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モノノ学校

作者: 元転生者の僕です。

僕らはモノの痛みを知らなかった。

 使い込まれた木製の机の上。鉛筆の走る音と、時折響く消しゴムの摩擦音。佐倉 湊だけが、その音の裏に潜む、押し殺された嘆きを聴いていた。


「いやだ……また、削られる……!」


湊は顔をしかめた。筆箱の中で、消しゴムが細かく震えているように見える。灰色と白がまだらに混じった小さな塊は、まるで長い時間をかけて染み付いた悲しみのようにくすんでいた。表面には無数の傷跡が走り、角は丸まり、それはまるで、小さな命が耐え忍んできた苦痛の年輪のようだった。


湊には、物に宿る声が聞こえるようになった。つい最近から、新品の鉛筆が放つ清々しい喜び、使い込まれたノートが漏らす溜息、少しでも曲がると不満を訴える定規。様々な感情が、絶えず彼の耳に囁きかけてきた。中でも、ひときわ大きく、そして痛ましい叫びを上げるのが、この消しゴムだった。


湊にとって、それはただの文房具ではない。削られるたびに聞こえる悲鳴は、まるで自分の皮膚が薄く剥がされるような、耐え難い苦痛を訴えているようだった。失われた小さな破片たちは、二度と戻らない。湊は、その光景を想像するだけで、胸が締め付けられた。


今日の授業中も、隣の席の男子が、難しい問題に苛立ちながら、何度も強く消しゴムでノートを擦っていた。その粗雑な振動が、湊の筆箱の中のモノにも容赦なく伝わる。


「やめて……お願いだから、もう少し優しく……!」


消しゴムの悲痛な叫びが、湊の頭の中で木霊する。周囲の喧騒が遠のき、聞こえるのはその小さな命の悲鳴だけだ。彼は授業に集中できず、ただただ、その小さな存在の痛みに心を痛めていた。他の生徒たちには聞こえない、自分だけの秘密の苦しみ。時折、その能力を持て余し、孤独を感じることもあった。


放課後、湊は誰もいない教室の隅で、そっと筆箱から消しゴムを取り出した。それは、以前よりも明らかに小さくなっている。表面の黒ずんだ部分は増え、新たな削り跡が生々しい傷跡のように見えた。湊は、指先で震えるそれをそっと撫でた。


「大丈夫か?」


湊が囁くように問いかけると、消しゴムから、か細く震える声が返ってきた。「湊……ありがとう……でも、怖いよ。明日も、また……」


「明日から、もっと丁寧に使うよ……」


湊はそう約束したものの、具体的な方法は何一つ思い浮かばなかった。彼はただの人間で、消しゴムの痛みを感じとることはできても、それを直接的に癒すことはできない。その無力さが、彼の胸に重くのしかかった。


その夜、湊は悪夢を見た。巨大な手が現れ、無数の小さな消しゴムたちを掴み上げ、無慈悲に握りつぶしていく。逃げ惑う小さな声、断末魔の叫び。そして、巨大な口が開き、無数の消しゴムたちが、抵抗する間もなく飲み込まれていく。


「やめてくれ! 僕の消しゴムを返して!」


湊は夢の中で必死に叫んだが、その声は虚しく消え去った。彼は、ただただ、小さな命が踏みにじられていく光景を、無力に見ていることしかできなかった。朝目覚めた時、湊の心には鉛のような重さが残っていた。


翌日、湊はいつも以上に神経質になっていた。授業中、隣の男子が消しゴムに手を伸ばすたびに、心臓が跳ね上がった。隣の男子は消しゴムを使おうとしたが、なにかに気づいて使うのをやめた。


 放課後、湊が一人教室に残って課題に取り組んでいると、廊下から大きな音が聞こえてきた。


ドスン! ガラガラガラ……


何事かと扉を開けると、廊下に大量の文房具が散乱していた。どうやら、誰かが誤ってなにかを倒してしまったようだ。


その中に、ひときわ大きな、まるで灰色がかった岩のようなモノがあった。それは、消しゴムよりもずっと大きく、表面は無数の傷で覆われていた。長年、誰にも顧みられなかった物特有の、重く沈んだ空気が漂っている。


その巨大なモノからは、言葉にならない、澱んだような、諦念にも似た感情が、湊の心に流れ込んでくるように感じられた。それは、喜びや悲しみといった単純なものではなく、もっと深く、もっと重い、長い年月の中で積み重なった無数の記憶の断片のようなものだった。


(これが……モノの姿……?)


湊は、その巨大なモノに近づいた。表面には、まるで縋り付くように、無数の小さな消しゴムの破片が貼り付いている。それは、忘れ去られた時間の堆積のようにも見えた。


その時、一人の教師が慌てた様子で駆け込んできた。「一体どうしたんだ!」


散乱した文房具を見て、教師は苦笑した。「ああ、これは美術部の備品だな。ずいぶん古いものもあるぞ」


教師は、その巨大なモノを重そうに持ち上げ、湊に見せた。「これはね、昔の生徒が作った石膏の塊なんだ。長年、色々なものがぶつかって、こんなになっちゃったんだな」


湊は、目の前の石膏を呆然と見つめた。無数の傷は、本当にただの物理的な損傷だったのか。感じ取った重苦しすぎる感情は、ただの錯覚だったのか。

しかし、確かに感じた、ありえないほどの深い嘆きのようなものを……


その時、ふと自分の筆箱の中にいる消しゴムが、小さく確かに呟いた。


「あんな風にはなりたくない……あんなに、ボロボロになるまで……忘れ去られるなんて……」


それは学生たちが無意識に与える小さな傷、もしかしたら何の躊躇もなく捨てられるかもしれないという拭いきれない不安。石膏は、それらを静かに耐え忍んでいる。表面に開けられた小さな穴を見るたび、湊はそこに、言葉にならない静かな悲しみを感じた。それは、まるで乾いてしまった涙の跡のように見えた。削られるたびに感じる痛みは、まるで自分にとって大切な存在が傷つけられるのを見ているようで、湊の胸を締め付けた。


湊は、改めて自分の消しゴムをそっと握りしめた。表面の小さな穴は、確かに微かな痛みを訴えているように見えた。それは、他の誰かにとっては取るに足らない小さな傷でも、この消しゴムにとっては、かけがえのない一部を失う、耐え難い苦痛なのだ。


「もう大丈夫だ」


湊は、心の中でそっと語りかけた。「僕が、最後まで一緒にいるから。君の声が聞こえるのは僕だけかもしれないけれど、僕は決して君を見捨てない」


その日から、湊は自分の消しゴムを以前にも増して大切にするようになった。不必要に削ることはなく、汚れないように丁寧にケースに入れ、時々優しく指で撫でた。他の文房具たちにも、以前より少しだけ優しく接するようになった。彼らもまた、それぞれの想いを抱えているのかもしれないと、そう思うようになったからだ。


消しゴムの声は、以前よりも穏やかになったように感じた。まだ時折、小さな悲鳴を上げることもあるけれど、それは以前のような絶望的な響きではなく、ほんの少しの希望を宿した、静かな声だった。


湊は、これからもずっと、モノの声に耳を傾け続けるだろう。それは彼にしか聞こえない一種の苦痛であり、彼だけが理解できる楽しみでもあり、小さな命たちの叫びを受け止め、寄り添い合うというモノと人間を結ぶ、一つの約束だ。そして、その小さな声に耳を傾けることで、湊自身もまた、少しずつ成長していくのだろう。他のモノの痛みに寄り添うことの意味を、彼は静かに学び続けていくのだ。

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