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「レイモンドはちゃんと逃げたかしら……」
どんどん遠ざかるホテルクエンジーを見て凛さん……レイモンドさんの母親がため息をつく。
顔が血だらけなのに、落ち着いていて、自分より大事な存在に思いを馳せた彼女は、やっぱり僕の知らない人。
「あ、もうすぐ地上よ。衝撃はあるから、頭を守って」
両腕を頭の後ろで組んで、凛さんは僕にも同じようにしろと促す。
「は、はい………」
凛さんの顔で、彼女はふっと微笑んだ。
「…観月のことはあんたが確かめるしかないから。それと、楠瀬凛は今もあんたの望みを叶えてあげたいって」
「え………」
「言って、簡単な事だったら叶えてあげられるかも」
時間がないことを示すように早口で彼女は言った。
「僕は…………………………」
僕達は木の枝をバリバリとへし折りながら落ちた。
背中に強い衝撃が当たり、呼吸が止まる。
木々の形の闇の隙間から明るい夜空が見えた。
突然、戻ってきた呼吸に咳き込む。
皐月さんの腕はいつの間にか離れていて、脱力した四肢は死の気配を放っていた。
凛さん
凛さんは……
「伝書鳩くん」
地面にへちゃりと座って、僕に微笑みかけていた。
その微笑みだけで、僕はわかってしまう。
今、目の前の彼女は本物の凛さんだと。
「凛さん、会いたかったっ…!」
僕は起き上がり、懇願するような言い方をしてしまった。
「うん。私もだよ。ずっと伝書鳩くんのこと考えてた」
「凛さん、血を……」
僕は浴衣の裾を引き破り、その布切れを凛さんに渡した。
「……ありがとう。でも、君に拭いてほしいなぁ」
凛さんはいたずらっぽく口を尖らせて、布切れを僕に返して顔を近づけてくる。
「は、はひ……」
心臓が一気に喉元まで競り上がってきた。
震えはじめた手で凛さんの頬を布切れでそっと拭いた。
「……伝書鳩くん、ありがとう」
凛さんの黄色い目は僕をその中に閉じ込める。
この時がずっと続いてほしい。
血を拭い、肌の色があらわになると、たちまち僕の胸が締め付けられる。
つらくて、しんどくて、快感を伴う感情の触れ幅に、僕はついて行けるはずもなく、混乱と高揚で彼女の肌に布切れをさらに押しつけた。
「痛いよ……」
凛さんが痛みに頬を歪め、僕からやっと目をそらす。
しかし、今度は自分自身の制御がきかなくて、凛さんを抱き寄せていた。
「好き……です…」
僕の想いが、絞り出すような声で言葉になる。
まるで塞き止めていた何かが一気に解き放たれたみたいに、僕の身体が熱くなる。
僕の全て、何もかもが凛さんの為にできているみたいだ。
凛さんが僕に身体をゆだねて額を胸元に埋める。
「私、幸せだよ……終わりの時に君に好きって言ってもらえて……すごく嬉しくて、生きててよかったって実感してるよ……」
「……」
終わりの時……
僕はレイモンドさんの母親に願った。
自分の想いを凛さんに伝えたい、と。
魔法のない世界を望んでいた僕は、もうどこにも見あたらない。
この世界で出会えた凛さんに僕は愚かすぎるほど夢中なのだ。
「そっか………伝書鳩くんの仕事は、こんなすてきな仕事だったんだね……誰かに大切に想われていたってわかると、死ぬこともなんだかこわくないよ……」
「凛さん………凛………」
僕は凛さんの長い髪を指ですいた。
彼女の頭頂部に唇を押しつける。
血の味と匂い……
「伝書鳩くん、君が望む世界をあげられなくてごめんね………」
凛さんが顔をあげる。
「覚えてたんですね……」
僕は彼女がいじらしく唇を噛む姿が愛しすぎて、気もそぞろに答えた。
「……代わりに、全然足りないけど……」
凛さんの吐息が僕の頬を撫でた。
「…っ………」
柔らかい感触が僕の口をふさぐ……
凛さんの睫毛が震えて、思わず目を閉じると、よりいっそう唇の湿り気や歯にあたる柔さに意識が飛びそうになった。
血の苦くしょっぱい味はもう甘くとろりとしたものに変化してしまっていた。
「………ずるいかな……」
少し息を乱して凛さんが僕を困ったように見つめる。
「……世界が、変わりました……」
ぼうっと余韻に浸る僕を、凛さんは笑う。
「そんなに簡単だと私、図にのっちゃうからね」
「どんどんのってください……僕、凛さんには敵いません……」
僕は凛さんの首筋に顔を寄せ、また抱きしめた。




