婚約破棄の慰謝料は、王太子殿下の全財産でよろしいですか?
「エルネスタ・ローデン! お前との婚約を破棄する!」
王太子ヴィルヘルムの声が、王宮の大広間に響き渡った。
夜会に集まった貴族たちが、一斉にこちらを向く。
エルネスタは手にしていたグラスを置いた。
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄の件、承知いたしました」
ヴィルヘルムは眉をひそめた。
「お前、今なんと言った?」
「承知いたしました、と」
「泣かないのか?」
「なぜですか?」
「なぜって……」
ヴィルヘルムは言葉に詰まった。
彼は、エルネスタが泣き崩れると思っていた。
自分に縋りつき、婚約破棄を撤回するよう懇願すると思っていた。
そうなれば、彼女に最後の慈悲を与えるつもりだった。
だが、エルネスタは落ち着いた様子で扇を閉じた。
「殿下。婚約破棄の理由をお伺いしても?」
「お前が傲慢だからだ!」
「具体的には?」
「リリアーヌに嫌がらせをした!」
ヴィルヘルムの隣に立つ伯爵令嬢リリアーヌが、怯えたように肩を震わせた。
「わ、わたくし……エルネスタ様に、何度も冷たい言葉をかけられました……」
「ほう」
エルネスタはリリアーヌを見た。
「いつ、どこで、どのような言葉を?」
「えっ……」
「日時と場所をお教えください。記録を確認いたします」
「そ、それは……」
「記録がなければ、証言でも構いません。目撃者は?」
リリアーヌは口を閉じた。
ヴィルヘルムが声を荒らげる。
「お前は何をしている! 彼女を責めるな!」
「責めてはおりません。事実確認をしているだけです」
「そんなものは必要ない!」
「では、証拠もなく婚約破棄をなさるのですか?」
「私は王太子だ!」
エルネスタは、静かに頷いた。
「なるほど」
そして、懐から一枚の書類を取り出した。
「では、こちらをご確認ください」
「何だ、それは」
「婚約破棄に伴う損害賠償請求書です」
「……は?」
「婚約破棄の原因が殿下の一方的な判断である場合、婚約に伴って発生した費用、侯爵家が負担した教育費、社交活動に必要な費用などについて、請求できる可能性がございます」
「待て!」
「こちらは、婚約破棄の理由に関する証拠がない場合の追加請求分です」
「追加だと!?」
「はい」
エルネスタは書類を一枚めくった。
「こちらが、婚約破棄を公衆の面前で宣言されたことによる名誉毀損分」
さらに一枚。
「こちらが、婚約破棄に伴う侯爵家の損失分」
さらに一枚。
「こちらが、殿下の発言によって発生した王家への信用失墜に関する損害分」
ヴィルヘルムの顔が、徐々に青ざめていく。
「……いくらだ」
「総額で、殿下の個人資産を上回ります」
「何だと!?」
「ご安心ください。王家に請求する分は別途計算しております」
「安心できるか!」
エルネスタは首を傾げた。
「では、婚約破棄を撤回なさいますか?」
「……!」
ヴィルヘルムは、すぐに答えられなかった。
撤回すれば、貴族たちの前で自分の言葉を覆すことになる。
だが、婚約破棄を進めれば、莫大な賠償金が発生する。
彼はリリアーヌを見た。
リリアーヌは、そっと一歩下がった。
「……リリアーヌ?」
「殿下。わたくし、そんなに大きな問題になるとは思っておりませんでした」
「お前が嫌がらせを受けたと言ったのだろう!」
「ですが、慰謝料を払うのは殿下ですもの……」
「……!」
ヴィルヘルムは、エルネスタを振り返った。
「お前は……私を脅しているのか?」
「いいえ。婚約破棄に伴う手続きをご説明しているだけです」
「……」
「殿下が婚約破棄を望まれるのであれば、わたくしは喜んで応じます」
エルネスタは、微笑んだ。
「ただし、責任はお取りくださいませ」
その言葉に、広間の貴族たちが頷いた。
ヴィルヘルムは、顔を真っ赤にした。
「……分かった!」
彼は勢いよく書類を掴んだ。
「婚約破棄は撤回する!」
エルネスタは、首を傾げた。
「それは困りますわ」
「なぜだ!」
「わたくし、すでに婚約破棄を承諾しておりますので」
「……は?」
「婚約を継続する意思はございません」
「お前が婚約破棄を望んでいたというのか!?」
「はい」
エルネスタは、あっさりと答えた。
「殿下と結婚するより、慰謝料をいただいて自由になるほうが、わたくしにとっては幸福です」
ヴィルヘルムは、完全に言葉を失った。
エルネスタは書類を差し出した。
「こちらにご署名を」
「……」
「婚約破棄の合意書です」
「……」
「賠償金の支払いに関する書類もございます」
「……」
「殿下?」
ヴィルヘルムは、震える手でペンを受け取った。
そして、署名した。
エルネスタは書類を受け取ると、丁寧に礼をした。
「ありがとうございます」
「……」
「それでは、失礼いたします」
エルネスタは大広間を出ていった。
その背中を、ヴィルヘルムは呆然と見つめていた。
翌日。
王宮の財務官が、王太子の執務室を訪れた。
「殿下。昨日の婚約破棄に関する賠償金について、ご報告がございます」
「……何だ」
「殿下の個人資産では不足しております」
「……」
「王家の予算から補填することも可能ですが、国王陛下の許可が必要です」
「……」
「なお、陛下はすでに書類をご確認されております」
ヴィルヘルムは、顔を上げた。
「父上は何と?」
財務官は、淡々と答えた。
「『自分で婚約破棄を宣言したのだから、自分で責任を取れ』とのことです」
「……」
「それから、陛下より伝言がございます」
「……何だ」
財務官は、深々と頭を下げた。
「『王太子としての自覚がない者に、王太子の地位を与えておく必要はない』とのことでございます」
ヴィルヘルムは、立ち上がった。
「……待て」
「はい」
「父上は、何をおっしゃった?」
「王太子の地位について、再考されるとのことでございます」
「……」
ヴィルヘルムは、椅子に座り込んだ。
その日の午後。
エルネスタのもとに、王宮から一通の手紙が届いた。
差出人は、ヴィルヘルム。
手紙には、こう書かれていた。
『エルネスタ。婚約破棄を撤回したい』
エルネスタは、手紙を読み終えると、侍女に尋ねた。
「この手紙、返送できますか?」
「はい。どのようにお返しいたしましょう?」
エルネスタは少し考えた。
「受取拒否で」
「かしこまりました」
侍女が手紙を持っていく。
エルネスタは窓の外を眺めた。
今日は天気がいい。
婚約破棄の手続きも終わった。
賠償金も支払われる予定だ。
そして何より。
「……自由ですわね」
エルネスタは、満足そうに微笑んだ。
一方、王宮では。
ヴィルヘルムが、返送された手紙を握りしめていた。
「……受取拒否だと?」
財務官が、静かに答えた。
「はい」
「なぜだ!」
「……おそらく、殿下との婚約を継続する意思がないためかと」
「……」
ヴィルヘルムは、机に突っ伏した。
そして、数日後。
彼は王太子の地位を失った。
なお、エルネスタはその後、侯爵家の領地で悠々自適に暮らした。
彼女が王宮に戻ることは、二度となかった。




