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短編No.41-60

No.54 爽やかな日向の匂いと、ぬけるような青い空

作者: 藤夜 要

 すっかり葉桜になってしまった老木を見上げる。繁る葉の向こうに見えるのは、見せつけるように澄んだ、青く遠く深い空。雲ひとつないそれは、グレーな私と正反対。

「……はぁ」

 バカみたいだ。心の中で自分に対してそう呟く。叶うはずのない願いを捨て切れない自分に溜息をついた。


 ぬけるような爽やかな青空は、小日向くんを思い出させる。

 小日向秀馬くん。中学の同級生。

 卒業と同時に、お父さんの仕事の関係で東北地方へ引っ越してしまった。この桜の木の下で、クラスみんなと一緒に撮った卒業記念写真だけが、たった一枚の一緒に撮れた写真。

 男女混合名簿順で並ぶと私の隣に小日向くんが来る。

『小橋とは、ろくに喋れなかったなあ』

 転勤族のお父さんだから、数年単位で住むところが変わっているみたい。そんなことさえも、私は卒業間際のその時ようやく知ったところだった。

『お前さ、覚えてる?』

 小日向くんがそう言って語ったのは、およそ一年前の始業式の話だった。クラス替えなしで持ち上がりの中学だったから、男女ともにある程度の“仲よしグループ”みたいなものが、クラスのなかでとっくに出来ていた。

『俺、これでもさ、少しでも早くクラスに打ち解けるのが処世術っつうか、うまくやってく方法と思ってて、その自信も結構あったんだけど、このガッコだけは参ったんだよな』

 小日向くんの席を決める時、先生が気の利かないことを言ったから。

『もう出来上がってる派閥? みたいなのがあるのに、誰か隣の席になれる人、とかさー。だーれも手を挙げないんでやんの』

 その時、何かと断れない性分の私が、おずおず手を挙げたのを思い出した。その性格のために、結局三年連続クラス委員を任されていたから。クラス委員の責任を感じてくれたんじゃないか、と小日向くんに尋ねられた。

『そ、そういう、わけじゃ』

 ない、と言い切れなかったのは、「じゃあなんで?」と訊かれるのが怖かったから。

 打ち解けた頃になってから、皆は小日向くんのことを「面白いやつ」と受け容れてくれたけれど、本当の小日向くんはきっと、すごく寂しがり屋の怯えた仔猫みたいな人だと思ったから――なんて、言えなかった。自分と似ていると感じたからだなんて、失礼じゃないかと思ったの。

『まあ、今となっちゃ別になんでもいいんだけどなー。ありがとな』

『え?』

『だってさ。自分がどういうヤツかなんて、アクション掛ける対象がなけりゃアピれないじゃん? それだけでも充分助かったのに、お前、一生懸命クラスの誰か彼かに誘い水掛けて引っ張ってくれたりさ』

 ばれていた。それだけでなく、日頃から巧く喋れない私、という実像も。

『恩返し出来りゃよかったんだけどさ。女子は男子と違って、なかなかその辺難しいなあ』

 どうしても話すペースが人より遅い私だから。結局そのテンポについていけず、小日向くんがクラスのみんなに受け容れられていく一方で、私は私のままだった。

『……ありがとう』

『は?』

 ありがとう。そう言うだけで精一杯だった二ヶ月前の私。

 スカートを握りしめる手が震え出してしまって。涙を堪えるので精一杯になってしまって。

 初めて、私を見てくれる人がいた。初めて、“さん”づけじゃない呼び方で名前を呼んでくれる人が出来た。私自身が小日向くんに救われた一年だったのに、私はお礼の内訳も告げられないまま、ただ唇を噛んでいた。

 卒業記念の写真に写る私は、ものすごく嫌な顔をして写っていた。


 ポケットにしまいこんだ記念写真を眺めてみる。スキャナーでコピーを撮って、自分と小日向くんだけ切り抜いたもの。

 夏休みが明ける頃には、クラスの中心になっていた小日向くん。澄んだ空に高く跳ぶ彼の、陸上部での練習風景を見てスケッチするのが、美術部だった私のささやかな楽しみだった。その絵は後輩や同い年の部員に全部あげてしまったのだけれど。

『えー、モデル料くれないのか? 俺の分も描いてよ』

 珠の汗を零しながら、突然近づいて来てそう言った。そのまま死んでしまうかと思うくらい、あの時私の心臓が勢いよく跳ね上がった。初めて誰かを好きになったって、自覚した瞬間だった。

 好かれたい。嫌われたくない。そんな形で自分しか見てなかったんだってこと、彼を好きになって初めて気づかせてもらったの。

『……ちょっと、時間が掛かっても、いい?』

『別にいいけど。なんで?』

『……色を、置いて、ちゃんと仕上げて、渡したいから』

『うぉ、マジ? ってか、美術展に出すヤツ描いてるんじゃねえの? 再来月って呉崎が言ってたぞ。描き直すとか? 俺、ひょっとしてそっちのジャマした?』

 気遣ってくれることがくすぐったくて、つい笑みが零れ出た。

『ううん。これは、美術展用とは、別。だって、肖像権は小日向くんにあるから、勝手に展示会に出せない、でしょう?』

 彼が不意に至近距離に近づき、私の頬を真っ赤にさせた。

『えー、これを俺だけにとか、もったいねえ。ガッコの中でユーメージンになるチャンスじゃん。これ出そうぜ』

 スケッチブックを真上から覗き込んで、彼はそう言ってくれた。

『……いいの?』

『うぃ。もっちろーん』

 そう言ったかと思うと、くしゃりと頭を撫でられた。

『……』

『お前さ、笑ったほうがかわいいぞ。どうせ自分なんかっつって、いろんなこと、諦めるなよ』

 そう言う小日向くんのほうが、よっぽど爽やかで暑気払いにさえなるほどの清涼感溢れる笑みを零していた。私はその時あまりにも余裕がなくて、何も言葉が返せなかった。

 解ってくれている人がいる。怖さ半分、嬉しさ半分。空気みたいな存在の私を形作る小日向くんが、いろんな意味で特別な存在になっていて、そんな自分にうろたえた。

『……気を悪くしたなら、ごめんな。お前ってなんか、ちっせぇ時の俺に似てるからさ』

 ちょっと、ほっとけなかった。彼はそれだけ言い残し、仲間たちが待っているグラウンドへ走り去っていった。

 台風が吹き荒れた。私の中にだけ。やっぱり彼をモデルにしている何人かの部員の子たちが、私の周りに集まって来た。

『小橋さん、小日向くんと仲がいいよね』

『っていうか、秀馬の一方通行っぽいけど』

『判りやすいよねー、小日向くん』

 口々にそう茶化す。真夏の太陽なんかのせいじゃなくて、背中に、脇の下に、額にと、あちこちから嫌な汗が噴き出した。

『あ、の、そういうんじゃなくて』

『えー、悪い奴じゃないじゃん』

 初めて誰かから、私にくれる笑顔を向けられた。ことん、と心臓が嬉しいと言って踊り出す。

『やだ、小橋さん。顔が真っ赤。なんかかわいいわあ』

 かわいい。そんなこと、初めて言われた。

『あの、あのね。おどおどして見えるから、って。もっと笑えばいいのに、って。叱られてただけで、別に、その』

『あー、言えてるー。なんか小橋さんって、キツいこと言ったら泣いちゃいそうなんだもん』

『でも、意外とヘーキじゃん。秀馬のそれ、結構かなりストレート』

『まぁ彼らしいっちゃあ彼らしいけど、デリカシーなぁい』

 根暗って、嫌われているわけじゃなかった。二年半も経ってから、初めてそれに気がついた。

『……ありがとう。でも、本当の、こと、だから』

『って、ほらぁ。前々から言いたかったけどさ。なんでも受け容れ過ぎっていうの?』

『クラス委員のことだってさ、何も自分から手を挙げることなんかしなくっても、くじ引きとかでいいのにさー』

『あんた、人のこと言えないじゃん。私もそうだけど』

『だね。だって職員室に毎日行くのとか、だるいしさぁ』

『担任がいちいちうるさいんだよね、長引くしー』

『クラス委員って結局雑用係だもんね』

『そうそう』

『でも』

 クラスメートでもあるそのふたりが私を挟み、揃って私をじっと見つめた。

『手伝うからさ、必要な時は、言ってよ』

『なんか今更過ぎて、言い出すきっかけがなかったんだよね』

 初めて、私にトモダチが出来た。


 切り抜いた記念写真に、ひと粒ふた粒と涙が落ちる。

「あ」

 インクジェットプリンターでプリントアウトしたから、インクが溶けて滲んでしまった。ぼやけてしまう記念写真。インクの滲みと私の視界そのものがぼやけて来たせいで。

 何も、言えなかった。何も、伝えられなかった。

 呪わしい記念日となった卒業式。彼はみんなに囲まれていて。

 割り込んでなどいけなかった。みんなだって私と同じ、離れ離れになってしまう彼と少しでも一緒にいたいはずだから、自分がその時間を消費するのがためらわれた。

 走って逃げるように帰ったことを、今になって後悔している。だけどそれでよかった、とも思う。きっと話なんかしたら、彼のひと声だけで泣いてしまいそうなほど、別れることが辛かったから。

 あのあと、すっかり仲よくなった呉崎さん――クレちゃんの携帯アドレスで、伝言みたいな形で小日向くんからメールが届いた。

 ――市民グラウンドの、いつもの桜の下んトコ。そこで待ってる。

 いつもの桜。この樹のこと。中学校の隣にあるこのグラウンドが陸上部の練習場所で、いつも私たち美術部員の一部が写生場所に使っていた、ちょっとだけ小高くなった場所。

 私はそれに返信を送らなかった。ここにも来なかった。

“さようなら”

“元気で”

“東北へ行っても、頑張ってね”

 そんな別れの言葉を言える自信がなかったから。きっと泣いてしまって、小日向くんを困らせるだけだと思ったから。壮行会をやると、クラスでこっそり決めていた。クレちゃんが幹事を一緒にしてくれていたので、彼女に仮病を使って断りのメールを入れただけで終わったあの日。

『バカだね、咲良は』

 そのあと訪ねてくれたクレちゃんは、私を優しく叱った。

『もうサクラは見れないのかなって、寂しそうな顔して言ってたよ。グラウンドの桜のことなのか、咲良のことなのか、私には解らないけどね』

 そんな言葉を聞いて、私は初めて人前で涙腺を壊してしまった。彼女は、無様でみっともなくて不細工になった私の顔を見て笑った。

『……ホント、バカなんだから』

 私のメルアドを小日向くんに伝えたそうだ。だけどあれから一度も連絡をもらったことがない。

 きっと、傷つけた。普通、避けたら嫌われてるんだって解釈するんだと、思う。特に奥深いところで私と似ている小日向くんなら尚のこと。

 正反対だったのに、怖くて悲しくて寂しくて。何よりも、拒絶されるのが怖くって。

「……会いたいなぁ……」

 小日向くんに。

 サクラって、桜? それとも私のことだったの?

 尋ねてみたい。

「ううん……それは、どっちでもいい」

 ただ、“ごめんなさい”と“ありがとう”と、それから“好き”って、伝えたい。

 私にトモダチをくれた人。

 私を形作ってくれた人。

 私を解ってくれた人。

 私を「昔の自分」と言って、どうすればいいのかを具体的に教えてくれた人。

 今は新しいトモダチと、相変わらず仲よくやってるのかなあ。

 ずっとそうやって過ごして来たように、古い記憶を拭い捨てて、今の環境に専念して楽しく過ごしているのかなあ。

 つ、と頬に伝うぬるいモノ。晴れわたったキレイな空に、不釣合いな醜いモノ。

 私じゃあ小日向くんと、釣り合うわけなんかない。クレちゃんのアドバイスどおり、メガネをコンタクトにしてみたけれど。飾り気のない長い髪もバッサリ切って、ブローでゆるいウェイブをつけてみたけれど。中身がまるっきり変わってない。

 着慣れない、ちょっと恥ずかしいくらい露出を感じるカットソー。見せるストラップだからいいんだってクレちゃんは言ったけれど、下着を見せているようで恥ずかしい。

 こんな短いスカートだって、それにパステルピンクなんて、生まれて初めて身につける色で、なんだかすごく私らしくない。

「……遅いよ、クレちゃん」

 名指しで彼女の文句を言う。何もこんな忌まわしいところを待ち合わせ場所にしなくてもいいのに、と思う。

「呉崎なら、多分堀田と駅で待ってるぞ」

「!」

 太い桜の幹の向こうから聞こえたその声に、私は言葉を失った。

「ちょっとおどかしてやろうと思ったんだけどさ、お前ってば、いつまでも気がつかないしさ」

 そんなはにかむ低めの声が、葉桜のこすれるサヤサヤという音に混じって私の鼓膜を揺さぶる。

「呉崎と、二泊三日の旅行だろ? あれ、俺と呉崎と堀田で組んだプランなんだ」

 堀田くん。中学の時、同じクラスだった男子。確か小日向くんとすごく仲よくなった……今は、クレちゃんの彼氏。

「ほら、家って転勤族じゃん? こういう面、めちゃくちゃ寛大なんだよな。まとめてみんな家にお泊まりってことで。呉崎がサプライズって言ってただろ?」

 桜の幹の向こうに、人影が現れる。眩し過ぎて見えなかった。私の脚は、いつの間にか小刻みに震えていた。

「堀田と呉崎がお前んちに行って、家の親からの手紙を渡しておくってさ。女の子の親って、いろいろ心配するんだろ?」

 爽やかな風が吹く。日向の匂いで満ちていく。景色がゆがんで見えるのは、コンタクトがずれたせいかしら。

「家の親、寛大なとこは寛大だけど、こゆトコめっちゃくちゃ厳しいからさ、残念だけど」

 そう言ってくすりと苦笑を零す笑顔は、あんなにも恋しかった爽やかなもので。

「……こ」

 小日向くん。そう言おうとしたのに。

「こゆコトって、こーゆーこと」

 ぐいと腕を掴まれる。震えていた脚からはすっかり力が抜けて、体が抱きかかえられるように引き込まれていった。呆然として少しだけあいた唇に、柔らかな感触がかすかに宿る。

「えへへー。嫌われてるかと思って、なかなかメール出来なかった」

 そんな声が、ぼわんとした感じでくぐもった音で届けられた。

「すげぇイメチェンしたのな。かわいい。ヤバかわいい」

 彼の腕が私の耳を塞いでいて、はっきりと聞き取れないのが、すごく悔しい。

「桜、見に来いよ。まだこっちは満開なんだ」

 答えなんか聞いていないとばかりにきつく抱きしめられて、首を縦に振ることも出来ない。

「呉崎にじゃなくて、俺に直接言えっつの。お前、俺の弱味を知ってるだろ」

 弱味? その言葉で初めて彼を見上げた。

「弱味、って?」

「ホントはすっげぇ小心者。お前にだけは、一発で見抜かれちまっただろが」

「あ……」

 桜の若葉の新緑色と、小日向くんの顔の赤。そのコントラストに驚かされながら、その言葉にも驚かされる。

「すっげぇ度胸要ったんだぞ。今度はお前の番だからな」

 そう言われても。

「……こ、ひな、た……く」

「秀馬でいいよ」

 咲良、と名前を呼ばれ、とろけそうになる。

「そ、卒業式、ごめんなさい。その、ホントは」

 ――好き。だから、お別れの言葉が辛くて、言えなくて聞きたくなくて離れたくなくて、だから、逃げたの。

 ものすごく長い時間を掛けて、ようやく伝えられた。彼は頭上から見下ろす青空みたいな笑みを零したまま、ずっと黙って気長に私の言葉を聞いていた。

「お別れとか、バカだし。俺、言いそびれたじゃんよ」

 高校生になればバイトが出来る。頑張って旅費貯めて、ちょいちょいこっちに来るから。そう言おうと思ったのにと笑いながら叱られた。

「んじゃ、お前んち行こか」

「え」

「え、って。だって拉致ったらダメだろう。ちゃんとお前んちの親にも俺を信用してもらえるように、ツラ出してから行くに決まってんじゃん」

 そう言って腕を解かれた途端、私の全身が砕け落ちた。

「って、咲良?!」

「……こ、腰……抜け、ちゃった……」

 驚き過ぎて。嬉し過ぎて。恥ずかし過ぎて。幸せ過ぎて。

「……ぶっ」

 小日向くん――秀馬くんの爽やかな笑い声が、グラウンドいっぱいに響きわたった。

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