小さな世界に僕しかいない
規則的な電子音が、無機質な病室に響き続けている。
ベッドの中央で眠る少年の頭部には、銀色に鈍く光るデバイスが装着されていた。
最新鋭のブレイン・マシン・インターフェース。
意識を取り戻さない昏睡患者の脳を直接ネットワークに接続し、仮想空間での生活を可能にする画期的な技術だった。
しかし、少年の意識がその『空間』に現れることはなかった。
「……もう、手の打ちようがありません」
白衣を着た医師が、重苦しい沈黙を破って告げた。
あらゆる周波数帯を探り、最新のパッチを当て、システムの再構築すら試みた。
だが、少年の意識データはどこにも接続されていない。
まるで、暗闇の底へ沈み込んだまま、完全にロストしてしまったかのように。
「そんな……嘘ですよね? この装置があれば、あの子はまた目を覚ますって……」
お母さんが縋り付くように泣き崩れる。
お父さんもまた、血の滲むような力で拳を握りしめ、ただ立ち尽くすしかなかった。
誰の声も届かない。
少年はただ、静かな寝息を立てているだけだった。
まぶたを開けると、視界のすべてが白に染まっていた。
天井も、壁も、床もない。
上も下もわからない、果てしなく続く純白の空間。
僕はゆっくりと身を起こした。
体が軽い。
ずっと眠っていたはずなのに、どこにも痛みや気怠さはなかった。
見渡しても、誰もいなかった。
ただ一つ、僕から少し離れた場所に、黒い石柱のような端末がポツンと浮かんでいるだけだった。
「なんで誰もいないの?」
僕がぽつりと呟いた、その時だった。
『みんな終わってしまったんだよ』
耳からではなく、頭の中に直接、静かで透き通った声が響いた。
驚いて端末を見つめるが、スピーカーらしきものはない。
ただ、表面に微かな光の波紋が広がっているだけだった。
「君は一人?」
『私は人ではない。一人とは言わない』
感情の起伏がない、凪いだ海のような声だった。
「ここは何?」
『彼らが作った世界』
「彼ら?」
『もういない』
「なんでいないの」
『それだけの時が過ぎた』
僕の小さな問いに、声は淡々と答えていく。
その言葉は僕の理解を超えていたが、なぜか不思議と怖さはなかった。
端末の表面から、ふわりと光の球体が浮かび上がった。
覗き込むと、その中には無数の星々が渦巻き、小さな星がゆっくりと回転しているのが見えた。
広大な宇宙が、手のひらサイズの球体の中に収まっている。
『彼らが作った世界を、私はずっと見守っている』
「寂しくない?」
『そんなに時間はかからない』
声は、やはり静かなまま答えた。
僕はその意味を深くは追及しなかった。
「そっか」
誰の悲しみも、誰の喜びも、すべてはこの小さな光の中にあるのだと、ぼんやりと思った。
「僕はお家に帰りたいな」
『どうして帰りたい』
「どうしてって、お父さんとお母さんが待ってるから」
『私は、その情報を保持していない』
「ほじって、なに」
『私に君の家はわからない』
声がそう答えると、目の前の小さな宇宙が少しだけ大きくなった。
『探しなさい』
僕が見たいと念じると、その場所が大きくズームアップされた。
お父さんとお母さんの笑顔を思い出す。
無数の星々を巡っていく。
氷に閉ざされた星。
激しい風が吹き荒れる星。
乾いた岩ばかりの星。
でも、人のいる星はどこにもない。
「僕の家はどこ? お父さんは? お母さんは?」
『高度な知的生命体が住む星は、そんなに多くない』
宇宙が凄まじい速度で動き始め、そしてピタリと止まった。
視界を大きくしてみる。
そこには確かに生き物がいた。
だけど、どう見ても人間には見えなかった。
「全然違う」
『そうか』
また宇宙が動き始める。
何度も、何度も繰り返した。
そして、ようやく見つけた。
家も、歩いている人も、僕と同じだ。
でも、言葉も風景も外国みたいで、自分の住んでいた街ではなかった。
探して、探して、探したけれど、見つからない。
「いない、いないよ」
『このタイプの生命体が住むのは、ここだけだ』
「僕のお家は探せないの?」
『探せる』
「え、それなら探してよ!」
『その情報探索は、新しくエネルギーを使用する』
「できないってこと?」
『できる。だが、推奨しない』
「すいしょう? よくわかんないけど、お願い、やってよ」
『わかった』
光の宇宙が静止した。
『君の情報を取得した。検索を始める』
宇宙が明滅を始める。
『この時代には存在しない。情報に基づき、過去へと遡る』
宇宙が激しく動き始め、光の渦が逆流していく。
『確定した』
宇宙がまたもとに戻り、一つの青い星が大きく映し出された。
「あ、僕の家だ!」
見覚えのある家のドアが開き、中から人が出てくる。
「あ、お父さんだ。お母さんも……えっ、僕もいる」
『君がまだ存在している時間だ』
「僕はあそこに帰りたい」
『今はやるべきではない』
「どうして?」
『君がここに来る前の時間だから、上書きすることは推奨されない』
「僕は、帰れないの……?」
もう一人の僕が車に乗り込み、どこかへ出かけていくのが見えた。
「あ!」
交差点。
大きなトラックが猛スピードで突っ込んできた。
激しい衝突の衝撃。
僕だけがフロントガラスを突き破り、車の外へと放り出される。
「僕は、死んだの?」
『正確には、君は生きている』
星の時間が少しだけ早回しになる。
たどり着いたのは、無機質な病室。
たくさんの管や線に繋がれて、死んでいるように眠る僕自身がいた。
「生きてるの?」
『強制的に呼吸をさせて、生存を維持している』
「どういうこと……」
『生きている、ということだ』
「あそこに帰れる?」
『帰っても、もう意識は戻らない』
「じゃあ、やっぱり死んだんだ」
涙が出そうになる。
『いずれ、全て死ぬ』
「それでも……帰りたい」
『時間を戻して、強制的に上書きすることはできる』
「じゃあ、それをやってよ!」
『やっても意味がない』
「お願い!」
急に、白い空間が消え去った。
気がつくと、僕は家から出たところだった。
戻ったんだ。
「遊園地、楽しみか?」
お父さんが笑いかけてくる。
僕は嬉しそうに頷く。
「楽しみね」と、お母さんも声をあげる。
僕は知っている。
車に乗ってはいけないと。
なのに、体は勝手に動いて、車に乗り込んでしまう。
『楽しみだな、遊園地!』
ああ、だめなのに。
僕の体は、何かに操られるように後部座席ではしゃいでいる。
そうだ、せめてシートベルトをつけておけば。
頭ではそう警告しているのに、僕はただ嬉しそうに話すだけだった。
変えられない。
『やはり、意味がなかっただろう』
気がつくと、またあの白い場所に立っていた。
「うん……変えられないの?」
『全て決まっている』
「僕は『乗っちゃだめだ』って考えたのに!」
『始まれば終わりは一つ、そう作られている』
「どういう意味?」
『変わらない、ということだ』
「じゃあ、僕はどうしたらいいの……」
『わからない』
ふいに、純白だった空間が少し暗くなった。
「暗くなったよ?」
『もうエネルギーがない』
「なんで……」
『私の役目も終わりだ』
「待って!」
『終わらぬ文明も、上の世界も存在も確認できなか……』
空間は、完全に漆黒へと染まった。
僕は叫び、混乱し、泣き叫んだ。
何もない空間を、あてどなく歩き回る。
あの黒い石柱を探して、闇の中で手を伸ばした。
でも、何も触れられなかった。
そこでようやく分かった。
僕には、体なんかなかったのだと。
僕みたいに、誰かここに来ることがあるんだろうか。
何もない闇の中に、ただ一つ。
目の前でキラキラと光る、小さな星の球体だけが浮かんでいた。
僕は静かに、その世界を見つめ続けた。
黒く、果てしない空間の中で。
『小さな世界には僕しかいない』




