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真夜中のベンチから

作者: 熊野 豪太郎

僕の特技は、自分の腕にとまった蚊に血を吸わせて、血液の分重くなった体で飛ぶ蚊を生け捕りにすることだった。

生け捕りにした蚊はプラスチック製の虫かごに入れて、ひとしきり観察したあと、潰す。

側から見たら、異常だと思われるような行動を、僕はかれこれ三年間、蚊を見つけたら必ず行っていた。

やり始めたのは二年の夏、ごくごく普通の夏休み前の学校でのことだった。僕はサッカー部に所属していて、坊主頭で毎日終業のチャイムがなったあとから、日が落ちるまでボールを追いかけていた。

しかし僕が入っていたサッカー部には、ある一つのルールがあった。「罰ラン」と言われていたいわゆる「罰ゲーム」で、部長の気に入らないことを部員がすると、部長が、帰る前のミーティングで名前の呼び出しをして、グラウンドに置いていかれて、しっかりやっているか確認の為にいる部長の小言を聞きながら、学校が閉まってしまう直前まで走らされる。というものだった。

ようするに、気に入らない後輩を、先輩である部長がいびりたいだけなのであった。

僕は、その罰ランを、毎日やらされていた。理由は部長曰く「練習で手を抜いている。」からだそうだ。しかし僕は、手を抜いてやっていたつもりはなかったし、そこの理由はよくはわからないままだった。

そしてある日、僕は、疲れ切った体で、ようやく走り終えた。と思った最後の一歩で、足首を思い切り捻った。部長はひとしきり僕をいびったあとに、自分を置いて帰ってしまっていたので、グラウンドは僕一人だった。

いびられることに悔しさを感じていた、なんで自分だけ、なんて思って悲しい思いは、自分には特にはなかったはずだった。しかし、ザシュッ。とだけ音を鳴らしてグラウンドに倒れた瞬間、なにかの糸が切れた感覚がして、僕は立ち上がることができなかった。

その時だった。

一匹の蚊が、僕の血を吸っていることに気がついた。僕はその蚊を、反射的に、手のひらで叩き潰した。真っ暗でよくはみえなかったけど、おそらく僕の手のひらには、蚊と、その蚊が吸った僕の血液で、赤くにじんでいたんだろう。

僕はその手のひらを見ながら起き上がって、自分のバッグに入っていた制服に着替え、学校を出た。

その出来事をきっかけに、僕は蚊を潰し始めたのだ。

そのあとも、部長による僕へのいびりが終わったわけではないし、なにかが変わってしまったわけでもない。

ただ僕は、蚊を生きたまま観察し、そして殺め続けていたのだ。僕が今取った蚊を殺してしまっても、この世の中に影響はさっぱりない。そのことに、悲しみとも、楽しみとも、喜びとも取れないなにかを感じていたのかもしれない。

そして、これで五三二匹目。僕はまた蚊を捕まえ、潰した。手のひらには、蚊がたっぷりと吸った僕自身の血で滲んだ。

手を洗いに洗面所へ向かう。ハンドソープの頭を、血がついていない方の手で押して、手で泡立てて、水で流した。すこし赤色になった水が流れていく。

三年前のあの日から続けてきた習慣、僕自身は「わるいことをした。」という気持ちがないわけではない。すでに、意識して五三二匹の蚊を殺してしまった。そのことに関しては、蚊に申し訳ないと思ってはいた。毎回「辞めよう」と手を洗いながら思うのだが、蚊が自分の血を吸う光景を見るとどうしてもやってしまうのだ。

今は真夜中の三時。父と母は、自分たちの部屋で寝ているだろう。僕も寝ようと思って二時半ごろ、ベッドに倒れこんだのだが、蚊をみつけてしまったのでいつも通りのことをして、この時間になってしまった。というわけだ。

もう一度ベッドにもぐるか悩んだが、今日はどうしても寝付けそうにない。僕はそうっと玄関まで行くと、親が起きないよう細心の注意を払って、ドアを開けて、外に出た。

うちは古い一軒家。商店街がすぐ近くにあるが、最寄りの駅は三十分ほど歩かなければならない、なんとも微妙な位置にある家だった。

夜中のここ一帯は、夜十時になると、信号も動かなくなってしまうほど、人通りの少ない場所なので、すこし怖さを感じた。

曇りだからだろうか、星どころか、月すら見えない夜だった。近くに公園があるから、そこのベンチにすこし座ろうと考え、公園を目指して歩き始める。

今は夏を過ぎて、残暑が続いているような、曖昧な季節だった。しかし今日はやけに涼しい。明日は過ごしやすい天気なのだろうか。と考えているうちに公園はすぐ目の前に見えていた。

ここは、昼から夕方にかけて、小さな子供たちとその親で賑わう町民の憩いの場のようになっていた。そこまで大きい訳ではないが、子供が遊ぶには充分な広さがあった。

その公園の隅にぽつんと置かれているベンチに腰掛けると、急に睡魔が体を襲った。ついうとうととしてしまう。しばらくはこの睡魔と闘っていたが、やがて抗うことを諦めてしまい、こくりと意識を失った。

きづくとそこは、サッカーのグラウンドだった。しかも、オリンピックなどのプロが使うような、設備が整ったものだった。

しかし、何かがおかしい。僕は、何か歓声のような音が聞こえるのだ。しかも、僕が聞き慣れた音。それが「羽音」だと気付くのに、時間は要さなかった。周りを見渡すと、観客席にあたる場所に夥しい量の蚊が、ぶぶぶぶと羽音を立てながら、ホバリングして僕を見つめている。そしてそれらが一斉にこちらに近づいてきた瞬間、ハッと目を覚ました。夢。とはいえ、とても厭な夢だった。僕はベンチから立ち上がろうとする。しかし、座ったまま体が動かない。

金縛り・・・?

真っ先に浮かんだ言葉だった。

そして、なにかざわざわとした声が近づいてくる。子供の声だった。こんな時間に、どういうことなのか全くわからないが、良くないものであることは確かだった。

それらの声はやがて、形となって僕の視界の中に入ってきた。

子供が五人、地面を踏み鳴らしている。子供たちは嬉しそうな声をあげて地団駄を踏み続ける。下に視線を向けると、蟻がたくさん、子供たちの足から逃げ回っている。

「やめろ!」と声を上げそうになったが、声は出ない。一ミリも体が動かない。お化けだろうか、こんな時間に子供が遊んでいるなんておかしいし、体が動かないことにも違和感を感じる。まるで見たくもない映画を、映画館の座席に縛り付けられて見せられているようだった。

子供達は蟻をひとしきり踏みつけた後、僕の方を向いた。そして、その顔を見たとき、僕はベッドから起き上がった。

これも夢?何が何だかわからない。しかし、手のひらを濡らす汗の量から考えると、あのとき見た顔を忘れられていないということだ。

少年少女達の顔は、まるきり蚊だったのだ。


腕を見ると、蚊が僕の血を吸っていた。そして、それを手のひらで叩き潰すと血を洗いに洗面所へ向かった。


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