夏、約束
君は、いつからあるのかわからない古い小屋の軒下に置かれたベンチに腰を下ろしていた。ベンチの背には「アイスクリーム」と、右から左へ読む古びた文字が剥げかけている。君は僕の方を見て、下唇を指先で軽く押さえていた。
言いたいことがあるんだろう。でも、君はそれを抑えようとしている。僕も、それ以上聞きたくはなかった。君も辛いだろうし、聞けば、きっと止める言葉が出てこなくなるから。
ベンチがきしんで、君が急に立ち上がった。僕も反射的に、君の方に顔を向ける。
「海って、ひとつしかないんだよ」
突拍子もない言葉に、僕は思わず苦笑した。いつもの君の悪い癖だ。
「日本海とか、オホーツクとか……何個もあるでしょ」
「確かに、海域とか名前とか、区切りは付けられてるよ。でも、それでも海はひとつに繋がっているだろう。人間、死んだら海に還るんだ。たった一つの、この海に。」
君の声は静かだった。でも、その静けさが、胸の奥をざわつかせる。君はまた下唇に指を当て、名残惜しそうにゆっくりと手を腰に落とした。まるで、何かを掴もうとして、指の間からこぼれ落ちる砂みたいに。
「いちばん綺麗なんだ、海って。清らかで、透き通ってて、穢れもない」
そこで言葉が途切れた。君の瞳の奥に、遠い水平線みたいなものが浮かんでいる気がした。僕は嫌な予感に喉が詰まって、咄嗟に口を挟んだ。
「僕も、そうなりたい。ならなきゃいけない。でもなれない。…だから僕は」
「お前は綺麗だよ」
遮ってた。分からないけど、続きが聞きたくなかった。
「お前は、海はひとつしかないって言うけど」
続きを言ったら、この関係が壊れる気がして。
話を変えるように、一度目を逸らした。
君は少し目を細めて、微笑んだような、悲しんだような表情をした。
無意識に、僕の手が細い手首に伸びる。
「今度、海に行こう。絶対、絶対。」




