プロローグ
ここはとある下町の酒場『俺の台所亭』。
太陽も地に沈み善良なる一般市民が一日の祈りを唱えて床に入る頃、傭兵の荒くれ者やよそから来た行商人たちなどでにぎわっていた。
がなり声やドスのきいた笑い声などが響きあう中、突如酒の入った木の杯が宙を舞い殴りあいを始めた酔っ払いがいた。
この酒場ではよくあること、ほかの客も特に気にせず話に戻るもの、殴り合いを酒の肴にはやし立てるもの、どちらが勝つ賭けを始めるものとさまざまであった。
ところが酒場にどよめきがはしる。
殴り合いをしていた酔っ払いの一人が腰から短剣を抜いて相手に向けたのだ。
酒場の注目を一身に受け、男は更に興奮しギラギラとした笑みを浮かべ短剣で威嚇する。
酒場の男たちは机や皿や杯を持って酔っ払いたちから距離をあけた。恐怖のためではない。
酒場の店主と客達は「あぁ、よそ者か。かわいそうに。」と短剣を持った男を同情するように生暖かい目で見守った。
「俺たちの縄張りで喧嘩沙汰に刃物を持ち出すとはいい度胸じゃねえかぁ!!」
酒場に若い男の声が響く。
その声に嬉々とした感情がありありと表れており、見守っていた店主と客達は大きなため息をついた。
短剣を持った酔っ払いが声のほうに振り向いた瞬間、ナイフを持った手を蹴り上げられていた。
手首にはしる激痛に混乱しながら相手を確認しようとすると腹を殴られ、気が付くと壁に吹っ飛ばされていた。
床にうずくまったままかろうじて顔を向けると、黒い短髪で細身の若い男が先ほどの喧嘩相手を組み伏せていた。
そのまま背中でねじりあげた腕に力を加えていく。
「クライン、そいつは殴り合いをしていただけだ!なにもしてねえ、離してやれ。」
酒場の店主である体格のいいハゲ親父が、慌ててカウンターから飛び出して若い男をとめた。
殴り合いぐらいは揉め事のうちに入らない酒場の親父もたいがいであるが、このクラインのほうが更に厄介なのである。
クラインと呼ばれた男は目つきの悪い黒い瞳をさらにきつくして、組み伏せている男を見た。
見られた男はその鋭い眼光に「ひっ!?」と声をもらすが、クライン自身は睨んでいるつもりも凄んでいるつもりもなく単純に男を眺めただけである。
「ちっ、しょうがねえな。これにこりたら騒ぎを起こすんじゃねーぞ。」
(お前が言うなよ…)
酒場に声なき心の声が満ちた。
酔いもすっかり醒めた男が体を起こすことも忘れ呆然とその様子を眺めていると、若い男が自分のほうへとやってきた。
「ひっ!?」
青ざめて見上げると、若い男が自分の短剣を振り上げていた。
「酒場で刃傷騒ぎたぁ、腕を切り落とされても文句は言えねえぜ。」
若い男は冷たく言い放つと、短剣を倒れた男の手にめがけて振り下ろした。
静まり返った酒場に、男の悲鳴が寒々しく響いた。
男はいつまでたっても衝撃がこないことに気がついた。
いつの間にか固く閉じていた目をおそるおそる開けると、ナイフを持った黒髪の男とその腕を握りしめる金の長髪の男の姿があった。
新しくあらわれた男もまた若く、しかもこのような平民街には全く似つかわしくない貴族のように上品で整った顔の男だった。
「クライン、これ以上はやりすぎです。」
涼しげな翠の瞳を細めて、金髪の男は落ち着いた声で話す。
黒髪の男は忌々しげにつかまれていた腕を振り払うと、金髪の男を睨みつけて地を這うような声で凄んだ。
「キース、お前がなんでここにいるんだ。」
「私は今夜の当直でしたので、付近を見回っていたら騒ぎが耳に入ったのです。しかもあなたの声がきこえたものですから慌てて駆けつけましたよ。
この男は私が責任をもって衛兵に引き渡しましょう。クラインは非番なのだから私に任せてください。」
金髪の男が現われてからは酒場の緊迫した空気も霧散し、いつもの騒々しさに戻っていた。
クラインとキールはこの町を拠点とする傭兵団の副団長である。
普段は平民街の自警団のようなこともしており、騎士で構成された衛兵が関与しない小さな厄介処理などを管轄としていた。
が、クラインが関わると事は更に大事になるため、平民街に暮らす民は酒場の酔っ払いでさえお行儀よく暮らしている。
なぜ問題児のクラインが副団長なのか、それは他のメンバーが更に輪をかけて問題を起こすためである。
キースは傭兵団の良心、または狂犬どもの調教師とひそかに呼ばれている。
ちなみに飼い主は団長である。
キースと男が去っていったあと、「まだ暴れたりねえ…」というボソッとつぶやかれた物騒な一言に酒場の誰もが顔を背けて必死に聞こえないふりをしていた。
下町の夜はまだまだこれからである。
次からは一人称になります。
読んでいただいてありがとうございます。