第33話:秘術書
悪魔は、天を衝くような凄まじい雄叫びを上げ、崩れ去った。その依代となっていたラミレスと共に、巨躯は灰となって風に舞う。
後に残されたのは、かつての親友が身に纏っていた古びたローブだけだった。
「ラミレス……」
「はぁっ、はぁっ……! ベルクートさん、終わった……んですか?」
レノアは肩で激しく息をしながら問いかける。その顔は憔悴しきっていた。
「ああ……」
ベルクートがラミレスの遺品であるローブを捲ると、その下から一冊の書物が滑り落ちた。
「これが、秘術書か……?」
ベルクートは、まるで何かに引き寄せられるように、無意識に手を伸ばした。
「ベルクートさん! 触ってはダメです!」
レノアの鋭い制止に、ベルクートはハッとして手を引っ込める。だが、その瞬間――。
『どうした……手に取るのだ。ベルクートよ……』
地の底から響くような、おぞましくも甘美な声が聞こえた。
「誰だ!?」
「ベルクートさん……?」
レノアは怪訝そうな顔をしている。どうやら、その声は呪われた鎧を纏うベルクートにしか届いていないようだった。
『我を手に取るがいい。お前に、かつての栄光を超える「力」と「知恵」を与えよう。望みはすべて叶うのだ……』
書物から漏れ出る瘴気が、ベルクートの甲冑に宿った数多の魂を刺激する。内側から一斉に、悲痛な叫びが爆発した。
『ここから出して!』『助けて!』『苦しい……!』
耳を塞いでも無駄だった。声は己の魂に直接突き刺さる。
『お前が愛したものたちも、すべて甦らせることができる。さあ……我を手に取るのだ』
「愛したもの……」
脳裏に、今は亡き父、婚約者、そして笑い合っていた部下たちの笑顔が、鮮烈な映像となって甦る。手を伸ばせば、あの幸せな日々を、失われた王国を再建できるのだ。
『我が「器」よ……何を恐れる? お前は偉大なる英雄、ベルクートだろう?』
「俺は……ベルクートだ……」
朦朧とした意識のまま、再び書物に手を伸ばす。
「ベルクートさ……っ! ……っ!」
レノアは叫ぼうとしたが、突如として声が奪われた。身体もまた、見えない金縛りにあったかのように動かない。秘術書が放つ魔力が、彼女を拒絶していた。
ついに、ベルクートの指が秘術書を拾い上げた。
『そうだ……それでいい』
「秘術書……」
震える手で、禁忌の頁を開こうとし――。
ベルクートの動きが、ぴたりと止まった。
『どうした? ベルクートよ』
「……俺は、ベルクートだ」
力強い呟き。ベルクートは本を開くのをやめ、そのまま周囲で燃え盛る炎のそばへと歩み寄ると、秘術書を高く掲げた。
『何をする……? 早まるな! 皆が甦るのだぞ! 燃やしてしまえば、何も残らんのだぞ!?』
「――それでいい」
ベルクートは躊躇なく、炎の中へ秘術書を投げ入れた。
その瞬間、書物の中から数多の、しかし一つに重なり合った呪詛の叫びが上がる。
『おのれ……おのれ、ベルクートォォォッ!!』
秘術書は燃え上がりながら、意志を持つかのように中空へ浮かび上がった。
ベルクートは最後の一力を振り絞り、退魔の剣を振り下ろした。
――パキンッ。
高い音と共に、限界を迎えていた退魔の剣に大きな亀裂が走り、半ばから静かに折れた。
折れた剣先と共に、真っ二つに裂かれた秘術書は再び激しい炎の中へと落ち、今度こそ音もなく灰に変わっていった。




