第16話:慈愛の巨人
その時、森の木々を揺らす地響きが聞こえてきた。巨人だ。
剣士は、鉛のように重い身体で天を仰いだ。
――この痺れた身体で、巨人と戦わねばならないのか。
その絶望的な予感は、魔力を使い果たしたレノアも同じだった。
「このタイミングで……なんてこと……」
「ラプタ……様……」
足元で事切れたエルフが、最期にその名を呟いた。
巨人の名か、あるいは誰か人の名か。だが、剣士はその響きに、胸を締め付けられるような懐かしさを覚えた。
現れた巨人は、これまでの個体とは明らかに違っていた。
しなやかな四肢、静かで穏やかな足取り。女の姿を模したようなその巨躯からは、驚くべきことに一切の敵意が感じられない。
巨人の肌に刻まれた古代の紋様は、その「掌」に集まり、淡い光を放っていた。
呆気にとられている二人の前で、巨人は跪き、そっと指先で剣士の身体に触れた。
その瞬間、全身を支配していた毒の痺れが、嘘のように消え去っていく。
「……解毒してくれたのか?」
驚く剣士に対し、巨人は静かに自らの掌を差し出した。そこには、弱点であるはずの魔法陣が刻まれている。
まるで「斬れ」と、自ら最期を望んでいるかのように。
混乱と戸惑いの中、剣士は躊躇いがちに、しかし確かな一撃でその魔法陣を切り裂いた。
巨人は抵抗することなく、砂の城が崩れるようにたちまち灰へと帰していく。
浮き上がった魂が、剣士の胸へと吸い込まれた。
ドクン――!!
これまでにないほど強く、心臓が跳ねた。
記憶の奔流が、堰を切ったように脳内へ流れ込む。
それは、一人の美しいエルフの女性との記憶だった。
名を、ラプタ。
種族の壁を超え、共に過ごしたかけがえのない婚約者。
記憶の中の剣士は、彼女の指に銀の指輪をはめていた。
『……綺麗。ありがとう』
二人で過ごした、他愛もない日々の記憶。
木漏れ日の下で笑い転げ、ただ一緒にいるだけで心が弾んだ、あの「楽しかった」時間。
内側から溢れ出すような「楽」の感情が、剣士の心を温かく満たしていく。
だが、その平穏は一瞬にして地獄へと塗り替えられた。
『……あなたは逃げて!!』
叫びと共に、愛する人の身体が歪み、巨大な異形へと変貌していく絶望。
あの巨人は、間違いなくラプタだったのだ。
「剣士さん。……何か、思い出しましたか?」
レノアが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ああ。この巨人は、俺の婚約者だった」
「そうですか……。あんなに優しくしてくれたんですもの。きっと、とても素敵な人だったんですね」
エルフの遺した言葉のおかげで、ラプタの名は思い出せた。
しかし、肝心の「自分の名」を思い出そうとすると、意識の深淵に急激な霞がかかり、どうしてもその輪郭を掴むことができない。
自分は何者なのか。最も楽しかった時間を共にした人を自らの手で葬り、その魂を喰らってまで生き永らえる自分に、どんな名があったというのか。
剣士は、灰だけが残された静かな森で、取り戻した「楽」の記憶の余韻に浸りながら、もどかしさに拳を握りしめていた。




