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婚約破棄の慰謝料は、王太子殿下の全財産でよろしいですか?

作者: ふたーなる
掲載日:2026/11/03

「エルネスタ・ローデン! お前との婚約を破棄する!」


王太子ヴィルヘルムの声が、王宮の大広間に響き渡った。


夜会に集まった貴族たちが、一斉にこちらを向く。


エルネスタは手にしていたグラスを置いた。


「承知いたしました」


「……何?」


「婚約破棄の件、承知いたしました」


ヴィルヘルムは眉をひそめた。


「お前、今なんと言った?」


「承知いたしました、と」


「泣かないのか?」


「なぜですか?」


「なぜって……」


ヴィルヘルムは言葉に詰まった。


彼は、エルネスタが泣き崩れると思っていた。


自分に縋りつき、婚約破棄を撤回するよう懇願すると思っていた。


そうなれば、彼女に最後の慈悲を与えるつもりだった。


だが、エルネスタは落ち着いた様子で扇を閉じた。


「殿下。婚約破棄の理由をお伺いしても?」


「お前が傲慢だからだ!」


「具体的には?」


「リリアーヌに嫌がらせをした!」


ヴィルヘルムの隣に立つ伯爵令嬢リリアーヌが、怯えたように肩を震わせた。


「わ、わたくし……エルネスタ様に、何度も冷たい言葉をかけられました……」


「ほう」


エルネスタはリリアーヌを見た。


「いつ、どこで、どのような言葉を?」


「えっ……」


「日時と場所をお教えください。記録を確認いたします」


「そ、それは……」


「記録がなければ、証言でも構いません。目撃者は?」


リリアーヌは口を閉じた。


ヴィルヘルムが声を荒らげる。


「お前は何をしている! 彼女を責めるな!」


「責めてはおりません。事実確認をしているだけです」


「そんなものは必要ない!」


「では、証拠もなく婚約破棄をなさるのですか?」


「私は王太子だ!」


エルネスタは、静かに頷いた。


「なるほど」


そして、懐から一枚の書類を取り出した。


「では、こちらをご確認ください」


「何だ、それは」


「婚約破棄に伴う損害賠償請求書です」


「……は?」


「婚約破棄の原因が殿下の一方的な判断である場合、婚約に伴って発生した費用、侯爵家が負担した教育費、社交活動に必要な費用などについて、請求できる可能性がございます」


「待て!」


「こちらは、婚約破棄の理由に関する証拠がない場合の追加請求分です」


「追加だと!?」


「はい」


エルネスタは書類を一枚めくった。


「こちらが、婚約破棄を公衆の面前で宣言されたことによる名誉毀損分」


さらに一枚。


「こちらが、婚約破棄に伴う侯爵家の損失分」


さらに一枚。


「こちらが、殿下の発言によって発生した王家への信用失墜に関する損害分」


ヴィルヘルムの顔が、徐々に青ざめていく。


「……いくらだ」


「総額で、殿下の個人資産を上回ります」


「何だと!?」


「ご安心ください。王家に請求する分は別途計算しております」


「安心できるか!」


エルネスタは首を傾げた。


「では、婚約破棄を撤回なさいますか?」


「……!」


ヴィルヘルムは、すぐに答えられなかった。


撤回すれば、貴族たちの前で自分の言葉を覆すことになる。


だが、婚約破棄を進めれば、莫大な賠償金が発生する。


彼はリリアーヌを見た。


リリアーヌは、そっと一歩下がった。


「……リリアーヌ?」


「殿下。わたくし、そんなに大きな問題になるとは思っておりませんでした」


「お前が嫌がらせを受けたと言ったのだろう!」


「ですが、慰謝料を払うのは殿下ですもの……」


「……!」


ヴィルヘルムは、エルネスタを振り返った。


「お前は……私を脅しているのか?」


「いいえ。婚約破棄に伴う手続きをご説明しているだけです」


「……」


「殿下が婚約破棄を望まれるのであれば、わたくしは喜んで応じます」


エルネスタは、微笑んだ。


「ただし、責任はお取りくださいませ」


その言葉に、広間の貴族たちが頷いた。


ヴィルヘルムは、顔を真っ赤にした。


「……分かった!」


彼は勢いよく書類を掴んだ。


「婚約破棄は撤回する!」


エルネスタは、首を傾げた。


「それは困りますわ」


「なぜだ!」


「わたくし、すでに婚約破棄を承諾しておりますので」


「……は?」


「婚約を継続する意思はございません」


「お前が婚約破棄を望んでいたというのか!?」


「はい」


エルネスタは、あっさりと答えた。


「殿下と結婚するより、慰謝料をいただいて自由になるほうが、わたくしにとっては幸福です」


ヴィルヘルムは、完全に言葉を失った。


エルネスタは書類を差し出した。


「こちらにご署名を」


「……」


「婚約破棄の合意書です」


「……」


「賠償金の支払いに関する書類もございます」


「……」


「殿下?」


ヴィルヘルムは、震える手でペンを受け取った。


そして、署名した。


エルネスタは書類を受け取ると、丁寧に礼をした。


「ありがとうございます」


「……」


「それでは、失礼いたします」


エルネスタは大広間を出ていった。


その背中を、ヴィルヘルムは呆然と見つめていた。


翌日。


王宮の財務官が、王太子の執務室を訪れた。


「殿下。昨日の婚約破棄に関する賠償金について、ご報告がございます」


「……何だ」


「殿下の個人資産では不足しております」


「……」


「王家の予算から補填することも可能ですが、国王陛下の許可が必要です」


「……」


「なお、陛下はすでに書類をご確認されております」


ヴィルヘルムは、顔を上げた。


「父上は何と?」


財務官は、淡々と答えた。


「『自分で婚約破棄を宣言したのだから、自分で責任を取れ』とのことです」


「……」


「それから、陛下より伝言がございます」


「……何だ」


財務官は、深々と頭を下げた。


「『王太子としての自覚がない者に、王太子の地位を与えておく必要はない』とのことでございます」


ヴィルヘルムは、立ち上がった。


「……待て」


「はい」


「父上は、何をおっしゃった?」


「王太子の地位について、再考されるとのことでございます」


「……」


ヴィルヘルムは、椅子に座り込んだ。


その日の午後。


エルネスタのもとに、王宮から一通の手紙が届いた。


差出人は、ヴィルヘルム。


手紙には、こう書かれていた。


『エルネスタ。婚約破棄を撤回したい』


エルネスタは、手紙を読み終えると、侍女に尋ねた。


「この手紙、返送できますか?」


「はい。どのようにお返しいたしましょう?」


エルネスタは少し考えた。


「受取拒否で」


「かしこまりました」


侍女が手紙を持っていく。


エルネスタは窓の外を眺めた。


今日は天気がいい。


婚約破棄の手続きも終わった。


賠償金も支払われる予定だ。


そして何より。


「……自由ですわね」


エルネスタは、満足そうに微笑んだ。


一方、王宮では。


ヴィルヘルムが、返送された手紙を握りしめていた。


「……受取拒否だと?」


財務官が、静かに答えた。


「はい」


「なぜだ!」


「……おそらく、殿下との婚約を継続する意思がないためかと」


「……」


ヴィルヘルムは、机に突っ伏した。


そして、数日後。


彼は王太子の地位を失った。


なお、エルネスタはその後、侯爵家の領地で悠々自適に暮らした。


彼女が王宮に戻ることは、二度となかった。

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