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??謬の物語  作者: 筆折れ餓鬼太郎
第一部 エルロンワルツ
5/6

1-1-5

「ヒヨリ!準備はできた?」


 私はお気に入りの編み上げサンダルのひもを結び直し、傍らに立つアカリを見た。


「うん、大丈夫」

「よし、じゃあ行くよ」


 アカリが私に手を差し伸べる。私が彼女の手を握ると、彼女は私を強く引き上げた。


「新調したスカートはどう?」

「ちょっと歩きにくいけど、問題ないよ」


 久しく足を通しておらず少し埃をかぶっていた私のロングスカートを、お母さんに頼んで特別仕様に仕立て直してもらったのだ。

 左右の脇に足を通す筒を作り、間の布は糸の密度が高い裏生地を追加して補強してある。飛んでいる間に足を開けば、鳥の尾羽の様に広がって空気を掴んでくれる、はず。



 聖痕を授かって三週間。

 私は今日、もう一度、空に挑む。



「……でも、いいのかな。私たちだけで練習して」

「仕方ないじゃない。大人たちはみんな忙しくて、ぜんぜん時間が取れないんだから」

「アカリは誰かに見て貰わなかったの?」

「私の場合は、『翼を得る魔術』と『空気を操る魔術』を別々に見て貰ってはいたけど、飛ぶところはまだ一回しか見てもらってないよ?」

「そうなんだ……」


 近頃、村の大人たちは妙に忙しくしていた。

 そのせいで、まったくと言っていい程に私の飛行練習は成果が出ていない。結局しびれを切らした私たちは、自分達だけで練習することを決めたのだ。


「ま、何かあったら私が拾うから。安心してっ!」


 尻すぼみになった私を励ますようにアカリが私の背中を叩いた。


「ありがとう。やれるだけ、やってみる」

「その意気。それじゃ、上で待ってるね」


 アカリは『翼を得る魔術』を再び展開し、白と黒の羽を残して大空に舞い上がった。彼女の技倆はこの二週間で大きく成長してて、はじめは覚束なかった旋回も今はお手のものになっている。

 片や私と言えば、『空気を操る魔術』が未だにちっとも使えないままだった。聖痕の右翼も空白のままらしくて、改善する見込みは無かった。


 それでも、いつまでもアカリを地上から見上げるばかりではいられなかった。

 私は今日、アカリの隣に並んで見せる。

 

「それじゃ、行くよ!」


 優雅に空を飛ぶアカリに、私は声を張り手を振って合図を出した。

 頭上のアカリは私を一瞥すると、翼を巧みに操り小さく左右に二回バンクを刻むことで、私の声に応じた。鳥の民が集団飛行で用いる“了解”の合図だ。言葉ではなく、敢えて空を飛ぶ者の合図で答えたのだ。



 彼女の挑発に負けじと気合を入れ直し、体内の魔力に意識を向ける。前回よりも魔力操作の練度も上げたし、ちゃんと休んだから魔力量も十分ある。

 体内に魔力を巡らせ、聖痕に刻まれた魔術を展開して両腕を翼に変化させる。その翼を大きく広げ、空気を掴む感覚を確認した。悪くない感触だった。

 私やアカリを含めた鳥の民の翼は、見た目こそ大きいものの殆ど羽なので実際はそこまで重くない。それに、『翼を得る魔術』によって翼を支える筋力も強化されているのだ。


 一度胸に()を当てて、深呼吸をする。


 少し怖い。でも大丈夫。

 お父さんの背に乗せてもらったりしながら、改良スカートで空気を掴むための練習もしてきた。ある程度の速度を維持すれば、このスカートが尾羽の代わりになってくれる事は確かだ。


 再び翼を開き、少し腰を落として精一杯に羽ばたき始めた。翼が空気の塊を捉えることで、少しずつ足にかかる体重が軽くなってゆく。

 両足が地面から離れる直前に、私は大きく踏み切って跳躍する。それによってより多くの風を翼が掴み、私の身体は加速しながら上昇していった。



 周囲の樹冠を超え、空で待っていたアカリも超えて、その上の空へ。


 森の木々の三倍くらいの高さまで昇ったとき、私は上昇を止めて滞空に移った。これ以上高さを稼いだら、堕ちた時に無事では済まない。


 無事に滞空に移った私を見て、高度を上げながらアカリが飛来した。

 私と同じ高さにまで来た彼女は、そのまま私の周囲を旋回し始めた。


「おまたせ」


 私はアカリに言い放った。

 しかしアカリは不敵な笑みを浮かべて口を開いた。


「まだまだ、それじゃスタートラインにも立ってないんじゃない?」

「ふん、今に見てろ」

「いつでもどうぞ!」


 私は両足を広げ、アカリを置き去りにして地面に向かって飛び込んだ。

 高さを下げて速さを稼ぐためだ。十分な速さがないと、私の改良スカートは機能しない。


 風切り音が増し、風が眼を打って思わず目を細めた。

 ……まだだ。

 

 狭まった視界の中で、周囲の地面を殆どを覆った木々の天辺がみるみる近づいてくる。

 ……まだ、もう少し。

 ……

 …



 ……今だ!


「ふんぬっ」


 気合で背中と太ももに精一杯力を込めた。

 大きく反り返った脚の間のスカートが、空気を掴んで私の身体を引き起こし始める。同時に足にかかる重さが急激に増して、思わず歯を食いしばった。

 

 真っ逆さまの軌道が傾き始めて、ゆっくりと水平に近づいてゆく。



 でも、まだ足りない。まだ落ちている。

 

 もう木々の天辺まで僅か、片手の長さほどしかない。

 木々の先の葉っぱの形すらはっきり見えてきた。いくつかの枝が私を掠めていく。

 

 不味い、一個でも引っかかったら失速だ。


 無我夢中で翼を動かす。もっと加速させる。

 動かし続けていた両腕が少し重くなり、息が上がってきた。


 それでも、軌道が上がらない。 

 木々に遮られた暗闇の先で、死神が覗いた気がした。


 やっぱり足りないのか。これっぽっちの工夫じゃ飛べないのか。


 


 そう思った瞬間だった。


 


 突然、木々が遠ざかり始めた。

 視界の端で、木の葉が舞っている。


 

 向かい風だ。



 両腕の翼が、体にかかる空気の重さが、私に吹いた幸運の正体を教えてくれている。


「いいよ!ヒヨリ!そのまま!」


 私の後方から、やや上擦ったアカリの声が聞こえる。


「うん!」


 この機を逃すまいと、さらに羽ばたき加速する。


 死神が息を潜めたかのように、森の木々の切れ間が曖昧になっていった。やがて連綿と続く緑の絨毯に変化して、つま先の方へ流れていく。


「やった!」


 思わず声を上げた。飛べている。



「前!顔上げて!」


 下を見てばかりの私に、アカリが呼びかけた。

 その声にはっとして、私は視線を上げた。

 


 

――広い。そして、遠い。


 視界の上半分を占める淡い青空には幾つかの雲が浮かび、下半分の緑の海に幾つかの影を落としている。地平線は霞がかってぼやけているが、遥か彼方には虹色に色づいた山々が見える。

 

 羽ばたき続ける私の右翼の先を、一羽の鳶が掠めて行った。

 私を誘う様に頭上を往復し、太陽の方へと昇っていく。



 



「……ヒヨリ!ヒヨリっ! そのまま旋回して!これ以上村からは離れられないよ!」


 後方からアカリの声が微かに聞こえて我に返った。いつの間にか飛び過ぎていたみたいだ。

 

 聞こえたアカリの声の大きさからして、彼女とはかなり離れている。返事をしてもアカリに届かないと思った私は体を捻り、先ほどアカリが見せた様に左右の翼を振って合図を出した。

 


 右に旋回しよう。そう思った途端に、何をどうすればいいかが何となくわかった。


 一呼吸置いてから右翼を地面に向けるように少し下へ捻り、それと同時に左足を少し下へ、右足を少し上へ捻った

 体に当たる風の向きがやや左寄りに変わり、体が右に傾き(ロールし)始める。

 

 ある程度傾いたところで、今度は右の翼を少しだけ上に捻り、左の翼を僅かに下に向けてロールを止めた。

 

 目の前の景色が傾いた独楽の様にゆっくりと廻り始めている。

 周囲の木々が、遠くに見える大きな湖が、地平線と山々がゆっくりと流れていく。双子の山が、虹色に色付いた渇きの山脈が、その手前に見える砂漠が、遠くにポツンと見える都市の城壁が、右端から現れては左端へ消えていく。

 この翼でも、今見えているすべてに飛んで行ける。それが分かって胸が熱くなった。




「ヒヨリ、遅くなってる!」


 アカリの警告と同時に、体に感じていた風の圧力が弱まっていたことに気付いた。旋回中は満足に羽ばたけていなかったせいか、速度が落ちていた。

 

 私は加速に移る前に旋回を止めようとして、右の翼を上に、左の翼を下に捻った。

 ……後から思えば、それが間違いだった。でも、この時は知る由もなかった。





 


「へ?」


 突然、右腕の翼にかかる力がストンと()()()


 瞬く間に水平線が上がり、視界の左上の方に消える。視界が緑一色になる。


「なに?なんで!?どうして!!?」


 左の翼だけが背中の方に摘み上げられて、強引に引きずり回されているみたいだ。

 

 制御できない。頭が滅茶苦茶に揺れる。視界が回る。

 狭まる視界の中で、森の先端が迫ってきた。





「ヒヨリ!羽ばたいて!今行く!」


 アカリの声が聞こえた。一瞬だけ、視界の端に彼女が見えた。


 彼女の言葉を信じて遮二無二羽ばたいた。でも、止まらない。

 先ほどまで力強く私の体を支えていた右の翼からは、いくつも羽が散るばかりだった。




「掴まって、ヒヨリ!」


 墜落する私の目の前に、突然アカリの影が飛び込んできた。私はとっさに両腕の翼で彼女の腰にしがみ付いた。

 アカリは私に巻き込まれる形で縺れるように何度か回転したものの、私を引っ提げて上昇してみせた。



 早鐘を打つ心臓を押さえつけ得ながら、アカリを見上げた。


「あ、ありがとう。助かった……」

「とは、言えないかも」


 私の言葉を否定する様にアカリは零した。よく見れば、一度上昇したはずの私たちの身体がじわじわと地面に近づいている。

 私がアカリにぶら下がっているせいで、彼女は満足に翼で体を支えられないみたいだ。


――私が跳び降りた方がいいかな……?


 そう思って彼女の顔を脇から覗くと、目が合った。額には玉のような汗が浮かんでいるのが見える。


「今からもう一回飛べる?」


 アカリが尋ねた。


 私は再び下を確認したが、飛ぶのは無理そうだった。

 それに翼があっても、この高さでは普通に落ちるのと変わらない。


ジャンプする(跳び下りる)だけなら……」

飛行できない(飛び上がれない)ならやめて。バランスが崩れるから、せめて私が言うまでは離れないでね」

「あっはい」


 見透かされたようで、少し気まずくなった。しかしアカリは黙り込んだ私に特に何も言う事なく、一転して降下を始めた。


「降りるよ」

「やる前に言ってぇぇぇぇ!」


 森の木々の隙間を縫って、地面へと降下する。行く手を阻む木々を巧みに躱しつつ、アカリが叫んだ。

 

「私が合図したら翼を放して地面に降りて!」

「わ、わかった!」


 地面すれすれに近づいたとき、彼女は更に魔力を振り絞り、翼を駆使して急減速した。


「いま!」


 彼女の掛け声に合わせ、私はアカリの腰に回した翼を開いて飛び降りた。

 そのまま数回地面を転がった後、出っ張った木の根に何度もぶつけながらも、私の身体は何とか止まった。



 私はすぐに体を起こし、揺れる視界の中でアカリを探した。打ち付けた額から血が流れたせいで、左目に入って目が開けなくなった。

 それでも、茂みの奥にアカリの翼の先端が飛び出ているのが見えた。


「アカリ!」


 左腕を右手で抑え、痛む足を引きずりながら、彼女の下に駆け寄った。


「アカリ!返事して!」


 しかし彼女は返事をしなかった。


「アカリ!」


 私は茂みをかき分けながら、彼女の下にたどり着いた。


 彼女は目を瞑り、浅く息をしていた。

 胴体や足には目立った怪我はない。




 ただ、アカリの左の翼には折れた枝が突き刺さり、流れた血が白い羽を赤く染めていた。

 

「アカリ!しっかりして!」


 声を掛けながら彼女の体を抱え起こした。

 彼女の両腕が光に包まれ、人間のカタチに戻る。しかし依然として彼女の左腕には枝が突き刺さったままで、血が薬指を伝って滴っている。


 私は解れかかっていたスカートの裾を裂いた。そうしてできた布切れをアカリの傷口に巻きつけ、刺さった枝ごとそのまま縛って止血した。


「”ぅっ……ヒヨリ?平気?」


 痛みに呻いたアカリが目を開いた。


「私は大丈夫、でもアカリが……」

「私も、大丈夫。痛むのは腕だけだから。少し休めば、歩けると思う」


 私の言葉を遮りながら、アカリが答えた。


「ごめん、私なんかに付き合わせたせいで、こんな目に」

「だから、平気だって」

「でも……」


 視線が宙を彷徨った。掛ける言葉が見つからない。


「言うのは、『ありがとう』にして……って、自分で言うのも変だけど」


 ぱっとアカリを見た。彼女は右手で頬を掻きながら俯いていた。


「ありがとう」


 アカリがゆっくりと私を見上げた。

 桜色の唇がゆっくり弧を描いた。


「こっちこそ、ありがとね」

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