第26話:ドラゴン 後編
レノアは、張り詰めた空気の中で不安に押し潰されそうになっていた。
先ほどからベルクートは一切の攻撃を止め、ただ回避に徹している。
呪いの進行か、それとも目に見えない深手負っているのか――。ラミレスの介入さえ疑い、彼女の指先は恐怖で震えていた。
一方、ベルクートの意識は、冷徹なまでに研ぎ澄まされていた。
軽業師のような身のこなしでドラゴンの猛攻を躱しながら、己の肉体と対話する。
――まだ、六割。
手の痺れは鈍い感覚から、焼けるような痛みへと変質していた。
――まだ、殺せない。
その時、好機が訪れた。
ドラゴンの凶悪な噛みつきを潜り抜けた先。そこには、獲物を逃した苛立ちに濁るドラゴンの巨大な右目が、眼前に剥き出しになっていた。
痺れを思考から切り離し、ベルクートは地を蹴った。
退魔の剣が、吸い込まれるようにドラゴンの右目を深く貫く。
ドラゴンは狂乱の悲鳴を上げ、視界を失った痛みから周囲に無差別に火を吐き散らした。
ベルクートはその爆炎に紛れて死角へと退くと、素早くバッグから包帯を引っ張り出した。感覚のない右手に柄を押し当て、そのまま手首ごと剣をきつく、何重にも縛り付ける。
――いける。
もはや指の握力に頼る必要はない。剣は己の腕の一部と化した。
ドラゴンが暴れ回る間、ベルクートは冷静に距離を取り、嵐が過ぎ去るのを待った。
やがて動きが鈍くなった一瞬、彼は再び影となって迫る。
狙うは一点。先ほどつけた胸の小さな傷。
針の穴に糸を通すような正確さで、ベルクートは全体重を乗せた一撃を突き入れた。
退魔の剣が根元まで肉を割り、心臓を捉える。ベルクートはそれを無慈悲に捻り、一気に引き抜いた。
ドクン、と巨躯が大きく脈打ち、次の瞬間、滝のような血飛沫と共にドラゴンが地響きを立てて崩れ落ちた。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……!」
「ベルクートさん! 凄い……本当に、剣だけで……!」
駆け寄ったレノアは、血に濡れたベルクートの手のひらを見て息を呑んだ。破れた皮膚、剥き出しの肉。勝負が、彼女の想像を絶するほど拮抗した死闘であったことを思い知らされる。
レノアは震える手で傷薬を取り出し、丁寧に応急処置を始めた。
「ありがとう。……レノア、すまないが右手の包帯を解いてくれないか? さすがにキツすぎて痛いんだ」
ベルクートは少しだけ困ったように笑い、剣と一体化していた右手を差し出した。英雄の顔から、一人の戦士の顔へと戻っていた。




