第一幕 竹林の血刀
凡そ人の立ち入る事のないであろう山深き竹林。
その場に立つは二人の剣客。
方や老齢。剣は落とし切っ先を前に。一刀流等で言う所の下段の構えであろう。
あまりの自然体に、はて剣を知らぬ者からすると構えと認識する事も難しい。
隙が多いようにも見えるが、しかして打ち込めぬ。
目はどこを向いているのか。相手を見据えているだけには見えぬ。
まるでこの場の全てを包み込むかのような、それでいて前の男の一挙手一投足を見られているような。
静まり返るその体躯は得体の知れぬ剣気を纏っていた。
方や少年。剣は中段、切っ先は小手へ。それはまるで少年の体を袈裟切りするかのようであった。
これは天然理心流等で用いられる平正眼と呼ばれる構えだ。
年の頃は十四前後であろうか。相手をただ見据え打ち込む機を探っていた。
少年の剣は正道に非ず。
目、そして刃には魔道の狂気が宿っていた。
風が奔る。草が走る。老齢の剣客が蓄えた髭が揺れる。
ザァと言う音がその世界をかき乱す。
竹が大きく揺れ動いたやいなや、それが合図とばかりに少年は駆けた。
一閃。
少年の刃が虚空に線を描く。老齢の男は歩むようにただ後ろへ体を動かすだけでそれをかわした。
しかして兇刃まだ止まらぬ。
二閃、三閃、描かれる剣の舞を、また老齢の男も舞うようにかわす。
「おのれ、童と侮るか!」
相見えている剣豪が、剣を使わぬことに少年は怒る。
例え実力に開きがあろうと加減されては誇りが黙らぬ。
老人、黙して語らず。ただ刃をかわすのみ。
少年は怒り心頭。刃はさらに殺気を強める。
もはやこれまで。我が必殺の剣を受けてみよ。
そう言わんばかりに少年がここぞとばかりに出した手は片手平突き。
神速の突きは、それが道場稽古であったなら一目見ただけで皆伝の達人すら無言で剣を収め負けを認めるであろう。
その神速を、慢速で老人は左によける。
勝機。少年の口は歪む。
かわしたはずの片手平突きは、そのまま横薙ぎに変わる。
これには老人も目を開く。
少年の剣は千変万化の戦場で磨いた剣。正道には無い殺法こそ、その極意。
だがその殺法の魔も老人の磨かれた珠玉には及ばず。
老人の胸元、皮にすら届かず着物を切るのみ。
少年は秘奥を今生初めてかわされる。
驚愕していたのは刹那。だがそれは剣神を相手とするなら永遠にも思える刹那である。
瞬時に懐に入られ柄尻の一撃を顎に受ける。
間合いを取らねばと少年が後ろに飛び退こうとしたとき、初めて気づいた。
既に足をかけられ、地面との平衡感覚が狂わされると同時に喉元に老人の手が伸びる。
上体は押され下腿はかけられ、少年は地面に倒れ付す。
そのまま老人は少年の眼前に剣を突きつける。勝負有り、である。
「殺せ。」
少年はあくまで老人をにらみつけ、そう言い放つ。
「目的、もはや叶わず。生きていても仕方は無い。殺せ。」
老人はそれを見下ろし、ため息ひとつ。
「聞こう。これは道場剣法か。」
「さにあらず。これは仇討ち。
無許可の敵討ではあるものの、死合いには変わらぬ。」
「そうかそうか。我は道場剣法が好かぬ。
やれ一本だ、やれ二本だ。死合いは常に一本勝負よ。」
老人は楽しそうにククと笑った。
「既に貴様は討った。これにて決着。
少年よ、貴様は既に死人。生まれ変わったその身で新しき世を生きよ。」
「ふざけるな!」
少年は予想だにせぬ言葉に激昂した。
「剣を突きつけられただけに過ぎん!
まだこの身、死してはおらぬ!
殺せ!」
「いいや殺さぬ。既に貴様は討った。
死人に牙を向けるは獣の所業ぞ。
この刃に如何ほど血を吸わせたかは覚えておらぬが、獣にまで堕ちた覚えは無い。」
「殺せ!」
「殺さぬ。」
「おのれ天膳!
親子共々、虚仮にして嘲笑うか!!」
「そう、それよ。」
天膳と呼ばれた老人は剣を腰に収めた。
「我は貴様など知らぬ。
仇討ちと言われて命を狙われる理由を知らぬ。
知らぬうちに全てを終えてしまっては興が無い。」
髭をさすり胸を掻き、天膳は楽しそうに笑った。
そして少年の顔を覗き込むように腰を落とす。
「我の名を知っておったな。
そう田之倉九朗又輔天膳。
世間では鬼天膳等と呼ばれておる。」
「既知だ。それがどうした。」
「いやなに、鬼天膳等と呼ばれたのは理由があってな。
だがそれ故、我はここ二十年近く人斬りは自重しておる。
二十年だ、分かるか。」
老人、咳払いをひとつ。
「貴様、どう見ても齢二十を過ぎているようには見えぬ。
さればこそよ。
童の恨みを買う理由が分からぬ。」
「……」
少年、口を閉ざす。
また一陣の風が吹く。竹が揺れ、草が揺らめき、少年の髪がたなびいた。
その時初めて少年の素顔をまじまじと見ることが出来た。
掛け値なしの美童、それも少女と見紛わんばかりの、である。
「腹切竹光。」
美童は口惜しそうにそれだけをゆるりと口にした。
しかして天膳、意味が分からぬ。
意味は分からぬが面白くはある。
この山に住み始め二十余年。
仙人が如くの暮らしを始め剣法遊びなど久しくしておらなんだ。
「まだまだ未熟。」
剣で人を斬らぬようになり、竹刀で人を打たぬようになり。
修験者がごとく山に篭る生活もいささか飽いた。
そんな折での仇討ちである。
剣に憑かれた老人は、若く才有る少年に心を奪われた。
その表情はとても嬉しそうである。
「仇討ちだ何だと申しても、その腕では到底我を斬れぬ。
我は帰る。我を討ちたくば好きにせい。
精々精進する事よ。」
老人、踵を返し姿を消す。
少年は大の字になりその場で横になる。
相手した剣豪が消えるやいなや、嗚咽を漏らし涙を流した。