19:二羽の鴉
鴉渡視点の話です。
突然、俺に向かって突き出された白い華奢な握り拳。
何かと思えば、どうやらさっき渡した飲み物の代金らしい。
受け取ろうと香波濠の拳の下に、手を差し出した時、視界の隅に黒い物体を捕えた。
……あれは鴉だ。
体育館の上を弧を描きながら飛び、こちらを伺っている。
更に視線で追おうとすると、指先を何かがすり抜けた。
受け取る筈だった硬貨が地面に散らばっている。今のに気を取られ過ぎたか。
「…悪い。ちょっとぼんやりしてた」
謝りつつ、硬貨を拾う。
向かい合った香波濠もしゃがみ込み、手伝ってくれるらしい。最後の十円玉へと手を伸ばした時、下方から白い手が滑り込んできた。
「……」
香波濠の手は夏場だというのに冷たかった。
すぐにその手はそろり、と離れていってしまう。
一瞬、本当に生きている人間の手だろうかとさえ不安になった。そう思ってしまうくらい、手が冷たく頼りなく感じた。
いっそしばらく手を温めた方がいいのではないか?
そう考え込んでいると、体育館の屋根の上に止まった鴉がバサバサと翼を羽ばたかせた。間違いなく、こちらに抗議している。が、何を抗議しているのかよく解らない。何を怒ってるんだ。
「あ、鴉渡…?」
香波濠に呼びかけられて、ハッとした。
十円玉を拾い上げ、立ち上がると香波濠に体調を心配された。
俺は大丈夫だと答えたが、妙に心配そうだ。俺はそれより、お前の手の冷たさの方が心配になる。が、今の所、香波濠は大丈夫そうだった。
香波濠に急かされて校舎へと戻る。その間も、あの鴉はこちらの動きに合わせ飛んでいるのが窓から見えた。
このままずっと今日はこちらを監視するつもりだろうか。
……仕方ない。注意するか。
「少し、用を思い出した」
立ち止まって言うと香波濠が怪訝そうにこちらを見上げてきた。
「それより保健室に行った方がいいのでは?」
さっきの様子がよほど気にかかっているらしい。俺は大丈夫、と答えた。香波濠は俺が無理をしていると思っているらしく、続けた。
「本当に? さっきだってなんか様子が変だったぞ」
じっと覗き込む黒い瞳。香波濠の顔が斜めに傾げられ、その髪がさらりと流れる。そこに窓からの光が差し込み、その黒い真っ直ぐな髪に天使の輪が浮かび上がった。
「……さっきは少し考え事をしていただけだ」
思わずその髪に手を伸ばしそうになり、俺は咄嗟に目を伏せてそれだけ言って、その場を後にした。
なぜだろうか。
あの時も、触れてみたいと思った。
俺の蹴ったボールのせいで怪我をした香波濠を見た時も、こんな風に日に照らされたあの黒髪に触れてみたいと感じた。その後、すぐ怪我に気付き、慌てて保健室へと運び込んだが、同じ男かと思えないくらい華奢な体に驚いた。
あれ以来、妙に俺は香波濠が気にかかる。
病弱だと知ってからは、なおさら、目が離せなくなっている。視界に香波濠がいれば、つい目で追ってしまうし、調子が悪くないかが気に掛かる。
一クラスメイトに向けるには、何だか不可解な感情だった。
人知れず疑問に思っている時、同じクラスの川村が俺と香波濠を見て言った。
『そうやってると、お前らって兄弟みてー』
そうだったのか。
疑問は全て解けた。
香波濠は、黒髪黒目という特徴を持っている。これは鴉一族の特徴と共通する点であり、鴉の一族は仲間意識が特別強い。
どうやら俺は、同族のような気分で香波濠に接していたらしい。
どうりで、あの黒い艶やかな髪に目を奪われる筈だ。黒いのに光を受けて輝く瞳も鴉の者なら気にならない者はいないだろう。
疑問が解けた後も俺は、香波濠を同族の病弱な弟に対するかのような態度を続けた。むしろ、疑問が解けた事で、より保護者のような気分で親鳥が雛を世話するかのように気に掛けた。
香波濠はただの一般生徒だ。
病弱で、綺麗な顔をしているけど無表情で、あまり誰かといる所を見ない。
そんな香波濠だから、俺一人ぐらい気に掛けてやった方がいい。保健医の梟首があんな調子では尚更だ。
白鳥が香波濠を呼び出した時は、何があったのかと懸念した。体育祭で鶴織に絡まれているのを見て、肝が冷えた。
禽の一族の中には、何の力も持たない人間を見下す性質の者もいる。白鳥や鶴織がそうなのかは解らないが、もしそうだったら香波濠は無事ではすまないだろう。
白鳥の方は大した用ではなかったが、鶴織の方は結局何だったか解らない。今後も香波濠の周辺には気を配った方がいいだろう。
考えながら歩いていると、校舎を出た。
そのまま、体育館へ続く通路を通り抜け、体育館裏に辿り着く。
木陰の下、体育館の屋根を見上げる。
カァ、と鴉が鳴いた。
「行け」
俺はその場で自分の左肩に禽を創造すると、体育館の屋根の鴉へと飛行させた。
しかし、鴉は、飛んで行ってしまう。
追い掛けっこをしているのではない。速度を上げれば、距離が縮まった。これなら会話も出来る。
俺は自身の禽から、鴉へと鳴いた。
≪おい。なんでここにいる≫
カァカァと俺の禽が鳴く。
普通の人間には、鴉が鳴いているようにしか聞こえないだろう。他の禽の一族にもそうだ。
鴉の鳴き声での念話は、鴉の一族だけの物だ。
追い掛けている鴉ももちろん、使える。
≪神徒が悪いのよ。最近、わたしに構ってくれないから!≫
≪学園内で無暗に禽を使うな≫
≪神従だって使ってるじゃない! それに他の一族だって!≫
≪……日花≫
名前を呼べば、鴉は拗ねたのか羽ばたきながらそっぽを向いた。
昔からこうだ。この鴉の使役者…日花は、叱られると臍を曲げる。
≪それに、わたし聞いちゃったんだから≫
≪聞いた?≫
≪しらばっくれないで! 女子が噂してるじゃない、神従達の事!≫
噂?
何の事だろうか。全く心当たりがない。
≪わたし、禽でちゃんと聞いたんだから! 神従とさっき一緒にいた奴が付き合ってるって!!≫
≪おい、香波濠は男だぞ≫
日花は一体、何を誤解しているんだ。
そして女子のしている噂とは何なんだ。
そもそも香波濠は男であるから、俺と付き合うなどありえない。
何がどうなって、そんな噂が流れたんだ? もしかして、香波濠に嫌がらせでも行われているのか? そうだったら、どうにかしてやらないと。
≪さ、さっきだって二人して手を重ねて、見つめ合ってたじゃないっ!!≫
≪あれは、落ちた物を拾おうとしていただけで、偶然だ≫
あれがどうやったらそう見えたんだ。
それにあんな事ぐらいで、いちいちそういった勘繰りをされては困る。
ともかく、今日はもう禽の使用は止めろ、と続けようとした時、日花の鴉が鳴いた。
≪……いっそ、あんな奴燃やしちゃおうかな≫
クスクスと、日花が笑う。
鴉一族の悪い癖だ。
同族意識の強すぎる一族は、些細な事で同族や認めた者以外の他者を排除しようとする。
このままでは香波濠が危険だ。
≪やめろ、日花≫
≪神従はなんであんな奴庇うの?≫
≪たかが噂で人を殺すのは得策じゃない。それに長に叱られるぞ≫
こういう時の日花に、善悪を解いても意味はない。
損得勘定や長の名を出した方が諦めるだろう。
俺としては、無意味に罪もない一般生徒を殺すのはさすがに胸が痛む。さすがに一族の仕事の時は割り切るようにしているが、こんな風に日花の気まぐれで殺されたのでは哀れ過ぎる上に、被害者が何百人も出るだろう。
≪ねぇ、神従のお嫁さんになるのはわたしだよね?≫
≪このまま行けば……そうなるだろうな≫
鴉一族内では、同族内での婚姻が推奨されている。俺と日花は一歳違いで釣り合いは取れている。双方の両親も乗る気だった。
≪じゃあ、神従は夏休みにうちの別荘に泊まりに来るよね?≫
幼い頃から家族で日花の家の別荘にお邪魔するのは毎年の事だ。俺は頷いた。
≪一緒にお祭りも行こうね。海も。後どこか旅行もしたいな≫
例年通りに約束すれば日花の機嫌が治っていく。
二匹で飛び続けていると、天翼学園の中等部の校舎が見えてきた。俺は禽を校舎の裏庭へと降り立たせた。日花もそれに続く。
裏庭を見渡せば、校舎の影に人影が見えた。
日花だ。
校舎の壁によりかかり、右手の指先で長い黒髪を弄りながらこちらを見ている。黒いつぶらな目が俺の禽を見つけて、細められた。
裏庭は他に誰もいない。これならちょうどいい。
≪もうそろそろ禽を消して授業に戻れ≫
日花に言えば不満そうに唇を尖らせたが頷き、禽の実体化を解除した。
「じゃあね……早く一年経たないかな、そうしたら神徒と同じ高等部に通えるのに」
そう俺の禽に話し掛け日花が寂しそう零し、校舎へと帰って行った。
それを見送り、俺も自分の鴉の実体化を解除する。
喉が渇いていたので、飲みかけだったスポーツドリンクを呷る。生ぬるい。
あの様子だと、日花はまだ変な噂を鵜呑みにしている気がする。
きっと、幼い頃から兄妹のように一緒にいた俺を盗られた、と感じたのかもしれない。
鴉一族の長の長女である日花は、鴉一族の特徴の持つ他者への排除が強い傾向にある。一族内でも顕著だ。
そんな日花だから、誤解したままでは、香波濠が危険だ。
後でしっかりと香波濠との事を訂正しないといけないな。
やっと鴉渡視点の話が出せました。
一番最初のイベントを起こしたキャラなのに
鴉渡視点が出るまでここまでかかってしまいました。
・・・まぁ、とりあえず現時点で鴉渡がなぜハカナを気遣うのか
の理由はこんな感じです。
キャラ紹介に
大鴉 日花
を追加しました。




