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若鷲の歌

作者: 橘川尚文

 新宿西口の焼跡に広がる闇市では、並木路子の「リンゴの唄」がレコードで流され、そうかと思えば別の角では、片足のない傷痍軍人が、復員服姿で筵の上に座り、ハーモニカで軍歌を吹いていた。


 ――若い血潮の予科練の

 七つボタンは桜に錨

 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ

 でかい希望の雲が湧く……。


 曲に合わせて唱歌する者もなく、大きな荷を背にした人々は、黒ずんだ疲れきった表情で、その前を通り過ぎていく。

 そのときB-29の巨大な影が、上空をのっそりフライパスしていった。レシプロエンジンの爆音が周囲に轟くと、みな一旦立ち竦むようにその場に足を止め、傷痍軍人もハーモニカを止めて、息を殺し、飛び去るのを待った。

 B-29が行ってしまい、市に再び日差しが照りつけると、人々はまたとぼとぼ歩き出す。か細いハーモニカの音色も再開した。

「払えない、ってのはどういうことなんだ? 山岡さん」

 市の片隅に、半長靴を履いた飛行服の男が居た。茶色い飛行服は色褪せ、綻びも目立つ。痩せているが、鍛えられたしなやかな身体をしていた。

「勘弁して下さい楢崎さん。来月はきっとお支払いしますから、今月は待って頂けませんか」

「来月?」

 飛行服の男、元海軍一等飛行兵曹・楢崎渉は、腰から銀色に光る何かを引き抜き、それを音高く卓に叩き付けた。

 旧軍の三十年式銃剣。剣身四〇センチ。

「舐めてるのか? てめえ。ブスッと行くぜ」

 国民服の中年男、山岡は、大柄な、しかし骨ばった身体を反らして、何度も首を振った。

「昨日、昨日盗まれたんです。だから今は、金子が」

「こっちの知ったことか。あんたの不始末だ。所場代払えないなら仕方ない、持物全部置いて出て行け」

「そんな、殺生なこと」

 山岡は半ば裏返った声で叫んだ。

「このうえ売り物までなくしたら、どうやって生きていけばいいんだ! 楢崎さん、あんた、このあたしに死ねって言うのか!」

 そのとき――楢崎の心臓が一瞬高鳴り、次の一瞬には、彼は言うべき言葉を失っていた。

「死ね」と命じられ、特攻隊となって、滅び行く祖国に次々と殉じていった仲間たちの顔が、楢崎の脳裏をよぎっていた。

 爆弾を抱き、鮮やかな日の丸の鉢巻を締めて、海ゆかば水漬く屍、醜の御盾となって、神国日本の悠久の大義に、己が身を捧げた戦友たちのまなこが目に浮かぶ。

 あの特攻隊の勇士たちは何処へ行ったのか。

 いま、特攻隊の勇士は死に、死んだ者は二度と戻らず、生き延びた者は、闇屋として生きている。

 では、彼らが守ろうとした日本の国は……?

「それこそ――」

 気付けば楢崎は、腕を相手の首に絡ませ、喉に銃剣を突き付けていた。

「それこそ、俺たちの知ったことじゃないんだよ」

 楢崎は手下に命じ、山岡を市から追い出した。山岡は売り物どころか、自分の着ていた物も全部、身包み剥がされ、犬コロのように追放された。

「ねえ? 兵隊さん」

 楢崎が山岡の荷物を纏めていると、その背後から女が声をかけた。

「その場所の人、もう戻って来ないんだろう? だったらあたしにおくれよ。あたし、カフェーをやるんだ」

 楢崎は、黙って相手の姿を見た。女が昼間に一人で喫茶店をやるということは、意味はひとつしかない。

 歳は中年に達しているだろうが、すらっとした背の高い女で、細い顎と大きな眼を持っている。

「いいだろう。もっともうちは米軍相手専門だが構わないか」

 女は、ふっと笑った。

「あたしは、海軍さん仕込みだよ」

 楢崎は、すぐにその意味を察し、もう一度女を見た。蓮っ葉な言葉遣いをしても、どことなく感じる上品さはそのためか。

「士官だな。……どこだ?」

 楢崎が訊くと、女は答えた。

「サイパンの海の底。魚の餌になって、少将様さ」

「そうか」

 楢崎は海軍の帽章が入った草色の略帽を被り、「ついて来い」と女に言った。二人は真ッ白の日差しの中を、連れ立って歩き出した。


 ――燃える元気な予科練の

 意気の翼は勝利の翼

 サッと巣立てば荒海越えて

 ゆくぞ敵陣殴りこみ……。


 傷痍軍人の演奏はまだ続いている。

 楢崎は懐から注射器を取り出し、腕にヒロポンを注射した。





 この小説は、インターネット小説サイト「駿河南海軍工廠」のブログ「玉川上水」(http://aqira.blog61.fc2.com/)上に掲載した同名小説と同一のものです。

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