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願いのカタチ

作者: 明家叶依

「ただいま」と言うと「おかえり」と玄関の奥から返事が聞こえてくる。


 それを言うのは母親でもなく、父親でもない。生まれた時からパートナーとして一緒にいるロボットの女の子だ。両親がいない訳ではない。一緒に暮らしているし、夜には帰って来る。けれど、そんな両親よりも一緒にいるロボット『イチコ』のことを僕は家族だと思っていた。


 座って靴を脱いでいると、近づいてくる足音が聞こえ、隣でその音は消える。かがんで鞄を両手で持ち上げていた。


「あと三日だけど、決まったの?」


 玄関タイルの土汚れを見つめたまま僕は首を振る。早く何か頼まないといけないのはわかっているけれど、何も思いつかない。脱いだ靴を揃え、日が沈んで暗くなった廊下を歩き、階段を上って自室に向かった。


 体育の授業で汚れたジャージを床に落とすと、乾いた泥がパラパラと散らばる。それをロボットのイチコは文句の一つも言わないで、当たり前のようにちりとりと箒で集めてゴミ箱に捨て、洗濯物を持って部屋を出て行った。


 ロボットと一言で言っても姿形は人間そのものだ。だからか、自分で汚した掃除をしてくれるのは気が引ける。十五年一緒にいても慣れなかった。


 洗濯機にジャージを入れてスイッチを押し、また僕の部屋に戻ってきた。


 背中まで伸びた髪は彼女がここに来てから何の変わりもない。一緒に食事をしているのに身長も体重も、顔の造形も変わらない。自分ばかりが成長していき、背丈も追い越した。変化するものは服くらいだ。最初は抵抗していたらしいが、母が買ってきた物を次第に着るようになっていた。今も白いスウェットに黒のマキシスカートを着こなしている。


 暑さも寒さも感じないイチコだが、一応季節に合わせた服を着ている。三月という少し寒い春先にぴったりな服装だ。


 そのイチコとも、あと三日の付き合いなのだ……。


 僕たち子供には生まれた時からロボット、僕で言うイチコなのだが、一人世話役として国から支給される。子供の才能を見出すため、子供の頭脳を伸ばすため、親が忙しい家庭で料理を振る舞うため、様々な理由がある。子供はロボットに一つだけ願い事を言う権利があった。叶えられる範囲でなら。


 そして、その期限である十五歳になった年の三月も、もう終わりを迎えようとしていた。


「早く決めないと、私、何もしてあげられないよ」


 三月二十八日の今日。あと三日しかないのに今さら何をお願いすればいいのやら僕にはわからなかった。


 ベッドに寝ころがって漫画を読む僕の近くの椅子に座って、ただ、隣にいてくれるだけで満足だ。けれど、それももう終わり。


 友達は自身の学力向上を頼んだり、部活動でレギュラーになるための特訓を頼んだりしていた。中には同い年なのに料理人顔負けの技術を会得している人もいた。皆、自分の技能を高めることに必死になっていた。


 わざと寝返りを打ってイチコの方を見ると、彼女は僕がお小遣いで買ってあげた小説をじっくりと読んでいた。長く見ていたからか目が合う。すると、口角を少し上げてにっこりと笑った。

 僕もまた、漫画に視線を戻す。


「お願い事をするのがそんなに大事かね」


 ふてくされた子供のような発言をしてしまった。


 持っていた文庫本を閉じる音が聞こえた。


「ううん。別にないならいいの……でも、そうなると私は何のためにいるんだろうってたまに思っちゃって」


 顔を見ていなくても彼女の辛そうな顔が浮かんできた。


 換気のために開けていた窓を閉めたからか、部屋の温度もだんだんと上がってきて頬が熱い。漫画を置いて両手を団扇代わりにして仰ぐ程には部屋は暖かかった。


 願い事がないわけではない。もちろんあるさ。


「だったら、これから先も僕と一緒にいてよ……大人になっても」


 布団の上で正座をし、イチコの目を見ていた。短距離走をした後くらい脈拍が速くなっている。

 これが僕の最大の願いだった。


 何かを極めるにしても、何かを求めるにしても、彼女なしの人生なんて考えられなかったから。

 けれど、返ってきた言葉は僕の欲しいものではなかった。


「ごめんなさい。やっぱりそれは無理なの。私のバッテリーはあと三日で尽きる、それはもう十五年前から決まっていた事であって私にはどうすることもできない……ごめんなさい」


 諭すように、僕を優しく見つめて言った。

 ロボットといえど、彼女にも心はある。


 別れ、という感情に加えて寂しさも備わっている。だからこそ、辛いのはこちら側だけではないのだ。それも生きていく為の、大切な人との時間にはリミットがあるという事への耐性を付ける訓練だったとしても……。


 僕はそんな別れが来て欲しくはなかった。


 つらさに耐えられる大人になんてなりたくない。辛いときは泣いて、嬉しいときにはしっかりと喜ぶ。最近の友達は遠い未来に手にする実績ばかりを気にしていて楽しそうには見えない。甘えだって事はわかっている。一時の感情に流されている事だって。でも、それでも……。


 布団を握った手は体力測定を行ったら自己新記録をたたき出せるかも知れない。


 作り笑いでこちらを見つめる彼女に対して、視線を逸らしてしまった。だって、あまりにも切ない表情で僕のことを見てくるから。こんなことなら、一人の家族として思わなければ良かったのか。


 ベッドから降りて首を振る。


 そんな事はない。そんな事は望んでいないはずだ。僕よりも彼女の方が不安だろう。僕にはこの先、まだ長く生きるかも知れない。けれど、充電が切れた彼女の行き先は? 一体どうなるっていうんだ。廃棄か? それとも記憶をリセットされて別の人の家に行くのか? どちらを想像しても不快な気分になるだけだった。


「今日中に決めてもらわないと、本当に私はあなたに何もできないまま「さようなら」をしてしまいそう」


 と彼女の笑い声が背後から聞こえてきた。


 他意がない事はわかっている。悪気がないことも。でも、彼女の発言一つ一つに苛立ちを感じていた。


 何でそんな風に笑っていられるんだ。寂しくないのか。

 だから、嫌みを含めてこんなことを言ってしまったのかも知れない。


「だったら、君の代わりに僕に愛情をくれる人を見つけてきてよ」


 低く、月の照らす冬の寒空のように冷えた声音が部屋に響いた。


 僕は冗談のつもりで言ったのだが、イチコは本気にしてしまったみたいで、部屋から出て行こうとする。その手を掴んで引き留めようと思ったが、伸ばそうとしてやめた。もどかしく細かな動きをする左手の指先は自分のものかと疑った。


 イチコが出かけてから一時間は経った。


 漫画なんて集中して読めるはずもなく、刻一刻とタイムリミットを告げるを刻む秒針に耳を澄ませ、チラリと窓の隙間から外を眺めた。上空を横切る飛行機が残す細長い線のような雲はどこか儚く感じて嫌だった。


 早く帰ってきてほしい……。

 頬杖をついてふと、そんな事を思う。


 時間だってあまり残されていないというのに、どうしてこんなに長い時間出かけていられるんだ。もう夕方じゃないか。沈んでいく夕日は後少しで今日はさようならだ。もうすぐ夜が来る。一人で迎える夜は……嫌だなあ。


 持っていた漫画を横に置き、布団の上で丸くなり、目を閉じる。明日や明後日に笑っている自分を想像しようとしたが、難しかった。


 体を揺すられ、瞼をゆっくりと開くと母親が目の前にいる。いつの間にか眠ってしまっていたみたいで、窓の外の街灯はしっかりと地面を照らして仕事を全うしていた。イチコが起こしに来ないと言うことは、まだ帰ってきていない、と言っているようなものだ。


「母さんが小さい頃にもイチコみたいなロボットがいたんでしょ?」


 体だけ起こし、母親の方に体を向けて言った。


「いたけれど、それがどうかしたの?」


 掛け布団の隅と隅を合わせ、丁寧にたたみながら懐かしそうに言う。


「寂しくなかったの? 別れの時」


 聞くと、顎に手を当て、考えるように斜め上を見てからこちらに視線を向けた。


「やっぱり寂しいわよ、だって離ればなれになってしまうでしょう? 辛くないわけないじゃない。今でも彼女と過ごした日々は鮮明に思い出すことはできるわ。友達とは違った、また特別な関係……。一言では表せないわね」


 母は、窓を開けて遠くを眺めていた。それは遠くの建物を見ているのか、遠い過去を思い浮かべているのかはわからない。外気に触れるとすぐに窓を閉じて扉の方へと歩いて行き「ご飯冷めちゃうから、早めに来てね」と言って部屋を出て行った。少なくとも振り向いた母の顔には寂しいという思いはなさそうに見えた。


 十二時を過ぎた頃にイチコが帰って来たのに気づいたのは、眠れなくて起きていたからだ。消灯時間が十時で二時間は暗闇の状態で過ごしていたと言うことになる。玄関の戸が開いたのと、母の「おかえり」の声量が大きく、ここまで聞こえてきた。音がしないように自室の扉を開き、階段の上から様子をうかがう。


「遅くなってすみません」


 イチコは申し訳なさそうに謝罪していた。


 深刻そうな声音とは裏腹に、母は「そんなの良いわよ、何かあったんでしょ?」と気さくに話しかけ、リビングへ向かった音が聞こえた。ドアを閉めたからかこれ以上会話の内容はわからない。


 ひとまず、帰ってきてくれた安心感からか睡魔が僕を襲う。僕はそのまま自室のベッドに倒れ込むように眠った。


 翌る日、休日だからか誰も起こしてくれず、十時頃に自然と目が覚めた。普段ならイチコが起こしてくれるのだが、やけに家の中が静かで気味が悪かった。


 台所に行くとフレンチトーストやサラダ、それと置き手紙があった。イチコの字だった。


 『起こしてあげられなくてすみません。朝一で出かけてきます

  朝食は温めて食べて下さい。お母様とお父様は二人で近場の

  温泉に行くと言っていて二日ほど家を空けるそうです。私も

  すぐに帰る予定ではありますが、どうなるかはまだわかりま

  せん。新しい学校のパンフレットでも見て高校生になった自

  分でも想像をしていると一日が早く過ぎるかも知れません。

  ちなみに、今日のフレンチトーストは過去で一番の力作でき

  っと美味しいです。出来たてが食べさせてあげられなくて『

  残念』とがっかりしているイチコより』


 書いているときの表情が容易に想像できた。きっと自信作のフレンチトーストの部分を書いているときは首を揺らして鼻歌でも唄っていたのだろう。


 置き手紙を読みながら皿をレンジに入れた。数十秒で温まり、取り出したフレンチトーストからは少し湯気が立っている。それをキッチンで立ったままフォークで突き刺し、牛乳を飲みながら食べていた。……美味しいな。


 二人はまた旅行か。休みが合えば頻繁に二人で出かけている。別に放任主義という訳でもない。三人で行くこともあるし。大概は僕が「行かない」と断っているのが原因だ。ただ、イチコがもうすぐいなくなってしまうというのに、どうして出かけていられるのだろうか。イチコはイチコで家にいないし。


 誰もいない静かなリビングには苛立ちながら朝食にかぶりつく咀嚼音だけが異様に響く。


 書かれていたとおり、新たに行く高校のパンフレットを読んでいたが、始まって数ページ、部活動紹介の辺りで読むのをやめた。今さら何かを極めようとしたって、遅いのだ……。皆は小さい頃からイチコのようなロボットにお願いをして一つのレベルを高めてきている。それに対して僕は何もしていない。


 パンフレットを閉じてテレビを付けたけれど、いつもと変わらない日常が嫌ですぐに電源ボタンを押した。


 その後夕方まで寝て、起きてもイチコはいなかったが、また朝のような置き手紙と夕食が準備されていた。僕はまた朝同様温めて食べた。味噌汁は温かいはずなのに、どうしてか満たされている気がしなかった。


 いつも斜め前に座っているイチコの存在は、思っていた以上に大きい事に改めて気づき、彼女がいなくなってしまった未来を想像するだけでまた、胸が痛んだ。食事が喉を通りそうになく、焼き魚は半分だけ食べて冷蔵庫に入れた。


 次に顔を合わせたのは、最終日の朝だった。


 一緒に外を歩かないかと誘われ、言われるがままに数歩後ろをついていった。彼女は普段と変わらないように見える。自分だけが辛いのかと、そう感じるだけで余計に辛くなる。この過ごした時間は彼女にとってはそこまで大切な物ではなかった……ということなのだろうか。


 急にイチコが立ち止まり、後ろを歩く僕も自然と歩く足を止めた。


 近所のコンビニを通り過ぎ、家電量販店前の信号機が赤になったから止まったのだった。小さな小石を蹴っていたから気がつかなかった。その小石がコロコロと転がり、彼女の靴のかかとにぶつかった。


 イチコは僕の方に振り向く。いつも、不注意ばかりで怒られていた。今日も叱られるのだと、拳に力が入った。視線が重なるのを避け、斜め下に目を向けた。最後の日にまでこんな話をしたくない。その気持ちが表に出ていた。けれど、いつまで経っても何も言ってこない。不思議に感じ、顔を上げて彼女を見ると、表情をくしゃくしゃにしながら溢れてくる涙を堪えているイチコの姿があった。雨の始まりのように一滴、また一滴と地面のコンクリートに黒く色を付け、その度に手の甲で、袖で拭っていた。


「ごめんなさい。私、あなたのお願いを叶えられそうにないの……」


 お願い……何ていつしたのかと一瞬悩んだが、数日前に言ったのを思い出した。あの時は咄嗟に出てしまったし、冗談と捉えてくれているのだと思っていた。けれど、それならば彼女がいない数日間にも納得できた。


「あなたが親しくしている友人の方達に頼みに行こうと自宅まで行ったのだけれど、どうしてもインターホンが押せなかった。基本的にお願い事は叶えてあげるのが規則なのはわかってた。でも、やっぱり無理。きっと、仮に頼みに言って承諾してくれたとしても本当の愛情を受け取ることはできない、どうしてもその答えに行き着くの。本当の愛情は人が仲介するようなものではなく、その人自身が決めることだと、私は思った。私たちが過ごした十五年間のように。そりゃあ、楽しいことばかりじゃないし、お節介な事も言って嫌な顔もされた。でも、それを含めて愛情なの。表向きだけ優しく笑っている偽りなものは多分誰も幸せにならない」


 彼女が言い終わった頃、青になっていた信号がまた変わりそうになった。車の運転手が渡るのか渡らないのかとチラチラと見てきたから一度その場から離れた。ひびの入った石の階段に二人で並んで座った。立て替えられた建物郡に挟まれている。こういった、昔の名残がなぜだか心に染みた。


 申し訳ない、といった表情で歪な小石を見つめているイチコに、僕はなんて声をかければ良いのかがわからなかった。何年も一緒に過ごしてきたというのに、こんな終わり方なんて嫌だった。理由は違えど、それはきっとイチコも同じだろう。僕が初めて言ったお願い事を完遂せずに離ればなれになってしまうということなのだから。


 彼女にとって幸せな終わり方。


 僕にとっても最高な終わり。


 隣に座って空を見つめ、しばし考えていた。右やら左やらにせわしなく動く鳥の群れが飛んでいる。彼らもまた、今を生きているのだと思った。でも、彼らには別れの感情があるのだろうかと疑問に思った。携帯なんてない鳥の世界で迷子にでもなったらそれはそれで別れ、弱肉強食で食べられてしまっても別れ……。何を考えているのかは僕にはわからない。


 鳥たちは毎日同じように飛び、群れて生活している。それは一見単調でつまらないと昨日までの僕なら言っていただろうけれど、今はそんな事思えなかった。むしろ、羨ましい。いつまでも、いつまでも寿命がある限り、一緒にいられるのではないかと。鳥の生態系なんて知らない。あくまで僕個人の考え方だ。逆に鳥は人間を羨ましいと思っているかも知れない。持っていない物ほど欲しくなる。持っていると大切な物でも当たり前になってしまう。


 それに、いなくなるというのがわかっているのが悲しい。


 大切なパートナーのような存在のイチコがいなくなるというのは、考えられない。それ以降の生活が想像できない。矛盾している。自分でも今何を考えているのかがわからない。でたらめな感情に押しつぶされてしまいそうだった。何か考えていないとこっちまで涙が伝染しそうだ。適当な事を考えよう……。


 今日の夕食は何だろうか。ハンバーグが良いな。僕はハンバーグが大好きなんだ、イチコが作ってくれるハンバーグ、が。……こんな思考はやめだ。夕食の事はいったん置いておこう。そういえば、漫画の新刊が出るのが近かったな、僕が読んでいるとイチコが隣から覗いてきて、その後結局貸してあげるんだよな……。結末を知らないまま、お別れなのか。駄目だ駄目だ。もっと楽しいことを考えるんだ。


 明日の昼ご飯、新学期、新しい学校、味噌汁の出汁……。何でもいい。今、この苦しい感情に絆創膏を貼れるような、そんな……そんな。


「涙、うつしちゃったね」


「別に、そうじゃない。風邪じゃないんだからうつらない」


 僕の瞳からこぼれ落ちる透明な雫は太ももに落ち、じわじわと染み込み、地肌を濡らす。


「ごめんね……帰ろっか」


 立ち上がったイチコは僕に手を差し伸べる。


 僕は彼女の手をしばらく見つめ、もう一度地面を見る。


「帰りたくない」


 欲しいおもちゃを買ってもらえずにだだをこねる子供のような声色。


 そう言うと、イチコは座る。


「なら、帰りたくなるまで一緒にいようか。どこか行く?」


 僕は頷いた。


 どこかへ行く、と言っても中学生の行動範囲なんてほとんど限られていたけれど、別に場所なんてどこでも良かったんだ。近所のショッピングモールでも、映画館でも、公園でも。


 映画を見終わり、ショッピングモールから出たらすっかり辺りは暗い。まん丸い月も、散らばった星々も、雲のせいで見えなかった。


 公園に立ち寄って二人で歩いているとイチコが言う。


「そろそろ帰る?」


「そうだね……そろそろ、帰ろうかな」


 公園の出口付近の横断歩道で立ち止まり、止まってくれた車に会釈をしてから渡った。


 沈黙が生まれ、それを壊したのは自分だった。


「お願い事決まったよ」


「なになに? 何にしたの?」


 僕の目の前に顔をひょっこりと出して前屈みになっている。イチコは普段しっかりしているけれど、無邪気なところもある。


「内緒だよ」


「えー! それだと意味ないよ」


「別に良いんだよ」


「気になるなあ……」


「まあ、『イチコはイチコのままでいてほしい』これを最後のお願いにするよ」


 笑いながらイチコが「それでいいならいいけど……本当のほうは教えてくれなさそうだし」と言う。


 帰り道、僕は心の中でお願い事をした。これは別に何かをして欲しいとかそういうのではない。単純に、こうあればいいと願って。誰に叶えて貰いたいわけでもない。神様が記憶の片隅にでも留めておいてくれる事を祈って。


 次の日の朝、寝室で動かなくなっているイチコを見つけた。充電が切れてしまったのだ。ピクリとも動かない。朝の「おはよう」も、怒ったときの怒号も聞くことができない。彼女はもういないのだ、目の前にいてもいないのだ。でも、辛いのは僕だけじゃない。前日の夜、部屋で一人泣いていたのを僕は知っている。薄い壁を隔てて泣いていたのを。辛いのは僕だけじゃない。


 イチコを迎えに来たのは一人で朝食を食べているときだった。慣れているのか段取りよく、イチコを包装し、箱の中へとつめていく。その光景を見ていると複雑な気持ちだった。傷を付けないようにと慎重に黒服の二人組は丁寧に触れていた。それには同感だった。


 他にも何件か回るのか、リムジンに同じような箱がいくつも並べられていた。


 黒服の人達は挨拶をして車に乗ろうとしたが、僕は思わず引き留めてしまい、怪訝そうにこちらを見る。


「あの、イチ……彼女はどうなるんですか?」


「彼女? ……ああ」


 そういってイチコの入った箱を一瞥し、僕に向き直る。


「また、別の子供の所へと派遣されるようになっているよ。すまないが記憶は消させて貰うけどね」


 黒服の男はポケットに入れていた手を出す。持っていたタバコを一本取りだして咥えた。


「君がどういう想像をしているかはわからないが、悲惨な終わりは迎えない事は保証するよ、例えば、廃棄になったりとかね。稀な事だから安心するといい」


「そう……ですか、良かったです」


「無理だと思うが、あまり感情移入はしない方が良い。君の人生はまだまだ長いんだ、一人のロボットの事なんて、ってそんな顔しないでくれ、まだ話は途中だろ……。忘れろなんて言わないさ、ただ、彼女も後ろを向きながら辿る人生よりも、しっかりと前を見て走る君が見たいと思うだろ」


 男は吸い殻をポケット灰皿に押しつぶして笑った。


「じゃあな少年。一生懸命考えろ」


 そう言い残して車に乗り、発進させた。


 僕は車をいつまでも見つめ、曲がり角を曲がって見えなくなっても、その場に立ち尽くしていた。


「そんな決意、既に昨日の間に済ませたわ……」


 つい、口からこぼれ出た。とてもとても小さな独り言だった。


 そして神様に忘れられないようにもう一度お願い事をした。


『イチコがまたどこかで、元気に笑っていられますように』と。

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