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赤の仮面  作者: 馬場悠光
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第三章 【昌子・努】

 康時が部活に来なくなって、丁度一週間が経った。一度だけ、廊下ですれ違ったけれど、お互いに気まずいのだろう。声を掛ける事も掛けられる事もない。


 確かに、伊藤の元に再び行ってあの男を本気にさせるような何かをした康時は悪いけれど、それを諌めるため、彼に手を挙げた私は人として最低だった。おまけにあんな捨て台詞まで言って…


 謝りに行こう。


 その日の放課後、私は部活に行かずに康時の家に行った。仕立て屋をしている彼の家は正面に店舗を構えており、康時等、家の人が家に入る時は裏口に回っている。


 どうしよう。正面から入らずに裏口に回った方がいいだろうか?仕事の邪魔になったら悪いし…いや、かえってそちらの方が迷惑かもしれない。


「どうなさいました?先ほどから…」


 いつまでも店の前に突っ立って居る女の子が気になったのだろう。店の中からエプロンを着た恰幅のいい女性が出てきた。一目で康時の母親だと分かった。


「あの…私は佐々木昌子という者ですが…」


 私は胸の中から溢れ出る何かを抑えながら彼女に言った。


「ああ!あなたが…康時がいつもお世話になっております」


 彼女は深々と頭を下げる。


「あの子が入部して一月も経たずに野球部を辞めた時は大変驚きましたが、文芸部に入ってからは本当に毎日が楽しそうで…」


 今、その関係がこじれている事は、彼女は知らないようだ。良かった…


「いえ、こちらこそ…それで、康時君は今、いらっしゃるでしょうか」


「ごめんなさい。今、あの子は出かけてるんですよ。でも、もうすぐ帰って来ると思いますから、上がって待っておいて下さい」


 彼女のお言葉に甘えて、私は正面から家の中へと上がった。前の方には出来上がった服が飾られており、奥には仕事場、さらにその奥にはこじんまりとした霜田家の人々の生活空間があった。


「こちらです」


 お母さんに案内されて、二階へと上がる。康時の部屋はハート型のホワイトボードが掛けられている部屋の隣にあった。


「しばらく、あの子が帰ってくるまで待っていて下さい」


 お母さんが下に行くのを見届けると、さっそく【外出中】と書かれた星型のボードが掛けられている康時の部屋のドアを開けた。


「あらら…」


 床にはほとんど物が置かれておらず、一見すると片付けている部屋に見えるけれど、いざ、机の上やベッドの上を見てみれば、制服だの教科書だのその他色々な物が無造作に山積みになっていた。つまり、ただ下にあった物を上にやっただけである。これでは【綺麗な部屋】とは到底言えない。


 床に座る訳にはいかないので、私は一番物の乗りが少ないベッドの上に腰掛けた。ふと横の山の上を見てみると、かなり使い古された野球のグローブが目に留まった。表面には薄っすらと【霜田】の二文字が書かれている。


 中学時代の彼はこれを使っていたのだろうか?


 私は何となくそれを右手に嵌めると、開いたり閉じたりして、動かしてみた。


 だっ だっ だっ だっ


 かなりの速さで階段を駆け上がる音がした。


 来たか。


 私が急いでグローブを元の位置に戻すと同時に、部屋のドアが勢い良く開く。


「久しぶり、康時君」


「………」


 康時は何も言わずに、机に付属している椅子に座る。横目で私を見るだけで、気まずそうに、かなりそわそわとしている。


 早く緊張をほぐしてあげよう。私はさっそく本題を切り出した。


「この前、あなたを叩いたりして本当にごめんなさい」


 私は膝に手を添えると、康時に向かって頭を下げた。すると彼はフッと笑った。


「何だ、そんな事ですか…」


 そう言って立ち上がると、私の元に歩み寄った。


「頭を上げて下さい。本当に謝らなくちゃいけないのは、僕の方です。あんなに心配させてしまって…」


 それを聞くと、一気に胸のつかえが取れた様な気がした。それは彼も同じらしく、気まずそうだった彼の顔に笑顔が戻る。その後、お母さんがようかんとオレンジジュースという微妙な取り合わせのおやつを持ってきてくれたので私達は仲良くそれらを口にした。


 ようやくいつもの空気に戻ってきたと思っていた所で、康時が言った。


「そう言えば、どうして先輩は僕の後を追って来たんですか?お陰で助かりましたけど」


「あっ!思い出した」


 私はバックからそれを取り出すと、康時に見せた。彼のメモ帳である。


「これ、机の上に放り出したままだったわよ。大切な物でしょう?」


 私は彼にそれを渡そうとすると、彼は笑顔を浮かべて手を横に振る。


「いえ、先輩が持っていて下さい。僕なんかが持つよりも、先輩が持っていた方がよほど役に立つでしょうから」


「そう?それじゃあ…」


 メモ帳を再びバックの中に入れると私もまた、彼に聞いた。


「それにしても、あなたはどうしてまたあんな所に」


 康時はジュースの入ったグラスをお盆に置くと、ポケットから財布を取り出し、「気持ちのいい物じゃありませんが…」と言って、その中からまた一枚の写真を取り出して、私に差し出した。


 西村空江の写真だった。


 頭から吹き出た鮮血。左手の甲についた【×】の真新しい傷跡。不自然にひしゃげた手足…


「小野寺先輩が言ってたんです。彼女の遺体の写真を撮った奴がいると…それで思わず…」


「それで、少しは彼女の事を調べてみたの?」


 そう聞くと、彼は少しうろたえた様子だったが、「一応は」と言って、西村空江について語りだした。


「西村空江。1994年六月十二日生まれ。好きな食べ物はいちご大福で、小学校の時の渾名は…」


「いやいやいや…そういう話じゃなくって、もっとこう…この事件やその死に関係がある様な…」


「分かりました。それでは改めて…空江の母親はとても優しい人だったそうですが、父親の方は、人として最悪な人間だったそうです」


 康時は残りのようかんをフォークで突き刺して、一口で口に頬張った。


「自分はろくに働きもせずに、妻の稼いだお金は酒代やギャンブルに使い、子供には何から何まで全部身の回りの世話をさせて、失敗したり反抗したりしたら、何発もお手製の鞭で叩いていたそうです」


「それじゃあこれも、その時に付けられた傷なのかしら?」


 私は遺体の手の甲にある、明らかに人為的に付けられた【×】の傷を指した。


「ええ、その傷は彼女が小学五年生の時に付けられた物です。幸い、骨がナイフの邪魔をしてくれて神経まで傷つける事はなかったそうですが、こうして死んでしまっても、その跡は消える事はありません…そんな生活が何年も続いて、母親は空江が小学六年生の時に、遂に離婚を切り出します」


「それで、どうなったの?」


「もちろん、そのままだったら罵倒されて殴られるのは目に見えていますから、法律家を間に立てて話を進め、多額の慰謝料を向こう側に払う事を条件に何とか離婚にこぎつける事が出来たんですが…」


 私は何となく、彼が次に何を言おうとしているのかが分かった。


「空江は、父親に引き取られる事になったんです。こうして空江は今まで以上に不幸な生活を送る羽目になりました」


「…これが空江の家庭内の事情ね…」


「三年の月日が経ち、桂高校に入学した空江はテニス部に入部しました。しかし、そこでも新たな苦しみが待っていたんです」


 康時は大きく溜息を吐いた。


「空江はテニスが上手で、中学三年の時には全国大会まで駒を進めるレベルでした。しかし、当時のテニス部の先輩や同級生が彼女のその力を妬んだ様で、彼女を陰湿にいじめました」


 私は初めて、場の空気が今まで以上に重くなっている事に気がついた。


「例えばクラスの事情で部活に遅れた空江を皆で取り囲んで罵倒したり、制服からユニフォームに着替える彼女の姿を動画に撮ってインターネットの動画サイトに投稿したり、彼女が愛用していたラケットをへし折ったり…」


「家では父親…学校では先輩や同級生達に…ね」


「そしてとうとう、西村空江は二年前の十月十三日に自らの命を絶ちました」


「…それで、彼女が自殺する大きな要因となった彼女の父親や、先輩や同級生達はその後、一体どうなったの?」


「どうもなってませんよ。どうせ、自分達が殺した女の子の事なんか忘れて、楽しくのうのうと生きている事でしょうね。ただ、その内一人はもう死にましたけれど」


 康時の言い方に少し苛立ちを覚えたけれど、無理もないだろう。私は残ったジュースを一揆に飲み干した。


「それより、伊藤を捕まえなくていいんですか?西村空江との関係は置いておいて、どう考えてもあいつが犯人でしょう」


「ええ。確かにあの男はあなたを殺そうとしてきたし、今まで何人も人を殺してきたかもしれない。だけれど、今回の事件は、伊藤は犯人じゃないわね」


「なぜ」


「あなたを殺そうと伊藤がナイフを構えたとき、アイツは右手にナイフを持っていた。だけれど、あの事件の犯人は左利き…つまり、右利きである伊藤ではないという訳」


「なるほど…」


 私の話が終わると、康時は自分の横にゴミ箱を置いて言った。


「ともあれ、こんな不謹慎な写真は早く捨ててしまった方がいいでしょう。さあ」


 彼は自分の手を私に差し出した。写真を返してくれという事なのだろう。


「返すけど、捨てるのは駄目。もしかすると、何かの役に立つかもしれないでしょう?せめて、この事件が終わるまで大切に持ってなさい」


 あれっ?無意識の内に、そんな言葉が口から出てしまった。何なんだろう…これ。


「…分かりました」


 彼は私から写真を受け取ると、再び財布の中へ入れた。


「そうだ先輩。明日、何か用事でもありますか」


「別に…なぜ?」


 いきなり何を…?


「明日は丁度、学校が休みでしょう。だから、何処かに遊びにでも行きませんか?事件の事は少し置いといて」


 ああなるほど。デートのお誘いか。この子も、そういう歳になったって事か…


「別にいいわよ。それで、何時にどこで待ち合わせする?」


「それじゃあ、僕が昼頃に先輩の家に行きます。その間に、準備を済ませておいて下さい」


「分かったわ。それじゃあ、楽しみにして待ってるから」


 私はベッドから立ち上がった。


「帰るんですか?」


 康時が寂しそうに言う。


「ええ。だって、そろそろ夕食の準備をしなくちゃならないから…」


 私は壁に掛けてある時計を指した。もう六時半である。


「それだったら、今夜はここで食べて行ったらどうですか?」


「でも、お母さんが…」


「大丈夫ですよ。そんな事で嫌だなんて言う様な人じゃありませんから」


 康時の言った通り、お母さんは笑顔でそれを承知してくれた。料理の方はすでに出来上がっており、後は食器等を出すだけである。


「私がやります」


 食べさせてもらうのだ。この位はしなくては…私は部屋の色々な所から食器を取り出して、お母さんに渡した。


「ど…どうも」


 何故かしら、彼女は困惑した様子だったが、すぐに私が用意した食器にごはんや味噌汁を入れ、出来上がった料理を大皿に盛り付けた。


 テーブルにそれらを並べ終えると、私はいち早く自分の席に座って、康時とお母さんが座るのを見計らい、手を合わせた。


「それでは、いただきます」




 赤城努は一人、布団の上に転がっていた。数日前からまた、熱を出してしまったのである。だけれど、こうして寝込んでいても看病をしてくれる様な家族は居なかった。


 努は両親の顔を知らなかった。交通事故で彼を残して逝ってしまったのである。物心のついた時から病弱な努は、施設で他の子ども達からいじめられながら育ってきた。それが、後の彼の性格に、そして西村空江の自殺に大きな影響を与えてしまう。


「ごほっ、ごほっ」


 努は体を跳ね上げながら大きく咳きをした。それと同時に、さらさらとした鼻水が流れ出る。


「クソッ…」


 努は数枚のティッシュを抜き取ると、荒々しく鼻水を拭いた。


 今回の熱はいつ引くんだろうな…


 湿って重くなったティッシュをゴミ箱に放り込むと、再び彼は布団を被った。その時だった。


 ピンポーン…


 玄関のインターフォンが暗い部屋に鳴り響いた。


「えっ?」


 高い熱が出たとき、普通ではありえない様な物を聞いたり見たりする事がある。なので、最初はほとんど気にも留めなかった。しかし…


 ピンポーン…


 二度目だ。


 努は体を少しずらして時計を見た。時刻は十時を回っている。こんな時間に普通の人間が尋ねて来るはずがない。普通なら無視するだろう。しかし、努は布団から這い出ると玄関へと向かった。うれしかったのである。病気の自分なんかを訪ねて来てくれる者が居るという事に…


 もうその時すでに、いつもの様な横暴で残虐な赤城努の姿はなかった。


「待ってろよ…」


 玄関に着くと、彼は何のためらいもなく鍵を開ける。そして、それを「待ってました」とばかりに冥土へのドアが勢い良く開いた…


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