嗤う者
しばらく行くと、大きな白壁の城が見えてきた。堀や城門、二の丸、三の丸はなく、本丸だけがどんとそびえ立っている。天守閣には鯱鉾が体を反らせて不気味に構えていた。
蘇芳と桜は同時にそれを指差す。
「あれだよ」
イズミはニコニコ笑う。
「それじゃあ、お仕事しようか」
「だが、今回は密偵だろう? 城の内部構造もわかっていないのに迂闊に中に入れないのではないか?」
「千鳥ちゃん、そんなこと言ったら蘇芳ちゃんと桜ちゃんに怒られちゃうよ」
「え?」
千鳥は蘇芳と桜を見る。
二人はニコニコ笑っていた。
「あのね、蘇芳と桜がちゃんと調べてきたの」
「お城の中はこうなっているんだよ」
桜がカバンの中から紙を出す。
それを広げると城内の様子が細かく書かれていた。
「すごい……。こんなことまで調べられたのか?」
「蘇芳と桜は情報屋だもん」
「ねー」
「それじゃあ早速お仕事しようか。影さん、どうする?」
イズミが答えを求めているにも関わらず、影は城内の地図を一目見てトンと飛び上がるや城の方へ一人で向かってしまった。
銀は呆れたように言った。
「相変わらず協調性ねぇな」
「まぁ、いいんじゃない?」
イズミは蘇芳と桜に微笑む。
「二人はどうしようか」
それには千鳥が答える。
「二人を連れて行くのは危険だ。ここに残らせた方がいい」
しかし蘇芳と桜は首を横に振った。
「大丈夫だよ」
「桜と蘇芳は千鳥様たちのサポーターだもん」
「蘇芳と桜にもちゃんとお仕事があるんだよ」
「……だが」
蘇芳は千鳥を見上げた。
「だって、戦ってる途中で手裏剣がなくなったらどうするの?」
桜が笑顔で、蘇芳とつないでいる手を上げる。
「桜と蘇芳がすぐに作ってあげるよ」
「確かに、そのためのサポーターだもんな」
「千鳥ちゃん、まだ反対?」
イズミが首をかしげながら聞いてきて、千鳥は小さく答えた。
「いや、異議はない」
「じゃ、行こうか」
その頃、一人で先に城へ向かった影は既に中へ侵入していた。
こんな大きな城だというのに、人は全く見当たらず、閑寂としていた。ジッとしていると自分の心臓の音さえ聞こえてきそうな程の静けさに、疑問を抱きながら影は先へ進んだ。
廊下を足音も立てず歩きながら、首は巡らせないで、鋭いその眼光だけで周囲を捉え状況を把握する。
その時僅かに足音が聞こえ、影は音もなく上へ飛び上がりうまい具合に屋根裏へ回り込んだ。
板の隙間から、下を覗く。しかし、そこには誰もいない。音の聞こえる方を見やっても、何もない。
ただ、姿は見えないが足音だけは確かに近づいてくる。
それは徐々に大きく。
徐々に近く。
足音はピタリと止まった。
音が止んだその場所は、
―――背後。
影は振り向いた。
それと同時に首をつかまれ、強い力で屋根裏の底板に叩きつけられた。
強靭な力は板を破壊し、影と共に落下する。
床に激しく背を打ったが影は悲痛の声すら漏らさない。
自分を押さえつけている者を見据える。
男だった。
彼はニィ、と不気味な笑みを浮かべる。
同時に空気が一変した。静寂の漂っていた辺りが、男の笑み一つで一瞬にして殺気に犯される。
影は膝を腹の上で曲げ、男の胸部を両足で突き飛ばした。
男は空中で一回転し、軽やかに着地する。
影は立ち上がり、目の前の男を睨む。
腰に立派な太刀を差しているくせに、右手にはクナイが握られていた。
二人は一瞬の隙も見せずにその場に静止している。下手に動けば殺されることを察するのは、容易なことだった。
膠着状態がしばらく続いた後、先に動き出したのは影の方。
得意の神速で男の背に回り込もうとする。
影が消える。
その瞬間、男も消えた。
速さは互角。
二人は互いにぶつかり合い、すぐに離れた。
間合いを十分に取る。
一瞬の沈黙。
男は再びあの不気味な笑みを浮かべた。そして声は発せず、小さく口だけを動かす。
―――×××―――
無音の声を聞き取った影は、カッと目を見開く。かすかに、怒りの色が差している。
影は走り出した。
半歩遅れて男も出る。
影は短刀を抜いて切りかかる。
男はそれをクナイで受け止めた。
刀を引っ込めるや影は蹴りを入れる。
男は飛んで避けた。
着地を狙おうとするが、軽やかに逃げられる。
今度は男が仕掛けてきた。
クナイを逆手に持ち、左から右へ。
その速さは稲妻を凌ぐかと思われた。
かろうじて避けたが、刃先がわずかに目尻に触れる。
続いて左足が飛んできた。
かがんで避け、床を片手で掴み、男の足を払う。
仰向けにこけた所を素早く刀で突き刺す。しかし、刺さったのは床だった。
確かに男を刺した。しかしその感触がなかったのもまた確かである。
その時、背後に殺気。
振り向く間もなく前へ転がるように避ける。
体が起き上がった頃には、目前に男の顔。
「―――!」
喉を捕らえられる。
仰向けに倒された。
強い力で締められ、思わず表情が歪む。
男は影の腹の上に座った。
クク、と小さく喉を振るわせた。まるで影の悲痛な表情を楽しんでいるようだ。
やがて首から手を離す。しかし、代わりに喉元の直ぐ上にクナイの刃先が立った。
その時初めて男が声を発した。
「愚かな忍よ」
笑いを含んでいるようにも、哀れみを含んでいるようにも取れる声だった。しかし、目だけはいかにも愉しそうに笑っている。
「嘗ての女の名を口にされたぐらいで我を失うとは」
影はじろりと男を睨む。
「なんだ、その目は」
男は愉快そうに笑みを浮かべる。
「貴様が脆弱なのが悪いのだ。あの時もっと強ければ。神などに頼らなければ。貴様は女を失わなかった」
男の殺気は徐々に狂気に変わった。
「お前の愛した×××を」
影は怒りを露わにし、男に攻撃をしようとするが、体が動かなかった。
指一本動かせない。
男は嗤い声を上げた。
「貴様の『感情』は未だ健在か」
そして顔を近づける。
「気づいているのだろう? 沈黙の中で貴様は闇に喰われていることを。言葉を沈め、黙することにより笑うことができない。怒鳴ることもできない。叫ぶことも泣くことも。そして、あの時女の名を呼ぶことさえもできなかった」
影は男を睨む。
男は喉を振るわせる。
「感情を自由に表せないことにより、お前は闇に喰われている。闇は怖いぞ。喜怒哀楽全てを喰われるのだからな。さすればお前は」
男は囁いた。
「何も感じなくなるのだ」
男はクナイを一度高く掲げた。
そして勢いよく影の喉に突き刺した。
瞬間、影の意識は飛んだ。
遠くで、男の狂ったような笑い声が高らかに響いている。
「……影」
呼ぶ声に起こされて、影は薄っすらと瞳を開けた。
その瞬間、周囲に安堵の声が広がったのがわかった。
「よかった、目が覚めた」
意識が徐々にはっきりしてきて、影は起き上がった。周囲には千鳥たちが揃って座っていた。
状況を把握しようと辺りを見回す。どうやら自分は布団に寝かされていたようだと気づき、イズミに目をやった。
影の心中を察したイズミは苦笑いを浮かべる。
「びっくりしたよ。城に忍び込んだら影さんが男の人に担がれてるんだもん」
それに銀が続ける。
「てっきり襲われたのかと思って俺らが助けに出たんだが、どうやらそいつが影を助けてくれたみたいでよ」
影は銀を見る。
銀は続けた。
「なんでも、影が誰かに襲われていた所をその男が助けてくれたらしいんだ。それで、治療するために影を運んでくれてたってわけ」
続いて千鳥が話す。
「ここは私たちが仕事で来た城だ」
蘇芳と桜が頷いて声を揃えた。
「城主様が部屋を貸してくれたの」
イズミは苦笑する。
「なんかね、蘇芳ちゃんと桜ちゃんの勘違いで、ここは僕たちの目的の城とは違うらしいんだ。僕たちを襲った忍が逃げ帰った城っていうのは、もう少し先にある城みたいなんだ。だから、しばらくここに泊めてもらって、ここからその先にあるっていう城に密偵のお仕事に行くことにしたんだ」
「今までの流れからいくと、影を襲ったのは忍だろ?」
「影さんをここまで窮地に追いやった凄腕の忍が出てきた。つまり、相手も本気ってこと。それなら仕事も一日じゃ終わりそうもないしね」
すると襖が静かに開いた。
「失礼する」
現れたのは二人の男だった。
一人は若い男。整った顔立ちではあるが、まだ幼さが微かに見える。
そして、もう一人の顔を確認した影は目を見開いた。先ほど自分を襲ったあの男だったのだ。
皆は影の驚きに気づいていない。
若い男が口を開いた。
「気がついたようだな」
イズミがにこやかに笑う。
「はい。おかげ様で」
二人の男は部屋に入り、静かに座った。
若い男は口を開く。
「私はここの城主だ」
「僕はイズミです。まとめて言っちゃうと、奥の子が銀くん。その隣が千鳥ちゃん。双子の子たちが蘇芳ちゃんと桜ちゃん。それで、この人は影さんです」
皆はそれぞれ軽く頭を下げた。
城主は軽く頷くと影に目をやる。
「気分はいかがか」
影は静かに頷いた。
「そうか。この『氷雨』が影殿が何者かに襲われている所を助けたそうだ」
城主は後ろの男をチラリと見やる。
氷雨と呼ばれたその男は頭を下げた。顔を上げた瞬間、あの不気味な笑顔を見せる。
それに気づいたのは影だけである。
するとイズミが口を開いた。
「城主様、一つお願いがあるのですが」
「なんだ」
「実は僕たち、故郷を目指して旅をしているのですが、お金がなくて宿に泊まれなくて困っているんです。ですから、ここに泊めてもらえませんか? 影さんのことも心配なので数日だけお願いします」
城主は頷いた。
「構わぬ。いくらでも泊まるといい」
「ありがとうございます」
城主はゆっくりと立ち上がった。
「では、私はこれで失礼する。氷雨、行くぞ」
「はい」
二人は部屋を去った。
影は最後まで氷雨の背を睨みつけていた。
そんな横でイズミは千鳥や銀にウインクした。
「大成功だね」
「よくそんな嘘が出てきたな」
「まあね。……さて、ひと段落着いたことだし」
イズミは影を見る。
「影さん、やっぱり影さんを襲った人は強かったの?」
影は黙っている。しかし、答えは聞かずともわかる。
銀は唸るように言った。
「この先油断できねぇな」
「今までみたいな忍なら楽勝かなぁって思ってたんだけどねぇ……」
イズミは皆を見回した。
「というわけで皆、隙あらば敵さんは僕たちをきっと襲ってくるだろうから、用心してね。千鳥ちゃんたちも狙われてないからって気を抜いちゃだめだよ」
皆は大きく頷いた。
「それじゃあ、明日から分かれてお仕事しようか。二人ずつに分かれて一日おきに敵地に侵入っていうのでいい? 蘇芳ちゃんと桜ちゃんは毎日敵地に入ってもらわなきゃいけなくなるけど」
「いいよ」
「桜がんばるの」
「ありがとう。じゃ、明日から張り切ってお仕事しようね」
その日の夜。
夕食を終えた千鳥は部屋を出ようと襖を開けた。
「どこに行くの?」
千鳥はイズミを振り向いた。
「影の所だ」
「影さんとお話?」
「ああ」
銀は驚いたように言った。
「いちいち難儀なことしようとすんなぁ、お前も」
「そうか?」
イズミは優しく笑った。
「いいじゃない。影さんはきっと寂しがってるんだから」
「え?」
「なんでもないよ。それより千鳥ちゃん、影さんと会話するいい方法を一つ教えてあげるよ」
「なんだ」
イズミは人差し指を立てウインクをする。
「『目は口ほどに物を言う』だよ」
「……?」
「いってらっしゃい。きっと影さんは通信係だから、屋根の上にいると思うよ。そろそろ総指令官様と連絡とらなきゃいけないし。あ、敵さんには気をつけてね」
「ああ」
千鳥は外へ出ると、天守閣の屋根へ向かった。
イズミの言う通り、影はそこにいた。足場の悪い所だというのに、真っ直ぐと揺るぎなく立って月を見ていた。
今日の月は見事な満月である。闇を分け、流れる雲に隠されたとしてもなおその強い存在を示している。
その大きな月を一心に影は見ていた。
「影」
千鳥が呼んだが反応は全くない。しかしめげずに横に並ぶ。
「影、どうしたんだ? 今日の影はどこか、調子が悪そうだ」
その時影は初めて千鳥を見た。漆黒のその瞳に差す色は、驚き。
その時千鳥は先ほどのイズミの言った言葉の意味を知った。影と会話ができることを無償に嬉しく感じ、自然と笑みがこぼれた。
「なんだ、影ともちゃんと会話できるではないか」
影の瞳が千鳥の言葉を不思議に思っていると知らせてくれた。
「何をそんなに不思議がるのだ?」
千鳥はニッコリ笑う。
「影の目は、全てを語っているではないか」
影が大きく目を見開く。
彼のそんな表情を見たのは初めてだった。千鳥はまた嬉しくなる。影の言いたいことが手に取るようにわかるのだ。
彼女は子供のような笑顔を見せた。
「影の声は、全てちゃんと聴こえているぞ」
「―――」
影はしばらく千鳥を見ていたが、ふと顔を上げた。
月をじっと見ている。
「敵か?」
千鳥が緊張感を漂わせて身構える。
影は目を細めていたが、やがてすっと腕を右に伸ばした。
その時千鳥は今朝のことを思い出した。
彼女の予想通り、やってきたのは忍ではなく、烏だった。影の見つめる方向から、羽をゆっくりと羽ばたかせて向かってくる。
しかし今朝の烏とは様子が違う。鷹のように大きいのだ。
烏は影の腕を掴んで止まる。
その時影は千鳥を振り向いた。
『戻るぞ』
影の声が聞こえる。
千鳥は大きく頷く。
「ああ」
部屋へ戻ると、イズミが顔を上げた。
「おかえり」
そして影の肩の烏を見るなりニコリと笑った。
「どうしたの? 総司令官様が直々にやってくるなんて」
その言葉に千鳥は驚いた。
「総司令官!? この烏が?」
烏は千鳥をチラリと見るとイズミに視線を戻し、口を開いた。
「お前たちの連絡がないからこちらから出向いたまでのこと。任務報告が遅いではないか」
少しかすれた、渋みのある声だった。
イズミは苦笑する。
「ごめんなさい。迅速に事を運ぶつもりだったんだけど、どうもうまい具合に進んでくれなくて」
「またも忍に襲われたか」
「うん。ここへ来る途中も一度あったんだけどそれはまぁ、問題なかったとして、この城での事件が深刻なんだぁ」
「何があった」
すると銀が影を見た。
「影が敵に襲われて気を失っちまって」
「影が?」
烏は影を見る。
「なるほど。これはただ事ではないな」
すると総司令官は宙へ飛び上がる。
「事は重大と見る。私もお前たちと行動を共にしよう」
イズミは微笑む。
「それは助かるなぁ。心強いよ」
すると総司令官は蘇芳と桜の存在に気づいて皆を見た。
「何だ、この双子は」
彼のその言葉に、その場の皆が一瞬固まった。
「……え?」
するとイズミは腕を組む。
「おかしいなぁ……。この子たちは総司令官様の命令で僕たちについたサポーターのはずなんだけどなぁ?」
しかし烏は皆の期待を裏切ってキッパリと言い放った。
「私はそんな命令は出していない」
「……」
皆は蘇芳と桜を見た。
「一体どういうことだ?」
しかし二人は首を傾げた。
「蘇芳たちにもわかんないよ」
「だって桜と蘇芳の所に『シノビの影、イズミ、銀、千鳥のメンバーのサポーターになれ』っていう手紙が届いたんだもん」
イズミは頷いた。
「僕も今日の朝早くに、総司令官様からの烏から手紙を受けとったんだけどなぁ。『今日からおまえたちにサポーターをつける』っていう内容の手紙を」
総司令官はイズミの肩に止まる。
「どうやら、誰かが何かをしようとしていることは確かだな」
「だが、蘇芳と桜を私たちのサポーターにして一体何をしようとしているのだ……」
すると銀がニッと笑った。
「調べていったら、何かわかるんじゃねぇか、そのうち」
イズミも小さく笑う。
「そうだね。きっと僕たちを狙っている誰かさんの企みだろうからね」
銀は拳をグッと握った。
「明日が楽しみだぜ」
「それじゃ、そろそろ計画を立てようか」




