生きる者
閻魔は、一人静寂の中に立っていた。
足元には、双子が。
そして少し離れたところには千鳥たちが倒れている。
蘇芳と桜、そして銀は、息をしていなかった。
銀の体はやがて止まっていた時が徐々に動き出す。少年から大人に変わり、そしてだんだん年老いていく。
その様子を見届けていると、背後に気配を感じた。
それと同時に、
「終わりましたね」
美しい、透き通った声だった。
閻魔は振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女だった。金色の長い髪を流し、白い薄い布を纏っている。まるで彼女自身が淡く光っているような印象を受ける。
閻魔は無表情のまま言った。
「神直々に天へ導くなど、珍しいこともあるものだ」
神はゆっくりと首を横へ振る。
「いいえ、違います」
そして閻魔の横に立った。
「私は、あなたと彼らをどうするか話しにきたのです」
「何を話す必要がある」
「強き銀狐と、清き双子の命を、どうするか」
閻魔は足元の蘇芳と桜を見た。
「双子は人ではない」
「ええ。ですから、人にするのです」
「そのようなことをするのなら、いっそのこと天へ迎えて新たな命を授けた方が良いのではないか」
「ですが、この子たちは言いました」
神は美しく、優しく微笑んだ。
「みんなが大好きなのだと」
閻魔は顔を背ける。
「ならば好きにするが良い。我は罪人を管理する身ゆえ、関係のないことだ」
「では、銀狐はどのようにするおつもりですか」
今度は銀の方を見る。
「狐は、己の愚かさを知り、己の罪深さを知った。そして、過去の己を越えた」
「では、逝く先は地獄ではなく、天だというのですね」
「左様」
「ならば、私の管理下にあるということになりますが」
「好きにするがよい」
神は閻魔の正面に立った。
「森羅万象の秩序を乱すと言わないのですか?」
「……」
神は千鳥たちを振り返る。
「人とは、つくづく恐ろしい存在ですね。こうして何億年も人の心に触れていると、私たちのような、決まりを守らなくてはいけない存在にさえも、人の心というものを植えつけてしまう」
そして再び閻魔を見上げた。
「あなたも、一度は人の心を捨てた身。ですが、そんなあなたも、最初から人ではない私も、ずいぶんと人間らしくなってしまいました」
閻魔は低い声で呟いた。
「嘆くべきか」
神は優しく呟く。
「喜ぶべきか」
沈黙が流れた後、神はそっと閻魔の頬に手を添えた。やさしく頬の傷を撫でる。
「また、傷が増えましたね……」
「ああ」
「あなたがこの世界と、地獄と天国を、破滅に追いやってからもう何億年も経つのに。私たちよりも上の存在である大神があなたに罰を与え始めてからもう何億年。この世界は終焉と再生を何度も繰り返しているのに。あなたは己の愚かさを知り、己の罪深さを知って、そして過去の己を越えても、まだ罰を受けつづけなければならないのですね」
「当然の報いだ」
神は悲しそうな顔をした。
「あなたは、どんな罪人よりも己の罪を悔いているというのに、皮肉なものです。大神は、許してくださらないのでしょうか」
「許しなど、我にはない。我は決して天へは帰れぬ。悲しむ必要などない。我は誰にも哀れまれてはいけないのだ」
神は首を横へ振った。そして穏やかに微笑んだ。
「私は、あなたの帰りをずっと、ずっと待っています」
そしてその場にしゃがみ、石の床を撫でた。
「閻魔、一度降った雨が、地へしみ込んだ後、再び天へ帰ってくるのにどれくらいかかるのでしょうか」
閻魔は神が撫でている石の床に視線を落す。
「分からぬ。……雨次第だな」
神はそっと呟いた。
「冷たい雨よ、あなたが一日でも早く帰ってくることを、祈りながら待っています」
そしてゆっくりと立ち上がった。
閻魔を真っ直ぐ見る。
「それでは、本当にいいのですね?」
「ああ」
神は微笑むと両手を広げた。
光が蘇芳と桜、銀を包む。
「清き双子に、人の命を。強き銀狐に、しばしの生を」
光は消えた。三人が呼吸をしている。銀は再び少年の姿へ戻っていた。
神はゆっくりと影の方へ歩く。そして影の頬に手を添えた。
「目が覚めたら、彼女に会いに行ってください。彼女はあなたを恨んでなどいません。あなたが会いにきてくれるのを、ずっと待っているのですよ」
続いて、千鳥にも同じようにする。
「心強き千の鳥。あなたにはお礼を言います。多くの子を救っていただき、ありがとうございました。彼らには皆、奪われたモノが返ってきましたよ」
神は閻魔を振り向く。
「神というのも所詮、名だけの存在なのでしょうか」
彼女は悲しそうな表情をした。
「いくら心清き者が悲惨な死を遂げようとしていても、私はその人を救うことなどできはしない。ただ、見守ることしかできない。ただ、天へ迎えることしかできない。そんなことしかできないのに、時に神、神と崇められる。そして時に、何もできない私を人々は恨む。どうして救ってくれないのか、と。それでも私は何もできない。それならいっそ私は、人として生まれたかった」
閻魔は目を細めた。
「神は、人を望むか」
彼女は微笑んだ。
「人とは素晴らしい存在です。あなたは、人に戻りたくはないのですか?」
「人は、欲深く浅ましい。かつて我がそうだったように。人になど、我は決して戻りたくはない。我は閻魔で十分だ」
「これも、天と地獄を見る者の違いでしょうか……」
「さあな」
神は柔らかく笑って顔を上げた。
「それでは、私は天へ戻ります」
「ああ」
神は地を蹴って宙へ浮く。両手を広げて、透き通る声で、歌うように言った。
「全ての子らに、平和と愛が訪れますよう」
彼女は消えた。
その場に再び長い沈黙が流れた。
日の光が、温かく差し込んできている。
イズミは目を覚ました。
そこは、『シノビ』の自分たちの部屋だった。
ベッドに、千鳥、銀、蘇芳、桜が雑魚寝している。
影の姿はなかった。
「……」
しばらくボーっとした後、イズミは自分の手を見つめた。
「……終わったんだよね。全部」
そして自分の側で寝息を立てている千鳥の手をそっと握る。
誰かの手を握ったのは、久しぶりだった。
微笑みながら、小さくそっと呟く。
「ありがとう」
そしてゆっくりと部屋を出た。
閻魔の部屋の前に立つと、ドアをノックする。
返事があって部屋へ入ると、閻魔がこちらを鋭い目で見ている。
「何の用だ」
「ちょっと、閻魔さんと話したいことがあって」
イズミはニコ、と笑う。
「閻魔さんって優しいよね」
彼は冷静に返す。
「なぜ」
「だって、閻魔さんが影さんを通信係にしたのは、影さんが完全に誰かと交流を断つのを阻止するためだったんでしょ?」
「……」
「影さんが、闇に呑まれないようにするためだったんでしょ?」
「さあな」
その一言でその話題は打ち切られてしまった。
閻魔は低い声で言った。
「早く要件を言え。お前が本当に話したいことは、そのことではないのだろう」
イズミは小さく笑った。
「さすが閻魔さん。じゃあ、聞くね」
イズミは真剣な顔になった。
「千鳥ちゃんたちは、これからどうなるの?」
「……」
「僕たちは、罪人だから一生ここで働くのはわかっているんだ。でも千鳥ちゃんも蘇芳ちゃんも桜ちゃんも、罪人じゃない。千鳥ちゃんは閻魔さんがここに呼んだんだし、蘇芳ちゃんと桜ちゃんはあのニセモノの神様がここに来させた。それは閻魔さんもニセモノの神様も今回の件で必要だったから。じゃあ、今回の事が全部終わった今、三人はどうなるの?」
「あの者たちの自由だ」
「え?」
「あの者たちがここにいたいと望むのならばそれでよい。違う所へ行きたいと望むのならば、そうすればよい。ただそれだけだ」
「いいの?そんなことしちゃって。ここは、罪人たちが集まる場所だよ」
「構わぬ。今回のこの事件、全ての責任は我にある」
「どうして?」
「人間の欲望が作り出した、欲の塊が最近強大化し、現世で好き勝手している。それを止めて来るよう大神に言われたのだ」
「大神……?」
「閻魔と真の神を作った、我よりも上の存在だ」
「へぇ、そんなすごい神様がいたんだ……。でも閻魔さんも意地悪だよね。最初からあの神様が欲の塊だって分かってるなら教えてくれればいいのに」
閻魔は鋭い視線をイズミへ向けた。
「責任は我にあるとはいえ、事の発端は人間どもの浅ましい欲にある。それをただ我が教えて消すのであれば、何の意味も価値もない」
イズミは微笑んだ。
「そっか。そうだよね」
閻魔は続ける。
「それに、この先自由にしてよいというのは、千鳥と蘇芳と桜だけでなく、お前たち三人にも言えることだ」
「え?」
「お前たち三人は、己の罪の重さを知り、愚かさを知った。そして、過去の己を越えた。お前たちは、もうここにいる必要もない。好きな道を選ぶがよい」
「……本当に?」
閻魔は瞳を光らせた。
「それとも、お前はまだ罪の深さを知っていないというのか?」
イズミは目を閉じ、首を横に振る。
「ううん。僕は本当にバカだったんだ。自由なんて最初からあったのに、何を高望みしたんだろう。銀くんと影さんも、きっと同じことを思ってるよ」
イズミはいたずらっぽく笑って閻魔を見た。
「でもね、閻魔さん。僕たちみたいな腕の立つ人材がいなくなったら、困るんじゃない?」
閻魔は口の端に笑みを刻んだ。
「好きにしろ」
部屋へ戻ると、皆起きていた。
「イズミ、ここは……」
「おはよう皆。ここはシノビの僕たちの部屋だよ」
「……あれは、夢だったのか?」
イズミはクスクス笑う。
「まさか。あれは本当にあったことだよ。でもね、今の方が夢かもしれないよ」
「なぜ」
「だって」
イズミはニコリと笑って銀を見た。
「あのニセ神様が死んだのに、銀くんが生きているんだもん」
その言葉に、千鳥は顔を真っ青にする。
「銀!まさかお前、二十三歳っていうのは嘘だったのか!?」
銀はイズミに噛み付くように言った。
「イズミ!なにバラしてやがんだ!!」
「だって僕、嘘は見過ごせないからね」
「てめぇ!」
銀がイズミに飛びつく前に、千鳥が銀を捕まえた。
両腕をしっかり掴んで前後に揺らす。
「大丈夫か!?死んでないか!?死なないか!?」
「や、やめろ……。死んでねぇだろ!……死なないかは知らねぇけど」
その瞬間蘇芳と桜も銀に思いっきり抱きつく。
「銀様死んじゃ嫌ぁ!!」
「死なないでぇ!!」
三人に捕まり、少年の銀の体は悲鳴を上げた。
「ぐえぇっ!やめろ!放せ!!」
イズミは笑いながらしばらくそれを見ていた。
するとふと千鳥が首を傾げる。
「そういえば、どうして蘇芳と桜も生きているのだ?」
「え?」
「どーいう意味?」
「蘇芳と桜はあのニセモノの神に作られた存在だ。だからあの神が消えれば、蘇芳と桜も消えるんじゃないのか?」
途端、二人は涙目になった。
「千鳥様、蘇芳と桜に消えてほしかったの?」
「桜たちそんなに邪魔だったの?」
「え、いや。違う!そうではない!ただ不思議に思っただけで」
双子は泣き出した。
これではさすがにかわいそうに思ったのか、イズミが両手を叩く。
「はいはい。皆聞いて聞いて。あのね、さっき閻魔さんに聞いてきたんだけど、僕たちが気を失った後、本物の神様が来て、蘇芳ちゃんと桜ちゃんを人間にして、銀くんは不老を手に入れる前の時間に戻したんだって」
「……ということは?」
「桜ちゃんはちゃんと桜ちゃんの中に『心』があるし、蘇芳ちゃんは桜ちゃんが死んでも死なないし、二人は手を放しても大丈夫。銀くんは不老不死でなく、普通に生きられるってこと」
蘇芳と桜は飛び跳ねた。
「わぁい!蘇芳と桜人間になれた!!」
「銀様も死なないんだ!!」
千鳥も安堵の息を漏らす。
「よかった……」
銀も自分の両手を見つめてポツリと言った。
「そうか……。俺は不老じゃなくなったのか」
そしてハッとして声を上げた。
「俺、右目が見えてる!」
「え?」
「光が戻ったんだ!!」
目を何度も瞬きして、両方の目で物を見ていることを確認すると銀は千鳥に笑いかけた。
「ありがとな、千鳥。俺の光を取り戻してくれてよ」
千鳥は照れたように目を背けた。
「い、いや。それは、皆で取り戻したんだ」
すると突然イズミが千鳥を抱きしめた。
「うわっ!何をするイズミ!」
「僕もね、こうやって誰かを抱きしめたり手をつないだりすることができるようになったんだよ」
一度強く抱きしめた後、イズミは千鳥を話してニコリと微笑んだ。
「ありがとう」
千鳥は顔を真っ赤にしている。
蘇芳と桜はイズミに飛びついた。
「蘇芳も抱っこぉー!」
「桜もぉー!」
三人がじゃれ合っていると、ドアが静かに開く。
影だ。
千鳥は微笑んだ。
「おかえり」
影は千鳥を見ると、目をそらしつつ、
「……ただいま」
影と、会話ができた。
そのことが嬉しくて千鳥は更に影に問いかけた。
「影、怪我はないか?」
しかし彼は頷いただけだった。
それでもめげずに問いかける。
「どこに行っていたのだ?」
「……」
ついに千鳥が口を尖らせる。
「なぜしゃべってくれない」
すると銀がニヤニヤ笑った。
「あいつ照れてんだよ」
影は鋭く銀を睨む。そしてぶっきら棒に言った。
「……墓に、アスカの墓へ行ってきた」
悪いことを聞いたと思って千鳥は俯いた。
「……すまない」
重くなりそうな雰囲気に、イズミはわざとらしく思い出したように声を上げると、蘇芳と桜を床へ下ろす。
「そうだ、千鳥ちゃんと蘇芳ちゃんと桜ちゃん、起きたら閻魔さんの部屋に来いってさ」
「なぜ」
「この先どうするか、閻魔さんに報告しなくちゃ」
三人は首を傾げる。
「この先どうするか……?」
イズミは笑いながら三人の背を押す。
「とりあえず行ったら分かるからさ、閻魔さんは忙しいんだから、早く行かないと怒られちゃうよ」
蘇芳と桜は楽しそうに悲鳴を上げる。
「閻魔様怒ったらきっと怖いねー!」
「早く行こう!」
そして互いに手をつないだまま、桜が千鳥の手を引っ張った。
三人が部屋から出ると、イズミは残った二人を振り返る。
「で、千鳥ちゃんと蘇芳ちゃんと桜ちゃん同様、僕たちもこの先自由にしていいんだってさ」
「え?」
「僕も、影さんも、銀くんも、罪深さを知って、愚かさを知って、過去の自分を越えた。だから、もうここにいる必要はないんだって。どこへでも好きなところに行っていいんだってさ」
イズミはいたずらっぽくウインクしてみせた。
「ま、僕はこの場所が好きだから、残るけどね」
銀もニヤリと笑う。
「俺も、また孤独に戻るのはごめんだな」
「言うと思ったよ。影さんはどうするの?」
「聞かなくてもわかりそうだけどな」
影は床に視線を落す。
「……俺は、自分を許さない。たとえ神が許そうが、閻魔が許そうが、アスカが許そうが、俺は俺を決して許さない。だから、ここが俺の罪深さを知るところなら、俺はここで一生を終える」
「ほーらね。思ったとおりだ」
イズミと銀は顔を見合わせて笑った。
そしてイズミは思い出したように、
「あ、そうだ。ねぇ、影さん。千鳥ちゃんは僕のモノだからね。取っちゃだめだよ」
影は鼻を鳴らす。
「俺には関係ないことだ」
「素直じゃないなぁ」
イズミは人差し指を立てた。
「あのね、恋は素直な人が勝つんだよ。戦いではわかりやすい人はすぐに負けちゃうけど」
そして銀を見る。
「そういう意味では、僕は銀くんより有利かな」
「安心しろよ。俺にも関係ねぇことだから」
イズミはクスクス笑う。
「みんなダメだねぇ。千鳥ちゃんはいい子だから、敵は多いんだよ。自分に嘘ついてたらすぐに誰かに取られるんだから」
「例えば?」
「閻魔さんとかね」
銀は笑い声を上げた。
「ありえねぇだろ!あの閻魔だぜ!」
「千鳥ちゃんが好きになるかもしれないよ」
「まぁ、確かに、今回結構あいついいとこ取りだったからな……。でもやっぱありえねぇって」
イズミは銀の頭に手を置いた。
「銀くんはわかってないなぁ。五百年も生きてるのに」
「なにが」
「この世はね、ありえないって思ってることこそ、意外に起こりやすいもんなんだよ」
銀は肩を竦ませた。
やがて、千鳥たちが帰ってきた。
「あ、おかえり。この先どうするか決めた?」
千鳥は頷く。
「もちろん、ここに残る」
「よかった。蘇芳ちゃんと桜ちゃんはどうするの?」
二人はつないでる方の手を上げた。
「蘇芳と桜ね、閻魔さまのお手伝いするの!」
「がんばるよ!」
「……手伝い?サポーターじゃねぇのか?」
銀が目を丸くする。
千鳥が説明した。
「蘇芳と桜は、人間になったからいままでのように一瞬で武器を作ったり薬を作ったりすることができなくなったんだ」
すると影が小さく言った。
「二人が持っていた情報というのも、あの欲の塊から得ていた情報だけだろうからな……」
「ああ、そっか。じゃあ二人は元々情報屋なんかじゃなかったし、鍛冶屋でも薬売りでもなくなっちゃったんだ」
蘇芳と桜は頷いた。
「だからね、忙しい閻魔様をお手伝いするの!」
「閻魔様もいいって言ってくれたの!」
「よかったね。じゃあ、これからも皆一緒なんだ」
「いっしょいっしょ!」
「仲良し仲良し!」
蘇芳と桜が飛び跳ねる。
その様子を見ながら、イズミは微笑んだ。
銀は隣にいた千鳥を小突く。
「千鳥、お前も隅に置けねぇよな」
「なにがだ?」
「別に」
ニヤニヤ笑う銀に、千鳥は眉を潜める。
「気持ち悪いな……」
影は笑みを浮かべながら窓の外を眺めた。
日の光が柔らかい。淡い世界を温かく包み込み、心の底から心地よくなってくる。
穏やかな時間が、ゆっくりと流れていた。




