんだ」
「朝は4本足。昼は2本足。夜は3本足になる動物は」
などとクイズを考えて出すほうも答えるほうも、和気あいあいの雰囲気が出てきました。
この日、スコールは無く全員水不足と暑さで死にそうでしたがクイズの効果もあってか雰囲気はなごんだまま夜の回漕をこなせたのです。
「オー」「エス」
「オー」「エス」
南十字星のもとカッターはもくもくと漕がれます。
漂流7日目
前日と同じく昼間はクイズで気を紛らわせたものの2日もクイズをすればネタがなくなり少し飽きてきたので、隊員の半分は睡眠を取って夜に備える者が出てきました。
「ガー」
「ゴー」
と大きないびきが聞こえる中、ご飯を食べている夢を見ているのか
「ごはんおかわり」
「味噌汁もう一杯」
寝言が聞こえます。
この日の夕方はスコールがあり全員が裸になって体を洗い、大口を開けて給水したためか夜の回漕もはかどった模様に少しほっとしました。
雨の降ったあとの夜の気温は昼間と比べものにならないくらい寒くて、特に風が吹いているときなどは男同士がガタガタ震えて抱き合ってしのがなければならないほどでした。
この夜カッターの底で風邪で寝込んでいた隊員がついに息を引き取りました。
カッターを漕げばすぐに汗びっしょりになるので体温が上がり寒さは感じませんが、カッター作業を休止したたことがかえって災いして風邪の隊員は夜の寒さで体力を消耗したようでした。
全員の敬礼の中死体を海に流すときに誰かがぽつりと言いました。
「おい、次は誰の番かのう」
私は毎日この回漕の記録を手帳に書いていましたがふと「われわれがこの回漕に失敗したらこの手帳が誰かに発見され、読まれる日があるのだろうか」と不安になりました。
漂流8日目 8月25日
全員が一様に目がくぼんでいてあきらかに栄養失調がみてとれるようになりました。ただ水分の補給ができているのだけが唯一の救いでした。。
水分の補給問題でこの日小林大尉がわたしに言いました
「海面の40m下は真水があるらしいからそれを採取できるかどうか考えてみよ」
この言葉に漁師の息子だった隊員が
「私も父に聞いたことがあります。深い水は真水に近いと言っていました。」
この意見で私は3本あった空のサイダーのビンにひもをつけて40mたらして引き上げようとしました。。
ゆっくり引き上げるひもの先を全員が見つめて
「本当に真水があればいいなあ」
「毎日スコールに頼らなくてもよくなる」
「これで腹いっぱい水が飲めるなあ」
しかし作戦は失敗におわり真水を得ることはできませんでした。
結局2本のサイダーのビンを失うことになりましたが何か新しいことに挑戦することは全員に期待を与えることがわかったのです。
この日の昼間に誰かがつぶやきました。
「島が見えた!」
この声に全員が大喜びで外を見回したがはるか向こうの波の中に休息中のカモメが一羽に上下しているのが見えただけです。
「あー、わしはカモメになりたい。カモメになれば飛んで日本に帰れるのに」
落胆した声のあとは全員に長い沈黙が続いたのでした。
この日、別のカッター内で急病人が発生しました。その兵隊は高熱が出たようで体力が減る回漕はさせずにゆっくり船底にて休むように指示を出して様子を見ることにしました。
漂流9日目 8月26日
朝の水平線に白い長いものが見えました。
「煙か?」との声に
「なに!煙?船か?」と大騒ぎになりました。
しかしよく見ると煙の正体は水平線に顔を出した入道雲であったので全員ががっかりしてしばらくは会話もなく長い沈黙続いたのです。
このころからすべてのものが栄養失調のためか幻覚が見えるらしく、言葉に元気がなくなってきたのです。
それはそうです、大の大人が毎日乾パン2枚で9日も生命を維持しているのですから当然のことです。むしろ生きているのが不思議なくらいです。
全員が私の座る樽の上に熱い視線を注ぎ始めたのもこのころです。
私は半分くらいになった乾パンの入った樽の上にもう一度しっかり座りなおして目を閉じました。
夕方、別のカッターの高熱を出した病人が死亡との知らせがあり、全員敬礼の中水葬することとなりました。
「先に行ったほうが楽かもなあ」
「ほんまじゃ」
と誰かがポツリとつぶやきました。
漂流10日目 8月27日
昼間に「あ、蝶々だ」という声に全員が起き出しました。
「本当だ蝶々が飛んでいる!」隊員は子供のようにひらひら飛ぶ白い蝶々の方に指差しながら大喜びしました。
わたしは、隊員がまた幻覚を見たのだろうと思って話を半分で聞いていましたが、その私の目の前をひらひらとまぎれもない蝶々が飛んできたのです。
しかもつかもうと手を伸ばしたら反応してひらりと交わされたのでこれは夢や幻覚ではないと確信しました。
皆さんも知っているように蝶々は風に弱く飛行距離が短い虫です。
近くに陸がなければこんな海上に飛んでくることは絶対あり得ない虫です。
すなわち「この近くに島か陸地がある証拠だ!」と全員が声には出さなかったけれどもそう思ったのも無理もありません。
「もう一息だがんばろう!」
「陸地は近いぞ!」
この夜の回漕はみんなの意思が一つになったような力強さを感じました。1漕ぎ1漕ぎごとに陸地が近づくのを確信したようながんばりでした。
しかしあの蝶々はいったいどこから来たものかこの夜の回漕のあと夜が明けても結局陸地は見えませんでした。
「蝶々を見た地点が一番陸地に近くてわれわれは一晩かけて逆に陸地から遠ざかったのではないか」と失望する声が聞こえました。
漂流11日目 8月28日
「見ろ!椰子の実だ」
「本当だ!椰子の実が浮いているぞ!」
船の前方に椰子の実1つが浮いているのが見えました。
波の間に上下して見え隠れしていたものがカッターの横を通り過ぎていきます。
昨日の蝶々といい今日の椰子の実といい確実に陸地のにおいがします。
しかし安易に喜びそうな情報を出してもあとで落胆した時の落差が大きいことが全員わかっているので全員が無言のままで静かに流れ去っていく椰子の実を目で追いました。
広間カッターの底で休んでいた私に17歳の若い兵士2人がぼそぼそ語っているのが耳に入りました。
「おいこのままだとわれわれは栄養失調になって死ぬかもな」
「ああ、何も食わずに重労働だからな」
「若くして死にたくないな」
その言葉を聞いた私は起き上がって
「おいお前達親指を見せろ」
2人は自分達の会話が聞かれたことを知って恐縮しながらそっと親指を私のほうに差し出しました。
「よし、つめに三日月が見えている。三日月が見えている間はまだまだ栄養失調ではない」
というとそのうちの1人が
「はい!祖父からも同じような話を聞いたことがあります。がんばります」
このころから私自身も「本当にフィリピンにたどり着けるのか?」と疑問に思いだしましたが、首を横に振って
「俺が弱気になってどうする。小林大尉に賭けようと言ったのはこの俺だ」
ともう一度深呼吸して全員に「がんばれ! フィリピンまで後もう少しだぞ」と声をかけました。
漂流12日目 8月29日
もう全員が体力も無く夜の回漕も限界に近づいてきた脳に感じます。
オールを漕ぐ力もなくなってきたし、なにより艇長の私が掛け声をかけても全員が一定のリズムで漕げない様になって来たのです。
カッターというものは力も大事ですが漕ぐ人間の息が合っていなければ非常に難しい乗り物です。
しかしそれは健康な状態の人間に要求できることで、満足に飲むことも食べることもできない我々がここまで続けてきたのが奇跡のように思えました。
毎晩見える南十字星が今日はことのほかきれいに輝いています。
「もう少し。もう少しだ」
自分にそう言い聞かせる私はその日夢を見ました。
子供のころの夢で佐賀の田舎の家でおばあちゃんと一緒に朝ご飯を食べているごくごく普通の風景の夢でした。
朝ごはんは白い米と味噌汁とお漬物だけでしたが今の私にとってはすごいご馳走でした。
夢から覚めると「なんでもない生活がなんと貴重だったことか」と普段ぜんぜんありがたいと思わなかった陸地や水、粗末な食事さえもが今となってはなんと遠い距離にあるのかしみじみ実感したのです。
漂流13日目 8月30日
明け方まだ暗い中で声がした
「陸地だ!」
もう一度
「陸地だ!」と誰かが叫んだ。
もう叫ぶだけの力が残っていないはずなのに体の底から振り絞るような見張りの隊員のその声に周りの隊員たちが全員目を覚ました。
「何!」
「本当か」
今まで何度と同じ言葉に反応して目をこらして見たけれど何度がっかりしたことか。
「どうせまた見間違いだろ」
という声もあったが全員が少しでも希望を捨てまいと、見張りが指差す方向を必死に見つめました。
しばらく時間が過ぎると朝の光で島の線がもっとよく見えるようになりました。
すると上下する波の間に小さいながらもまちがいなく島が見え隠れしています。
しかもその陸地は小さな島ではないらしく左右に広がる緑はどこまでも続いているかのように見えました。
「おい、お前は見えるか?わしは目が悪いけん、何も見えん」
「眼鏡を沈没の時に落としてしもうてのう。何か見えるか?」
「見える!」
「たしかに見えるぞ!陸地だ」
「間違いない!」
ほとんど寝ていた隊員もこの騒ぎに全員が起きだして眠い目をこすりながら不安と希望を込めた目で同じ方角を見つめています。
しばらく沈黙が続いた後
「間違いない。陸地だ。しかも形からしてヒナツワン水道だ。我々はついに600キロを踏破したぞ!」小林大尉の落ち着いた声に全員が「ウォーッ」と歓声を上げた。
夢ではなく全員の目にまさに陸地の姿は次第に大きく視界に広がっていきます。
もう誰の目にも明らかに陸地だと判断できる距離になったときには全員が最後の力を振り絞ってオールを漕いだ。
オールを1漕ぎするごとに緑いっぱいの椰子の木や波が打ち寄せる海岸が目前に迫ってきます。
はやるこころで漕ぐ全員に小林大尉は言いました。
「全員今すぐ回漕をやめろ 接岸は敵の目を警戒して夜間にする。それまで待機するように」
その言葉に
「もう陸地はすぐそこだ!漕ぎましょう」
「早く上陸させてください」
と多くの反論が出ましたが
「いいかみんなのはやる気持ちはよくわかる。しかし『100里の旅も99里をもって半ばとせよ。』という。接岸地が味方の占領地ならいいがもし敵やゲリラがいたらせっかくここまで来たのにむざむざ捕虜になることになる。上陸は夜間とする。以上」
この言葉の後前方の島を見ながら全員が不満の中首を長くして夜を待ちました。
夜中の12時を過ぎたころ小林大尉が注意深く陸地を見つめてつぶやきました。
「月が明るいのが気になるがそろそろよかろう」
そして大きな声で
「総員につぐ、各自衣服をあらため上陸用意。名取短艇隊発進!」
この声の後は全員の顔が一度に明るくなり白い歯もみえるほどでした。
しかし30分ほど漕いだ後
「ダッダッダッ」
という船の音が接近してきて全員がおもわず首をすくめて警戒しましたがエンジンの音で友軍とわかり全員が大声で叫び助けを求めました。
この船は陸軍の10人乗りの哨戒艇で、大きく手をふるわれわれのほうにゆっくりと近づいてきました。
私と小林大尉は、敬礼しながら哨戒艇に入り船長に今までのいきさつを話してカッター3隻を引っ張ってもらうよう頼みました。
話を聞いた船長は驚きとともにわれわれの要求を快諾してくれてスリガオという町までロープでつないだわれわれを曳航してくれたのです。
あくる朝われわれはついに陸軍の桟橋につきました。
接岸前に小林大尉から
「陸軍部隊にはずかしくないよう、全員正装。軍記を正して接岸するように」
と最後の注意があったのちにわれわれ3隻のカッターはほぼ同時に桟橋に接岸しました。
どこにそんな力が残っていたと思うくらい何人かが桟橋から飛び降りて砂浜に抱きつき何度も何度も頬擦りをして砂の感触を確かめ合いました。
「砂だ!」
「やったぞ!」
「陸地だ!生き残れたぞ!」
「よかった よかった」
13日間の絶食で体力が弱った者と怪我をしているものを迎えにきてくれていた陸軍の兵士が抱きかかえるようにして全員がカッターから降りることができました。
もう水分も残っていないはずなのに誰の目にもうれしさのための涙が光って見えたのです。
昭和19年8月30日、巡洋艦名取短艇隊は13日間、小さなカッター3隻で東京・神戸間の距離に匹敵する600キロをエンジンの力を借りずに人間の力だけで漕ぎきった瞬間であった。
私、松永市朗大尉はこの様子を陸地に到達できた喜びより大切な隊員全員を無事フィリピンにつれて帰れることができた安堵感で涙をこらえながら見たのであった。
「みんな最後まで信じてくれてありがとう」
おもわず独り言をもらした私に上官の小林大尉の笑顔が振り向いた。
「よし!負傷者以外全員整列!」
一同がふらついた足取りで砂浜に整列しました。
整列の後ろには今まで乗ってきた三隻のカッターが波で洗われているのが見えます。
「ただいまを持って名取短艇隊の任務を終了する!ご苦労!」
私の顔を見た小林大尉は笑顔で
「松永中尉ご苦労」と敬礼をしながら言ったのです。
過度の栄養失調と睡眠不足でほとんどの隊員が椰子の木陰を選んで横になって寝る枕元に私は残った乾パンを公平に分けて置いていきました。
それが終わって桟橋のカッターを見守る私に同じ海軍の外川軍医と名乗る中尉が話しかけてきました。
「わたしはこの地の陸軍に呼ばれて今日ここにあなたたちを迎えに来ました。もしよろしかったら私があなたたちの担当医になることをお許しください」
地獄に仏とはこのことで心も体もボロボロのわれわれにとって医療の施しをしてくれることに何の反論もありませんでした。
その後私は宿舎や食料でお世話になるであろう陸軍の司令部に挨拶に行きましたが2キロほどを歩くその足取りはふらふらでした。
司令部の門で衛兵に敬礼して中に入ろうとしましたが13日間で塩と風でボロボロになった海軍の制服にまるで幽霊でも見るような驚いた顔をしていたのが印象的でした。
その後多くの陸兵にじろじろ見られながら司令官の部屋に案内された私は敬礼しながら
「海軍大尉の松永市郎です。ただいま日本海軍名取短艇隊帰還いたしました」と簡単に沈没からの経緯を報告しました。
ボロボロの軍服姿の私が報告するのを受けた陸軍の軍医は最初非常に驚き、「松永大尉ご苦労。よくその体力でここまでがんばった。すぐに隊員全員に宿舎と夕食を用意させるので現場で待機されたし」と答えました。
帰ってこの報告を椰子の実の倉庫を仮の宿舎として使用していた隊員に聞かせると全員が起き上がって
「よし!今日はごちそうだぞ」
「腹いっぱい食いまくるぞ」
と大喜びしました。
しかしその日の夕食はなんと何も具が入っていないうすいおもゆだけでした。
「何だこれは!」
「これがごちそうか?ふざけるな!」
「海軍に食わすめしはないってわけか!」
よく「食べ物のうらみは怖い」といいますが、全員が期待した分だけ怒りが大きく、今にも爆発しそうな雰囲気でした。
全員の不平不満の中、陸軍の食糧事情が悪いためにこのような献立なのかと思い念のため陸軍部隊が食べている夕食を見ると魚や肉や野菜がたくさん盛り付けられたごちそうが並んでいました。
この光景に頭にきた私はさっそくさきほどの外川軍医のところに抗議に行ったのです。このときは部下のために真剣に怒ることを決意し場合によってはぶん殴るつもりでした。
「おい、外川軍医この食事の待遇の差は何だ!我々は全員13日間何も食べていないのだぞ!殺すつもりか!早くまともな飯を出せ!」と大きな声で抗議する私を軍医は制しました。
「松永大尉、お怒りはごもっともです。しかしよく聞いてください。今すぐに陸軍の兵士と同じものを食べられると思うならどうぞ食べてください。そのかわり全員すぐに死ぬことになりますがそれでもいいのですか。」
意味がわからない顔をして突っ立ている私に向かって軍医は続けて言いました。
「たしかに食べたい気持ちはよくわかります。しかしあなたたちは13日間まともな食事を何も食べていない状況なんです。あなたたちは気づいていないだけであなたたちの体は重傷者と全く同じ状態にあるのです。重傷者の胃袋はもうすでに弱りきって何も受け付けなくなっています。ですから胃袋に一番抵抗の無いおもゆにしてあるのがわからないのですか!」
この言葉を聞いて私は恥ずかしくなりました。
私は責任上、部下に腹いっぱいおいしいものを食べさせてやりたい一心で抗議したのですが、専門の医者から見ればわれわれはまさに死ぬ寸前だったのです。
小さくなっている私に向かって軍医は笑いながら
「松永大尉、まあそんな暗い顔をしないでください。毎日回復の度合いにあわせて徐々にいいものを出すようにしますから心配しないで大丈夫ですよ」と言いました。
このとおりを隊員に伝えると全員が
「俺の胃は大丈夫だからよこせ」
「腹が減って死にそうだ」
との意見に私は自分の13歳のときにチフスにかかった経験とその回復期に同じような食事療法をしたことを交えて熱心に説得したら全員がしぶしぶながら納得してくれたようです。
軍医が言った約束どおり日ごとに食事の内容は徐々にごちそうに近づき1週間後には他の陸軍の兵士と同じ肉や魚、野菜が並んだ献立になりました。
その後私と小林大尉を含む仕官6名に海軍司令部から東京に帰還命令が出て2式大艇という飛行機に乗って内地へと帰還しました。
沈没から13日の漂流という苦楽を分かち合った部下と別れるのはつらかったのですが命令ですから仕方がありません。
「小林大尉、松永大尉みなさんお元気で」
「また内地でお会いしましょう」
ひとりひとりと握手をして後ろ髪を引かれながら私は飛行場に向かいました。
部下の手を振る姿に向かって
「みんなわれわれだけ先に帰ってすまない。元気でな!」と心の中で私は答えました。
内地に戻った私は葛城という名前の空母勤務を経て山口県岩国航空隊の通信長に任命されて同地に赴任しました。
そしてここで広島の原爆を経験して8月15日の玉音放送を聞き終戦を迎えたのです。
9 名指揮官とは
今の社会はすべて組織で構成されていますね。
たとえば学校なら校長先生、教頭先生、担任の先生、会社なら社長、副社長、専務取締役、常務取締役、部長、課長。
組織が何かを決めるときには必ず次の3つの方法を取ります。
1 トップの独断
2 下部組織の意見の中からトップが選択
3 多数決
みなさんも友達同士でなにか決め事があったら多数決で決めることが多いですね。
今の日本は民主主義が永く続いていますから参加者全員の意見を尊重した多数決が多分「公平」に思えるかもしれません。
しかしそれは命に別状のない「平時」の手段なのです。
いかに「公平」であってもその回答が「正解」とは限りません。戦争や地震などの「緊急時」にはこのような多数決を取っていたのでは時間的にも間に合わないし正解にたどりつくのも難しいものなのです。
私の名取短艇隊600キロ回漕の物語は実は今の防衛大学校でも「指揮官の功罪」という授業で成功例として学生に語られています。
つまりあのような切迫した環境において隊員の気持ちを一つにしてまとめ、困難な作業に従事させることができ生還させた事例は世界でも非常に珍しいこと。それはひとえに指揮官の瞬時の決断力と統率力が優れていたと教えているのです。
しかも指揮官は迫り来る「目に見える敵」に対しては目標がはっきりしているので部下に戦闘心を起こさせるのは簡単ですが「フィリピンまで600キロ」という目に見えない敵に対してはなかなか勇気を奮い起こさせることが難しいのです。
同じ防衛大学内の授業で指揮官の悪い例として挙げられているのが1902年、日本陸軍が仮想敵国ロシアに対しての雪山訓練を行った「八甲田山 雪中行軍」です。
これはまさに「目に見えない敵」に対して部隊が全滅した例です。
「八甲田山 雪中行軍」は青森県の2つの陸軍部隊がそれぞれ青森市と弘前市という違う場所から出発し、豪雪の八甲田山中で出会うはずだったのですが、人数が多かった青森第5連隊が210名参加して199名が凍死のために死亡、かたや少人数で長距離を歩いた弘前第31連隊は全員無事で完全踏破したというものです。
全滅した青森第5連隊は秋田県出身の神成大尉が指揮官で210名を率いて「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」を研究するために2泊3日の予定で青森市を出発しました。
一方の弘前第31連隊は福島大尉が指揮官で37名の少人数を率いて「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」を研究するために11日の行程で弘前市を出発しました。
2つの連隊の指揮官はともに優秀でこの行軍を成功させるためにお互いに夏から八甲田山に入り木の高い部分に紐をしばり目印をつけたり、山の姿を描きとめたりと準備を怠ることはしませんでした。
しかし不運なことに準備万端であった青森第5連隊では出発が近づいたある日、全く山岳経験のない山口少佐という上官が「絶対指揮に口を出さない」という条件で見学と言う立場で参加することになったのです。
最初は口を出さない約束であったにもかかわらず四方何も見えない白銀の世界で不安になったのか自分の拙い考えを出すようになり指揮系統を狂わせてマイナス20度の吹雪の中で210名の部隊は立ち往生したのです。
さらに、せっかく夏から入念な計画をして案を練った神成大尉の意見を全く無視してまちがった進路をとりついに部隊は全滅したのでした。
一方、弘前第31連隊は、福島大尉が自分の判断で責任を持って夏から山の形や道などの実地調査を行い、その結果行軍も全行程を一人で判断して指揮できたので成功したのです。
このように指揮官たるものは部下の命を握っている責任があるのでどんな状況でもあわてずに冷静な判断を下さなければなりません。
話を戻しますが、カッターでの回漕中われわれの命を握った小林大尉の瞬時の判断力と全隊員に納得させた姿勢は尊敬に値します。
もしあの場で一般常識的に沈没海域にとどまっていれば全員飢えと暑さで死亡して行方不明となっていたに違いありません。
そして夜のみとはいえ13日間も、食料もなくあてのない回漕を維持できたのも小林大尉の人徳と隊員に飽きささないようにクイズを出したり、昼間は海に浸かって海水浴を許したりした「息抜き」のおかげであったと確信します。
今日本の経済はバブルのあとの後遺症がたたって回復の兆しすらありません。かつて経済世界一の日本の姿は過去のものとなって久しいです。
これは指揮官たる経済を担っている企業のトップと政治を担っている政治家に問題があるからではないでしょうか。
有名な上場企業ですら目先の利益を追求するために不祥事が相次いで起こりそのたびにテレビなどで謝罪するトップの姿をよく見かけるようになりました。
また政治の世界でも政策がころころ変わり「朝令暮改」現象が見られますし外交においては国民の生命・財産より他国の顔色を伺うような風潮が見受けられます。
今は緊急の判断を必要とする「戦時」ではありません、ゆっくり最良の方法を考え実行できる時間がある「平時」です。
どうか企業や政治の代表者の方にお願いいたします。
大切な多くの部下や国民の生活を預かる指揮官として責任をもって間違いのない舵取りをしてください。
10 今の若い人たちへ
私は戦後の日本の歩みを見てきて今の若い人たちがとてもうらやましいと思います。
町中で笑いながら歩くカップルを見たり、学校で野球やサッカーにがんばっている学生を見たりすると「私たちの青春は戦争がすべてだった」と改めて思います。
海軍兵学校68期は卒業後すぐに戦争が始まりましたので一番戦死者が多いクラスで300名中、戦後まで生き残ったのは100名と、なんと3人に2人が戦死しているクラスなのです。
死んでいった全員が勉強やスポーツや恋愛すべてを投げ捨てて日本の国のためと子孫のために20代の若い年齢で、進んで自らの命を捧げました。
このように書くと我々の世代は「無理やり死ぬために戦地へ行かされた」ように誤解されそうですが決してそうではありません。
誰にとっても死ぬのは怖いのは当然ですが自分の命と引き換えに大切な家族や恋人、近所のお世話になった人たちを守るためであれば戦地に行くことは当然のことのように思っていました。
そして仮に戦死しても先に死んだ戦友達と「靖国神社で会える」という言葉を信じることによって自分の死は犬死ではないと確信することができました。
当時の軍隊内では兵隊が相手と戦って戦死したときには靖国神社に祀られることになっていました。
靖国神社に祀られる事で全国民から国のために戦った勇敢な戦士として感謝と畏怖のまなざしで見られることは全員が知っていました。。ですから、われわれにとって戦死は決して無意味ではなかったのです。
今の日本は近隣諸国に遠慮して国歌を歌わない卒業式を行ったり、休日に家の玄関に国旗を挙げないような風潮になってきています。
また日本の首相の靖国神社参拝も近隣諸国に遠慮して中止になっています。
たしかに日本は太平洋戦争に負けました。
それも歴史上これ以上ないくらいひどい損害で国土がやられてまさに完膚無き状態で終戦を迎えたのです。
本来であれば戦勝国の当然の権利としてアメリカ軍の占領を受けて日本語の使用禁止、日本の文化をすべて否定されても文句の言えない立場です。
しかし2000年以上続いた文化と先代の遺産をたった1回だけ戦争に負けたからといって簡単に捨てていいものなのでしょうか。
みなさんの体の中にはお父さんお母さんから受け継いだ日本人としてのDNAが入っています。その証拠に春の桜を見ればきれいと思うでしょうし秋の落ち葉を見るともうすぐ冬が来ることを意識して少しさみしい気持ちになるはずです。私も同じです。
そのDNAの中には日本の国を愛する心も必ず入っているはずです。
愛国心を持つことが現在の教育界ではいろいろ問題になっていると聞きますがわずか、70年前に日本の将来を思って笑って死んでいった若者がたくさんいたことはまぎれもない事実ですのでこのことだけはぜひ覚えておいてください。
またそのような愛国心をもって望んで死んでいった同じ年頃の若者がたくさんいたことを日本人として誇りに思ってください。
そしてもう一つ、みなさんのたった1つしかない自分の命を決して粗末にしないでください。
若いみなさんの可能性は無限大です。
学校や友達関係で少し我慢ができないことや自分の思いどおりにならないことがあっても決してあきらめないでください。
私たち名取短艇隊も最後まであきらめずに信じて漕いだからこそはるか600キロ先のフィリピンにたどりつくことができました。
キリスト教の聖書の中に「神は自ら助けるもののみ助ける」という有名な言葉があります。
目標に向かって本当に自分から努力した人にはそれ相応のご褒美が用意されています。
そのことを信じて勉強にスポーツに恋愛にがんばってください。
そしてお父さんお母さん、兄弟、お友達を大切にしてください。
サンタおじいさんも天国でみなさんのがんばりを見守っています。
がんばった人には約束どおりご褒美を用意してくれるようもう一度神様にもお願いしておきます。
最後まで私の話を聞いてくれて本当にありがとう。
サンタおじいさん 松永市朗
あとがき 筆者と松永市朗氏
私と松永氏の出会いは1998年からで、私が開設していたホームページ「大日本帝国海軍」(http://www.b-b.ne.jp/kaigun/)で知り合った仲間から紹介されたのがきっかけです。
最初お会いしたとき、相手は「先任将校」や「思い出のネービーブルー」のベストセラー作家なので緊張でいっぱいでしたがこちらの思いを察していただいたのか、わざと気さくに握手を求めてきて「はじめまして、エバー・グリーン(常緑)のマツナガです」と自己紹介されたことを覚えています。
その後ホームページで知り合った全国の仲間たちと一緒に「オフ会」と称して集合しその場の講師として何度かお招きしてお話を伺ううちにさらに打ち解けていきました。
ビールでの乾杯のご発声をお願いすると
「わたしはお酒を好みません。しかし育ちがいいので綺麗好きなわたしは必ずこのようなパーティの時にはアルコールで胃の中を清めることにしています。乾杯!」
と一気にビールを流し込みその後も胃の洗浄を何度もおこなうのが常でした。
松永氏を囲んでの海軍のお話は、兵学校時代や艦隊勤務時代の厳しくつらい話は一切なさらずに、常にいい青春時代であったことを伝えるための「ウイット」と「ジョーク」のオンパレードでした。
その会話のはしばしから感ずることは我々若い世代に戦争の持つ暗い側面を一切聞かせたくなかったかのようでした。
たまにこちら側からの質問で実戦の話をお聞きすると、決して多くを語らなかったのはよほど聞かせられない「地獄」を見てこられたことと推察いたします。
「なあに海軍は陸軍と違って刺し殺す相手の顔を直接見ることができないので楽だよ」とおっしゃっていましたが決して心中は楽ではなかったはずです。
この本の内容は95%松永氏の語りを聞いて史実に基づいています。しかしあとの5%は戦争の「負」の部分で松永氏自身が語りたくなかったところです。ここを埋めるために文中では私が「松永氏であれば多分こう言っただろうな、または言ってほしいな」という想像で書きました。
当たらずといえども遠からじであることを自負しています。
私は松永さんを「師匠」とお呼びし、松永氏は私のことをホームページ上のハンドルネームである「長官」と呼んでいただいていました。
元海軍大尉にわたくしごとき若造が「長官」と呼ばれること自体、恐縮の極みでしたが、このような気遣いから自分から進んで世代間にある垣根を取り払う性格の方なんだなと痛感した次第です。
しかし、7年ほどお付き合いをさせていただいた松永氏ですが2005年3月31日夜、永眠されました。
心からご冥福をお祈りいたします 。
我々若い「戦争を知らない世代」から「師匠」と呼ばれた時のうれしそうな満面の笑顔がもう見られないのかと思うと断腸の思いです
生前はお忙しいにもかかわらずいろいろな場所にご一緒させて頂きました。
本当にありがとうございました。