拝啓、私のマフィンを奪った伯爵令息様。一生許しませんのでよろしくお願いします。
煌びやかなシャンデリアの光に華やかな管弦楽の調べ。そして最高の料理とお酒。王家が主催した今夜の夜会は、社交シーズンに突入し最初の夜会ということもあり、出席者もかなりの数だった。
夜会はいわば出会いの場でもある。若い出席者は自分が選ばれるよう、そして気に入ってもらえるよう普段以上に気合を入れる。しかし多くの出席者の中でひときわ目を引く令嬢がいた。それが“私”ことレモニア・ラ・メルセウェーズ公爵令嬢である。
透き通るような白金色の髪。紫みのある青い瞳は夜空を映したよう。まるで「月の女神のようだ」と称賛される美貌。公爵家に生まれたおかげで身分も申し分ない。最高の家庭教師の教育を受け、幅広い分野の知識も身に着けている。いわゆるハイスぺック女子なのだが、そのおかげで私の周りには男女問わず人が良く集まる。
「レモニア様、次は私がご挨拶させていただいてよろしいですか?」
「まあ、お久しぶりね。そういえば先日婚約なさったと聞いたわ。おめでとう」
「えぇっ! 一度お会いしただけの私のことを覚えていてくださったのですか?」
そう言って令嬢は感激の眼差しで私を見つめてくる。こんな風に私は人当たりも抜群。
「レモニア嬢、次回の夜会ではぜひ僕にエスコートさせていただけませんか」
「嬉しいお誘いですが、兄と父が何と言うか……」
「そ、そうですか。ならまた機会がありましたら、ぜひ……」
もちろん私と縁を結びたいと考える男性も多い。けれど私は自分が納得できる相手じゃなければ結婚しないと父に宣言している。生涯添い遂げる相手は自分で選びたい。
貴族に生まれた以上、政略結婚は避けられないと思っていたが、過去に「結婚するならお父様やお兄様のような方じゃなければ嫌」と言ったら、父と兄が求婚者たちをどんどん追い払ってくれるようになった。直接の誘いにも二人の名を出せば、大概の男性は引き下がる。そのせいで難攻不落の公爵令嬢とまで言われるようになったのは、まったくありがたいことである。
そんな感じではあるがやはり公爵家との縁は皆が望むところらしい。今夜も私の周りには人だかりが絶えない。
――しかし、だ!
今日の私には目的があった。それがあれだ。料理が並んだテーブルの片隅。色とりどりのスイーツの中で肩身狭そうに残っている茶色いあの子――マフィン(プレーン味)だ。
幼い頃から私はマフィンが大好きだった。自らの手でマフィンを作りたいがばかりに、こっそりと侍女と調理場に忍び込んだこともある。
地味な外見にどっしり安定したフォルムは、繊細な技巧で飾られたスイーツと比べれば華が無いのは確か。
しかし手を伸ばさずにはいられない香ばしさ。焼き上がりのふかふか食感は埋もれて眠りたいほど。すぐにパサついてしまうのは残念だが、ジャムやクリームを乗せればじゅんわり浸み込み、パサつきすら魅力に変えられる柔軟さも持ち合わせている。ちなみに私は王都のマフィンはほぼすべて制覇している。おすすめを教えてほしいというのなら、その人の好みに合わせて選んであげられるだろう。
しかしそれほどまでに私がマフィンが大好きなことを私の家族以外知る者はいない。もし知られれば、私の興味を引きたい人々が街のマフィンを買い占めてしまうだろうから……。人々が皆、マフィンを楽しめる世であってほしい。それが私の願いだ。
それはそうとして、そんな私が今狙っているのは、会の最初から置かれていたマフィン。今夜何も口にしていない私にとって、残ったマフィンが光り輝いて見える。
あの子は周りのスイーツ皿がどんどん変えられていく中でも残り続け、ようやく最後の一個になったいじらしい子なのだ。何度か皿を持って近づいたものの、その度に誰かしらに声をかけられてしまい諦めざるを得なかった。
だがようやく好機到来。
楽団が今夜最後の円舞曲を演奏するということで、皆踊る相手を探しに動き始めた。ちなみに父と兄の名を出しまくっているせいで、今夜の夜会で私を誘おうという人はもういないはずだ。
皆、広間の中央に向かい始めたおかげで料理のテーブルの周りに空間が生まれた。
今だわ! あのはぐれマフィンをこの手に!
ついでに給仕に声をかけて果実茶を淹れてもらおう。ほのかな甘みの果実茶と一緒に口に含んで、ほろほろと崩れるマフィンを楽しめるはず――私はそう信じて、疑いすらしなかった。その瞬間までは。
「あ」
思わず声が出た。
皿の後ろからぬっと伸びて来た長い腕。その手にはトング。トングの先はマフィンに向かっている。
「~~~っ!」
や、止めて~~~!
私は声にならぬ叫びをあげながら、歩みを早めた。
しかし現実は残酷。トングはただ一つ残っていたマフィンをつかんでいった。
取られた。
私のマフィン。いや正確には私のものではないが、私がどうしても食べたかったマフィン。私は愕然と立ちすくみ、空いた皿を見つめることしかできずにいた。
「あ、ああ……」
けれどいくら見つめていても空っぽの皿にマフィンが湧き出ることなどあり得ない。私は気を取り直して伸びて来た手の主の姿を追った。いったい誰だ! 私が食べたかったマフィンを横取りしていったのは……!
テーブルの向こうにいたのは栗毛の青年だった。
だいたいの貴族の顔と名前は一致している私が初めて見る顔だった。背が高く、丸い目は髪と同じ色。柔らかな顔立ちはどこか大型犬のような雰囲気の青年だ。
青年の手の中のマフィンはすでに半分ほど姿を消していた。凝視している私に気づくことなく、青年はむしゃむしゃとマフィンを食べ進める。やはりパサつきが気になったのだろう。クリームと、おまけにジャムまでたっぷり乗せて、嬉しそうに大きな口で――
「――私が食べたかったのに!」
帰りの馬車の中、私は侍女のメルバに泣きながら訴えていた。結局私は会が終わるまで何も口に出来ず、空腹レベルは頂点に達していた。空っぽのお腹はぐうぐうと悲鳴を上げている。
「くやしいわ……。メルバ、私くやしくて仕方ありませんわ」
「泣くほどの事ではありませんでしょう? 明日にでも料理長に頼みましょう」
次々こぼれてくる涙をぬぐいながら、私はメルバに叫んだ。
「違うのよ! あのマフィンじゃないと意味がないの。あの男、絶対私を飢え死にさせてやろうと思っていたはずよ!」
メルバは呆れ顔でため息を吐く。
「お嬢様だけのマフィンではありませんでしょう? その方も同じようにマフィンがお好きだったのかもしれませんよ。それにお嬢様はメルセウェーズ公爵家の令嬢なのですよ。たかがマフィン一つで子どもっぽい癇癪を起こす方だと知られたら、周囲の家々に顔が立ちません。もう少し大人になって――」
「『たかがマフィン一つ』ですって!?」
諫めるようなメルバの言葉を遮り、私はさらに声を荒げた。
「食べ物の恨みに身分は関係ないでしょう! あれは多分、私に食べられるために残っていた最後の一個だったのよ。それなのに、それなのに……」
子どもっぽいと言われようが、公爵令嬢として相応しくないと言われようが、そんなものどうでもいい。食べ物の恨みは深いのだ。それに私が睨み続けているにも関わらず、その視線に気づかずマフィンをおいしそうに頬張る青年を許せるわけないだろう。
「あの男、許せないわ」
私のマフィンを奪った名も知らぬ青年。絶対に調べ尽くし、この恨みを果たしてやる。
私はきつく唇を噛んだ。
◇
王家に次ぐ権威を持つ公爵家にとって、人ひとりの素性を調べるなど造作もないこと。マフィンを奪った青年の素性はすぐに割れた。
「マディエッセ伯爵令息フィオリド。北方に小さな領地を与えられている家の嫡男です。特産は天然氷と川魚。しかし現当主が五年前に詐欺被害に遭い、現在は税の納入も滞り気味だとか。つまり没落寸前ということです」
メルバの淡々とした報告に私は思わず笑いが漏れる。
「うふふ、なるほどね。援助を頼めそうな結婚相手を探しに田舎から出て来たってわけだったのね」
「しかしいまだに結婚相手は見つかっていない様子です」
「いい気味よ。私のマフィンを奪うような男ですもの。領地としても結婚相手としても何の魅力もないじゃない」
私がマフィンという一言を口にするとメルバは眉をひそめた。まだ引きずっているのかと言いたげなメルバを無視して、私はフィオリドについての調査報告書を眺めた。
領地の経営はメルバの報告にもあったように火の車。領地に街道を通そうと持ち掛けられた案件が詐欺だったらしい。しかし返済には全て伯爵家の資産をあて、領民からの税には手をつけていないそうだ。
領地には父と母、そして妹と弟がいる。私がフィオリドを知らなかったのは、今シーズンまで領地から出てくることがなかったから。借金返済のため父の仕事を手伝っていたということだ。
そこまで読んで、私は従順な大型犬のようなフィオリドの姿を思い返した。
初めて王都にやって来た彼にとって、あのマフィンはさぞかしおいしかったことだろう。焼きたてを食べたらあまりのおいしさにひっくり返ってしまうかもしれない――その姿を想像すると自然に頬が緩んだ。
「で、メルバ? 彼が出席する予定の夜会はある?」
「え?」
「これなら私が手を下さなくても勝手に不幸になるでしょう。夜会で監視し続けて、あの男がフラれまくって失意にうなだれながら領地に戻るのを見届けてやるのよ。食べ物の恨みは深いんだから」
「なんと、お嬢様……」
私の問いかけにメルバはなぜか驚いた顔を見せた。しかし、にやりと公爵令嬢にあるまじき笑みを浮かべた私に、メルバは深くため息をついたのだった。
◇
社交シーズンの王都は毎日のように夜会が開かれる。
フィオリドは意外と体力があるようで、頻繁にあちこちに出席していた。そしてフラれまくっていた。
援助目的なら公爵令嬢である私に狙いを定めればいいのに、一応は身分相応の相手を探しているようだ。私には挨拶にも来ないくせに、フィオリドは積極的に会話に入ろうとしていた。しかし、ある時は王都の話題についていけなかったのか徐々に会話の輪から追い出され、ある時は一人の令嬢をダンスに誘うことはできたけれど、いまいち盛り上がらず即解散。そして前回の夜会ではいい雰囲気になって二人で楽しそうに話していたのに、別の令息に割り入られた挙句、隣を譲るというあまりにもったいない展開に……。
社交慣れしていないのは仕方ないが、せっかくの好機を譲ってしまうお人好しさはもどかしいほど。けれどフィオリドはいつもにこやかで、穏やか。そしておいしそうに料理を食べる。悪くいわれることはあるだろうが、きっと彼が自ら他人のことを悪く言うことはないだろう。そんな人柄も、栗毛も同じ色の瞳も……フィオリドはまるでマフィンのような人間だ。華美なスイーツには敵わないかもしれないが、マフィンなりの魅力がある。
だから、ほら――
今夜侯爵家で開かれた夜会では、前回良い雰囲気になった令嬢も参加していたらしい。フィオリドと令嬢は二人きり、バルコニーで並んで話し込んでいる。
「なんだ、いい雰囲気じゃない……。はぁ、気に食わない」
そう口の中で呟いた私は絶賛疲労困憊中だった。
フィオリド監視のために夜会に出まくっていたせいで、私の体力は限界を迎えていた。今夜も出席者に囲まれ、昼から何も口にしていない。二人の様子を伺おうとこっそりバルコニーに抜け出して来たものの、空腹と疲労とで動けなくなってしまったのだ。
けれどここは覗き込まなければ見えない柱の陰。はしたなくも地面にしゃがみ込んでしまったが、こんな目立たないところにいる私に誰も気づくはずがない。そもそもこんなところでうずくまっている女性など、面倒事のかたまりのようなもの。それが誰であっても巻き込まれたくないので、大概は見て見ぬふりをする人が多い。後で給仕が近くに来た時にでも声をかけ、控室のメルバを呼んでもらえばいいだろう。
私はドレスから出た剥き出しの肩を自分の手でさすった。室内からは楽しげな談笑の声。背後からはフィオリドと話している令嬢の可愛らしい笑い声が聞こえて来る。
けれど私は……。そう思うととたんに空腹と疲れでしゃがみこんでいる自分が惨めになってきた。
「何してるのかしら、私……」
彼がフラれる姿を見届けてやろうというのはメルバが言うように子どもっぽく、趣味の悪い行為だというのは理解している。それにもうとっくにマフィンの事はどうでもよかった。途中から、彼が誰かとうまく行く日が来ないことを願いながら過ごしていたような気がする。ただその気持ちに至ったのがなぜなのか、理由はわかないけれど……。
「悔しい……な」
思わず漏れた声。次の瞬間――
「どうなさいましたか?」
「――っ?」
頭の上から声がかけられた。落ち着いた、けれど若い青年の声。顔を上げるより早くトラウザーズの裾が目に入り、その声の主に気づいてしまった。令嬢と話していたはずのフィオリドだ。
どうして……。話していた令嬢はどうしたの。
混乱し、顔を下げたままの私をよそに、フィオリドは心配そうに話しかけて来る。
「腕を貸します。立てますか?」
「い、いえ。少し休めば大丈夫ですので」
「ならこちらを」
フィオリドはそう言いながら私に自分のジャケットをかけた。今この瞬間まで着ていたジャケットはフィオリドの温もりが残っていた。冷え切った体が温かさに包まれる。同時に鼻先を掠めたのは甘くも爽やかな香水の香り。きっとフィオリドのものだろう。
遠目でしか見たことのなかったフィオリドが今ここにいる。冷えた体を包む温もりに私はなぜか涙が出そうになっていた。
「お付きの方はいらっしゃいますか? 声をかけて来ましょう」
「っ、本当に大丈夫ですから……」
「そういうわけにはいきません。失礼ですがお名前は――」
どれだけお人好しなのだろう。けれど同時に私を優先したことに仄暗い優越感すら抱いていた。
「あ、彼女なら知っているかな……って、あれ? いない……」
彼と話していた令嬢はいつの間にか会場に戻ってしまっていたらしい。それもそのはず。病人を介抱するためとはいえ、自分を放り出す男性を許せる貴族令嬢などほんの一握りだろう。常識的にはフィオリドのしたことは正しいのかもしれないが、貴族令嬢への態度としては落第点だった。残念だが彼女はもうフィオリドと関わることはないはずだ。
「う~ん……困ったな。それでしたら給仕に声をかけて参りますので、少しお待ちください」
しかしフィオリドは令嬢が去ってしまったことをまるで意に介していないように、まだ私に話しかけてくる。いったいこの男の頭の中はどうなっているだろう。結婚相手を探しているのではなかったのだろうか。良い雰囲気になった令嬢が去ってしまったことが惜しくはないのだろうか。
しかもここまで接近しているのに私がメルセウェーズ公爵令嬢だと気づきもしない。自ら名乗りもしない。もし名乗っておけば、介抱してくれた礼をさせてほしいと言われるかもしれないのに。
つまり、そこから導かれるのは「彼は私に全く興味がない」ということ。
少しくらい興味を持っていたら、あの時マフィンを奪っていったりしないはず。今日、この時まで一度くらいは話す機会があってもいいはずなのに。こんなの暗に眼中にないと言われているようなものではないか……。
私はこんなにもフィオリドの事を考えているのに――
私の中に嬉しいんだか、悲しいんだか、怒りなんだかよくわからない感情がメラメラと燃え上がってきた。
「必要ないわ……」
「え?」
「必要ないと言っているでしょう!」
勢いよく立ち上がるとかけられたジャケットがパサリと地面に落ちた。気力を振り絞って胸を張っても、まだ頭一つ高いフィオリドを睨みつける。月の女神と称される私の姿が、見開かれた栗色の瞳に映っていた。
「あなたは――」
「失礼いたします!」
フィオリドが何か言おうとしているのを無視し、私は礼も告げずにその場を去った。
――のだが……。
「……私、最低」
帰りの馬車の中、私はメルバが珍しく困惑するほど落ち込んでいた。
あの夜、私が食べるはずだったマフィンを、フィオリドが嬉しそうに頬張る姿を見てから私はおかしくなってしまった。それほどまでに彼が美味しそうに食べる姿は私の心に深く突き刺さっていたのだ。
しかしそれだけで彼の不幸を願う必要があっただろうか。今夜だって、去ってしまった令嬢に私が口添えすれば、誤解は解け、フィオリドは結婚相手が見つかったかもしれない。けれどそれだけはどうしても許せなかった。
「もうどうしたらいいのかしら。彼が不幸になればいいと思っていたけれど、でもそれは嫌なの。けど結婚相手を見つけて幸せになられるのはもっと腹立たしいの」
「お嬢様……。でしたらマフィンのことは一旦置いておくとして、もしも……もしもですよ? もしもお嬢様のお気持ちが許すのであれば、今日のお礼をなさってはいかがかと思うのですが……」
メルバは気づかわしげに眉をよせ、かなり言葉を選びながら私に声をかけた。
「お礼?」
「はい。メルセウェーズ公爵家の令嬢たるもの、受けた恩にはそれ相応のお気持ちを返すのが道理かと」
それはたしかにメルバの言う通りだ。その瞬間、カチンと私の頭の中で何かがつながった音がした。
「なるほど、そういうこと……」
「何か良いお考えでも?」
「彼の人生でもう二度と味わえないような幸福を私が与えればいいんじゃない。そうすれば彼は一生、私を忘れないでしょうし、私のマフィンを奪ったことを後悔して過ごすことになるわ」
「お、お嬢様! あなたという方は、どうして……」
そう言ったきりメルバは何も言えなくなってしまったらしい。その後、屋敷に着くまでずっとため息をつきながら過ごしていた。
私はと言えば屋敷に着くなり、即、父親の部屋を訪ねた。用事はもちろんフィオリドへの謝礼の事だ。
「お父様! お願いがあるのですが――」
◇
社交シーズンも終わりに近づいてきた。王都にももうじき冬が訪れ、北方への道は閉ざされる。それはつまりフィオリドが領地に帰る日も間もなく訪れるということで――
この日はメルセウェーズ公爵家主催の夜会だった。王家に次ぐ権威を持つ公爵家が主催とあって、規模は王都最大級。公爵家と縁を深めたい貴族たちで大広間はひしめき合っていた。
そんな中、一人壁際で過ごしている背の高い青年の元に歩み寄る令嬢がいた。
「マディエッセ卿、私はメルセウェーズ公爵家のレモニアと申します。少し顔を貸してくださいませ」
話しかけられるのは慣れていても、自分から話しかけるのはあまり経験がない。私はあまりの緊張で破裂しそうな胸をどうにかこらえ、ぽつんと立っていたフィオリドに声をかけた。
あの難攻不落の公爵令嬢レモニア・ラ・メルセウェーズが、どこぞの令息に自ら声をかけた――その事実に当然周囲の視線は私たちに釘付けだ。フィオリド自身も予想外だったのだろう。飼い主に叱られた犬のような目の泳がせ方をしている。
「え、あ、僕に何か……」
「いいからついていらして!」
「は、はい!」
思わず語気を強めてしまった。そのせいで集まった視線がさらに突き刺さる。
フィオリドの態度もこの前のテキパキと介抱してくれた姿が幻のようではないか。他の令嬢にするみたいに落ち着き払ってくれたらいいのに! 私はふんふん鼻息を荒くしながら、メルバの待つ控室へと急いだ。
控室に着くとメルバがすぐさまソファを勧めてくれた。テーブルを挟んで向かい合い、改めてフィオリドを見ると遠目に見るよりまつ毛が長いことに気づく。栗毛色の髪はどちらかと言えば黄色みがかっているようだ――と、そんなことよりも彼に伝えなければならないことがある。私は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「……先日開かれた侯爵家の夜会で、体調を崩し、座り込んでいた令嬢に声をかけましたでしょう?」
「あっ……はい」
同じように緊張していたのだろう。フィオリドの返事が上擦る。
「声をかけて頂いたのは私です。あの時はご心配頂いたにも関わらず、ついお礼も告げずに立ち去ってしまいました。申し訳ございませんでした」
「いえ、そんな。お元気そうで何よりです」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
どうしよう。話が続かない。いや、それどころか話し始めてからフィオリドがどんな顔をしているのかすら見ることができない。私は顔を上げる余裕がないほど緊張してしまっていた。
しかしそんな時に助け舟を出してくれるのはやはりメルバだ。
スッと目の前に白い紙が差し出さた。これはフィオリドへの謝礼の内容が書かれた書面だ。私はこれ幸いとばかりに受け取ったばかりの書面をフィオリドの前に置いた。
「そ、それでなんですけれど、これは我が家からマディエッセ卿へのお礼です。ジャケットも汚してしまいましたし、どうかお受け取りくださいませ」
「そんなお礼だなんて――って、これ!」
だが書面の内容を一瞥するなり、フィオリドはその書面を押し返してきた。
「お返しします」
「えっ、どうして?」
驚いたのは私の方だ。慌てて顔を上げるとフィオリドが真面目な顔で私を見つめていた。
「僕はこんなことのためにあなたを助けたわけじゃありません!」
フィオリドは怒ったように言い返す。書面に謝礼として書かれていたのは、マディエッセ伯爵家の借金が返せるだけの金額だ。私の私財から出してくれるよう父に頼んだものなので、これは完全に個人のやり取り。何も気兼ねする必要はない。
「で、でもご実家の方では必要でしょう?」
「確かにマディエッセ家は苦しい状況です。けれどこれは受け取れません」
フィオリドの態度は頑として変わらない。
「あげるって言っているのだから受け取ったらいいじゃない!? 結婚相手を探しているのも援助を頼みたいからでしょう? これを受け取ればもう結婚相手を探す必要なんかないわ。ほら、全部解決よ!」
「結婚相手を探しているというのはそうですが、援助を頼むつもりはありません……。なぜそのような話になるのですか?」
怪訝な表情に変わるフィオリドを前に、私の頭の中は大混乱だった。
結婚相手探しは援助目的じゃない? そうだとしたら声もかけられず、興味すら持たれていなかった私は、彼にとってこれっぽっちも必要のない存在――いや、そんなこと認められるはずがない!
「駄目よ、これは受け取ってちょうだい!」
「申し訳ありません。受け取れません」
「~~~っ!」
揺るがないフィオリドの態度に、その瞬間私の中で何かが崩れた。
「なんなのよ! あなた、いつもそうやって好機を逃しているのよ! 少しは学びなさいよ!」
「えっ!」
思わず立ち上がる私にフィオリドの驚き顔が向けられる。
「その辺の世間話なんか私を誘っておけば何とかなったはずよ! ダンスだって、あの子じゃなく私ならリードできたのに!」
「な、何の事――」
「いつもどこの会話に入ろうか迷っているくせに、どうして私の所には来ないのよ!」
ふうふう息を荒げる私を栗色の瞳がぽかんと見つめている。しかしこれまでの鬱憤がおさまるわけもなく……。
「レモニア・ラ・メルセウェーズ! 私の名前はレ・モ・ニ・ア! ほら、繰り返して!」
「レ、レモニア……様?」
「そうよ、レモニアと呼んで! だから私はあなたをフィオリド様と呼ぶわ!」
「はっ、はいっ……」
ようやく自己紹介が済んだ。これで最大の恨みを吐き出す準備が整った。
「それで、フィオリド様。あなた、初めての夜会で私のマフィンを食べたわよね!」
「マフィン?」
「食べたじゃない! ひとつだけ残っていたマフィン!」
思い出すだけで胸の奥がきゅうっと痛む。ただ一つ残っていたマフィンを、嬉しそうに頬張るフィオリドの姿をあれから何度思い出しただろう。
「食べる暇もないくらい忙しかったのよ。それなのにあなた遠慮なくバクバク食べちゃって」
「すみません……」
「お腹すいて倒れそうだったのに! あなた、全然こっちを見てくれなかったじゃない」
「いえ、それは……」
「少しくらい私を見なさいよ! 私はあの日からずっとあなたを見ていたのよ! 私ならもっとあなたを笑顔にさせられるのに、って!」
そう、私はずっとフィオリドを見ていた。不器用で、お人好しで……でもそれすら愛おしくて目が離せなくなって。
「食べ物の恨みは深いのよ! 私、あなたのこと一生許さないんだから!」
肩で息をつく私を見つめるフィオリドは、ぱちぱちと瞬きをすると恐る恐る口を開いた。
「……えっと。レモニア様はマフィンがお好きなんですね」
好き……。
その問いかけに燃え上がっていた恨みつらみが、しゅわっと音を立てて鎮火した。
確かに私はマフィンが大好き。でもフィオリドを前にしてこみ上げてくるこの気持ちは……。
「好き……です」
「僕も好きです」
「え」
「実はレモニア様の事は存じ上げておりました。しかし僕のようなものがお声がけするのはおこがましいと思い……なので、今、こうしてお話できるのはとても嬉しいです。よろしければ、おすすめのマフィンを教えていただけますか」
そう言ってフィオリドはふわっと微笑んだ。
まるで焼きたてのマフィンのように。あたたかく、柔らかな笑顔で。
その笑顔は私の胸を直撃し、私は息が止まりそうだった。フィオリドはマフィンどころか私の心まで奪っていったのだ。
ああもう、大好き! この男一生許さないっ!
◇
その後、マディエッセ伯爵領の借金問題はすぐに解決するところとなった。王都に通じる街道もメルセウェーズ公爵家が出資することで無事に開通し、伯爵領は今後発展の一途をたどるだろう。
ではなぜ、マディエッセ伯爵領に公爵家が出資したかというと……つまりはそういうこと。私はフィオリドの元に嫁ぎ、彼が他の女性と幸せになるのを妨げることに無事成功したのだった。
私たちの結婚に社交界は上を下への大騒ぎだった。まさか難攻不落と言われていた私が、パッとしない没落寸前の伯爵家に嫁ぐとは誰も想像できなかっただろう。しかし両親も兄だけは私がフィオリドに礼をしたいと言い出した時点で、もうこうなると予想していたらしい。私とフィオリドの結婚を手放しで喜んでくれたのだからありがたい限りだ。
しかしまだ私のマフィン好きは家族以外にばれていない。もちろん人々が皆、マフィンを楽しめる世であってほしいという願いは変わっていないが、それよりも重要なことがある。
「ねえ、メルバ。あの夜、マフィンを奪われた挙句、すっかりフィオリド様に心も奪われるとは思いもしませんでしたわ。一生かけて幸せにしてもらわなければなりませんわね。あ、でもフィオリド様は誰にも奪われないようにしておかなければ! もう絶対私だけのものですもの」
「はぁ、まったくお嬢様は奥様になっても何も変わりませんね」
嫁ぎ先であるマディエッセ領までついて来てくれたメルバは、そう答えながら深いため息をついた。しかしそんなことを言いつつも顔は嬉しそうだ。
「さあ、それよりさっき焼いたマフィンを旦那様に届けましょう!」
私はマフィンを頬張るフィオリドの顔を思い浮かべた。
きっとあの夜、最後のマフィンを頬張った時のよりも幸せそうな顔で笑ってくれるはず……!
お読みいただきありがとうございます!
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