【コミカライズ発売中】三股をかけられていたので次にいこうと思います。
伯爵令嬢のリリーシュは、二ヶ月ほど前に前世の記憶が蘇ったばかりだ。
その時まではごく普通の令嬢として生きてきたリリーシュは、買い物で街を訪れていた際にふと懐かしい香りを嗅いだことがきっかけで、一気に過去の記憶を取り戻した。
なにこれ?
もしかして私って転生者だったの!?
駆け巡る情報量の多さに目が回ってしまう。
この世界にはない知識の数々に、パニックに陥って倒れ込みそうになってしまったリリーシュ。
そんな彼女に手を差し伸べてくれたのが、たまたま通りがかった騎士のアンディだった。
この出会いをきっかけにして、リリーシュは彼とお付き合いを始めることになった。
アンディは子爵家の三男で、十七歳のリリーシュよりも四つ年上だ。
騎士ということもあって、礼儀正しく真面目な性格をしている。
職業柄多忙なのか、会える機会は少なかったが、誠実そうな見た目で性格も穏やかな彼となら、きっと温かい家庭を築けると信じていた。
リリーシュには弟が一人おり、弟が家督を継ぐことが決まっている為、彼女は騎士爵を持つアンディに嫁いで彼を騎士の妻として支えていく心づもりでいた。
その日までは……。
◆◆◆
これはどういう状況かしら?
リリーシュは目の前の光景に戸惑うあまり、その場で立ち尽くすしかなかった。
さきほどまでの胸が弾むような気持ちは急速に萎み、わずかに指先が震えているのがわかる。
リリーシュの視線の先では、彼女の恋人であるはずのアンディが育ちの良さそうな小柄で可愛らしい令嬢と抱擁を交わしている。
その姿はまるで切り取った絵のように幸福に満ちており、リリーシュが踏み込む隙など微塵もないように思えた。
二人の傍らには、彼らを微笑ましそうに見守る一組の夫婦の姿もある。
もしかして、アンディ様の妹さん?
……いえ、彼は男兄弟しか居ないと言っていたはず。
それに見守っているあの恰幅のいい紳士はどこかで見たことがあるような……。
あっ! 確か騎士団のお偉いさん!
アンディとはこの二ヶ月の間、貴族令嬢の常識範囲内で親しくしてきたつもりだったが、多忙だという彼の私生活は謎に包まれている部分も多かった。
自分の知らなかった彼の姿を目の当たりにして、リリーシュは言いようのない不安に襲われた。
思わず見なかったことにして踵を返そうとしたその時。
「ちょっと、これはどういうこと!? その子はいったい誰なのよ? 表彰されるっていうから見に来てみれば……。アンディ、説明してちょうだい!」
突然、若い女性の声が周囲に響き渡った。
見れば、ストレートの銀髪が目を惹く、目鼻立ちのはっきりとした婀娜っぽい女性が両手を腰に当てて苛立った声を上げている。
二十代の半ばを少し過ぎているくらいか、露出が多めの服装と、濃い化粧の様子から酒場に勤める女性であると推測された。
どうやらこのセクシーなお姉さんもアンディの知り合いのようだ。
「エ、エリンじゃないか。いや、これは何でもないよ。ただの挨拶ってやつさ」
「アンディ様? この方とお知り合いなのですか? なんだか怒っていらっしゃいますけど」
「アンディ……。まさかとは思うが、うちの娘がいながら他の女に手を出したりしていないだろうな?」
「あ、あははは。ま、まさか僕がそんなことをするはずが……」
「アンディ? あなた、婚約者も恋人もいない、モテない騎士だって言ってたわよね? 『地味な僕だけど、君との未来を守らせてほしい』とか言ってたくせに! 許せない!!」
うわぁ。
これは言うまでもなく、修羅場というやつなのでは?
え、アンディ様って、あそこの可愛い令嬢とセクシーなお姉さん、そしてこの私――つまり三股していたってこと?
……とんだチャラ男じゃないの。
私もお姉さんと同じセリフを言われたけれど、もしかして彼なりの決め台詞ってやつだったのかしら。
さっきまで感じていたショックはいつの間にか綺麗さっぱりと消え去り、アンディのいい加減さや脇の甘さにすっかりドン引きしているリリーシュ。
もはや彼のことなどどうでもよくなっていた。
一時は胸を躍らせた口説き文句すら陳腐に思えてくるのだから不思議だ。
そもそも、騎士団での働きが評価されて表彰されることになったから見に来て欲しいと言い出したのはアンディ本人だった。
だからリリーシュも屋敷を抜け出してまでいそいそと広場までやってきたというのに、この地獄絵図である。
勘弁してほしい。
アンディ様って馬鹿なの?
そりゃあ、かち合うに決まっているじゃない。
え、そんなことも予想できずに晴れ姿だからってみんなに声をかけたとか?
阿呆らしくなったリリーシュは帰ることにした。
とんだ無駄足だった。
今となっては恋心があったのかすら疑問に思えてくるほどで、ただただ呆れるばかりである。
こんな人目のある広場で自ら名乗りを上げてまで修羅場に参戦するつもりもないし、もちろんアンディへの未練など欠片ほども残ってはいない。
どう見たって両親公認の抱擁を交わしていた令嬢が本命に違いないのだから。
さーて、帰ろうと思ったけれど、せっかく街まで出てきたのだから少し店でも回ろうかしら?
あ、美味しいケーキ屋さんができたってお茶会で噂になってたわよね。
リリーシュの中ではすでにアンディは過去の人物となり、早くもケーキに心を奪われていた。
この場に留まる理由など何もない彼女は、賑やかな通りに向けて足を踏み出した――はずだったのに。
「待ってちょうだい!」
「へ?」
なぜか腕を掴まれていた。
銀髪のお姉さんに……。
リリーシュが顔を上げれば、腕を掴んだお姉さんは真剣な目で見つめてくる。
掴む力が特別強いわけでもないのに、逃がさないという意思がひしひしと伝わってきて逃げられない。
「あなたもアンディに会いに来たのでしょう?」
「え? いえ、私は別に……」
こ、怖いんですけど。
お願いだから私のことは放っておいて。
こんなことで悪目立ちするなんてまっぴらなの。
あなたたちで勝手にやってちょうだい。
無関係な人間を装い、笑って誤魔化しながら立ち去ろうとしたのも束の間、まさかのアンディ本人が話しかけてきた。
「あれ? リリーシュじゃないか。あ、君も僕の勇姿を見に来てくれたのかい?」
「ほらっ! あなたもそうじゃないの!」
「アンディ様、そちらの方もお知り合いですか?」
やーめーてーー!!
なんで私を巻き込むのよ?
勝手に三角関係で修羅場ってればいいじゃない。
うわ、ますます騎士のお偉いさん夫妻の目が怖くなってる……。
早く逃げよう。
「いえいえ、私はたまたま通りがかっただけですので。それではご機嫌よう」
「嘘よ! そんなはずないわ。だってそのブローチ!」
銀髪お姉さんがリリーシュの胸元を指差した。
そこにはアンディから貰ったイエロートルマリンのブローチが飾られていた。
いっけない。
贈られたものだからってつい律儀に着けてきてしまったわ。
ん?
よく見ればこのお姉さんも同じブローチをしているじゃないの。
あ、あっちの小柄な令嬢も!
気付けば三人とも色違いの同じブローチを着用している。
可愛い令嬢が赤色のルビー、銀髪のお姉さんがブルーサファイア、そしてリリーシュがイエロートルマリンだ。
え、アンディ様……いや、もうアンディでいいや。
あいつ、三股かけてた挙句にみんなに同じブローチをプレゼントしていたってこと?
なんて無神経な男なの!!
しかも、本命がルビーでこのお姉さんがサファイア……どう考えても私って三番目の女じゃない!!
瞬時に宝石の値段を思い出したリリーシュは、自分が三股の三番目だと悟ってしまった。
もうどうでもいいと思おうとしていたけれど、やっぱり腹だたしいわね。
なんなのよ、赤、青、黄って昔の戦隊トリオじゃあるまいし。
黄色なんて、カレー好きな食いしん坊じゃない!!
腹が立ち過ぎて、もはや意味不明な怒り方をしている。
黄色のヒーローについての認識も古いし、転生者でもないアンディがそんな話を知っているはずもない。
いっそキレ散らかして大暴れしたくなったリリーシュだったが、なんとか怒りを抑え込んで他人のふりを貫くことにした。
貴族令嬢の自分の立場をギリギリ思い出したのだ。
こんなことで、人の良い両親を泣かせたくはない。
「こ、このブローチはただの偶然です。私、騎士様の知り合いなんておりませんし!」
野次馬がジロジロと好奇な目で見ているのを感じる。
これ以上自分が醜聞に巻き込まれ、三番目だと思い知らされては堪らないと、リリーシュはアンディとは無関係だと訴えたのだが。
「まさか……。アンディ、私たち以外にもブローチを贈ってはいないでしょうね?」
お姉さんがまさかの疑問を投げかけた。
え、私たち以外にもまだいるの?
その発想はなかったわー。
実はトリオじゃなくて、五人の戦隊ものだったりしてね。
半目で現実逃避を始めたリリーシュに、慌てたアンディの声が聞こえる。
「いや、三人だけだよ。僕は三つしか贈っていない」
「は? 『三つしか』って言うのがおかしいでしょうが!」
「アンディ様、私このルビーのブローチをいただいた時、とても嬉しかったのに……」
「アンディ、貴様この落とし前をどうつけるつもりだ!」
お姉さんが怒鳴り、令嬢が泣き始め、お偉いさんが青筋を立てている……。
いよいよ混沌としてきた中、肝心のアンディはオロオロするばかりで、なぜかリリーシュに助けを求めるような視線を送ってくる始末。
……なんなんだこれは。
あ~、やってらんない。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ。
冗談じゃないわ!!
見物人の興味本位の視線に堪え切れず、ストレスが溜まりまくったリリーシュは唐突にキレた。
ブチッと自分のブローチを力ずくで毟り取ると、広場の噴水に向かって大きく振りかぶる。
「とりゃ~!!」
「え?」
「は?」
アンディとお姉さんの間の抜けた声が漏れる中、リリーシュがぶん投げたブローチは綺麗な放物線を描いて無事噴水にポチャンと着水した――はずだ。
音はしなかったが。
「ふい~、証拠隠滅っと」
パンパンと手をはたくと、一仕事終わったとばかりに額の汗を拭う真似をする。
なんだか清々しい気分だ。
「さて、私はそちらの騎士様とは無関係なので、もういいですか?」
リリーシュがにっこりと微笑むと、戸惑いつつも銀髪のお姉さんは「え、ええ……」と掴んでいた手を離してくれた。
まだ呆気にとられているアンディとお偉いさん一家をその場に残し、リリーシュは悠々とした足取りで広場を抜けると――全力で駆け出したのだった。
◆◆◆
ここまで来れば平気かしら。
込み合う昼下がりの街の人波を潜り抜け、リリーシュは人気のない裏通りでようやく足を止めた。
息を整えながらも編み込んでいた髪をほどくと、指でさっと梳いて整える。
広場で令嬢にあるまじき悪目立ちをしてしまった為、とりあえず髪をおろして印象を変える作戦だった。
ああ、とんだ目に遭ったわ。
知り合いに見られていないといいのだけど。
強引にブローチを引っ張ったせいで、ワンピースにも穴が空いてしまったし……。
もう、踏んだり蹴ったりじゃない。
咄嗟に力一杯引きちぎったからか、リリーシュのワンピースの胸元は無残にも糸が飛び出ている。
中にもブラウスを着ている為、肌が見えるようなことはないのだが、みっともないことは確かだった。
こっそり屋敷から抜け出てきたというのに、使用人たちにどう言い訳をしたらいいのかも悩むところだ。
しかし、とにかく今は何よりも身を隠すことが先決だろう。
広場で騒ぎを起こした面々にリリーシュも含まれていて、万が一にも三股をかけられていた娘などと噂が立ってしまったら、恥ずかしい上に今後の縁談にも差し支えてしまう。
このブローチの跡は隠す必要があるわね。
その辺で明るい色のショールでも買って羽織ることにしましょう。
そうすればさっきの修羅場を目にした人でも、髪型と服装で私だとは気付かないはず……。
そうと決まればぼんやりとしている暇はない。
リリーシュは波打った明るい茶色の髪を再度撫でつけて整えると、裏通りから出ようと顔を上げた――のだが、なぜか行く手を阻むように壁が出来ていた。
え、何?
こんなのさっきまで無かったような……。
さらに視線を上にやると、リリーシュより頭ひとつ分高い位置から男性がこちらを見下ろしている。
どうやら壁ではなく、長身の男性だったらしい。
よく見るとアンディと同じ騎士服を着ているが、裏通りの暗がりであっても彼よりも立派な体躯をしている上、凛々しい顔立ちなのがわかった。
輝く勲章の数もアンディより桁違いに多い。
「君は足が速いんだな。あやうく撒かれるところだったよ」
揶揄うように笑って肩を竦める騎士は、リリーシュに用事があるのか通してくれる気配がない。
嫌らしい雰囲気は全く感じないので、ナンパではないと思う。
しかし、如何せんリリーシュはアンディという騎士に騙されたばかりなのだ。
騎士の身分だけで手放しで信用するのは危険だ。
そもそも、人気の無い場所で男性と二人きりの状況はマズイだろう。
「えーと……私に御用ですか?」
「ああ。広場から追ってきたんだ」
「……どなたかとお間違えなのでは? 私は広場には行っておりませんし」
「いや、君に間違いない。見てわかると思うが、俺は騎士だぞ? 髪型を変えたくらいでそんな簡単に騙されてたまるか」
「うっ……」
リリーシュは呆気なく白旗を上げた。
どうやら誤魔化すのは無理みたいね。
でもどうしてわざわざ追いかけてきたの?
他人のフリを試みてみたものの、ブローチの穴すら隠せていない今のリリーシュでは分が悪いのは明白である。
仕方なく騎士がここまで追ってきた理由を考えてみると――思い当たる理由など一つしかないことに思い至り、震え上がった。
「あ、あの……もしかして私って捕まるんですか? 表彰式が行われる神聖な広場で煩くしたから……。でも理由があるんです」
もう最悪だ。
色恋沙汰で問題を起こし、騎士に捕まったなんて醜聞は、令嬢にとって命取りである。
人生詰んだも同然だった。
なんで、こんなにうまくいかないの?
全部アンディに騙された私が悪いの?
あまりの情けなさに思わず俯いてしまうと、騎士が慌てたように言った。
「あー、違う違う。悪い、そうじゃないんだ」
「……私を捕まえに追ってきたんじゃないんですか?」
「ああ違う。これが俺のところに飛んできたから、届けようと思っただけだ」
見れば、広げた彼の手のひらに、見慣れたイエロートルマリンのブローチが載っている。
「そ、そのブローチ……」
「やっぱり君のだったか。なぜか俺のところに飛んできたんだ」
いやいや、私、噴水に向かって投げたよね?
池ポチャしたはずだよね!?
なんでこんな路地裏で奇跡の再会を果たしているのよ。
ブローチは「ただいま」と言わんばかりにキラッと輝いている。
「どうして……」
「ん? 大切なものではないのか?」
キョトンと首を傾げる騎士は、善意の塊のような顔をしている。
しかし、三股の悪夢を振り払うつもりで投げ捨てたリリーシュにとって、この再会は全く望んだものではなく……。
「イヤーーーーーっ!!」
自然とつんざくような声が出ていた。
あの、日本人なら誰でも知っている名画さながらのポーズ、口を開けて両頬を手のひらで包むようにして叫ぶリリーシュに、騎士はあたふたした様子を見せつつも、一瞬の判断でブローチを乗せた自分の手のひらをギュッと握り込んだ。
どうやらリリーシュの視界からブローチを隠そうとしてくれたらしい。
大きな手のひらに包まれたことによって黄色い輝きが消え去ると、途端にリリーシュは落ち着きを取り戻した。
リリーシュの悲鳴が収まると、狭い通りには再び静寂が戻ってくる。
いけない、いけない。
アレはもう捨てたものだし、アレももう終わったことよ。
こんなことで動揺してどうするの。
……でもこの騎士様、なかなかいい人かも?
今のリリーシュにとって、このブローチは特級呪物並みに関わりたくないものとなっていた。
ブローチ自体に罪はないにしても、目にしただけで災いを呼びこみそうな気がしてしまうのだ。
その為、すぐに隠そうとしてくれた騎士の心遣いがありがたく、リリーシュはホッと息を吐いた。
――のだが、なぜか一瞬いたずらっ子のような表情を見せた騎士は、握っていたはずの手をおもむろに広げてみせた。
吸い寄せられるリリーシュの視線と、再びキラリと光る呪物。
「イヤーー」
「わかった、わかった! 俺が悪かった!」
取り戻したはずの冷静さは瞬く間に吹っ飛び、もはや条件反射でリリーシュが再度叫ぼうとするのを、騎士が苦笑しながら遮った。
そして、ブローチが今度こそしっかりと騎士の胸元にしまわれるのを、恨みがましい目でリリーシュが見届ける。
よし、完全に胸ポケットに納まったようだ。
前言撤回。
いい人なんかじゃなかったわ。
私、「騎士」と相性が悪いのね、きっと。
というか、私がチョロすぎるの?
三股かけていた元彼といい、目の前のこの男性といい、騎士というだけですぐ心を開いてしまう自分の単純さに嫌気がさしてしまう。
でもそれだけ騎士という職業が、人々から信頼されているのも事実だった。
「なるほど、大切なものだと思ったのは俺の勘違いだったようだな」
「……なんで途中でもう一回見せたんですか?」
「いや、ちょっとした興味本位?」
「ひどい。私で遊ばないでください……」
騎士は思ったよりも砕けた性格をしているようだ。
どうやら捕まる恐れはなさそうで、安心したリリーシュは少しの反抗を見せつつも、力が抜けていくのを感じていた。
「もしかしなくても、俺は余計なことをしたみたいだな」
「余計……というか、それは捨てたつもりだったので驚いただけです」
でも考えてみれば、この騎士の行動は全く間違っていない。
拾得物の持ち主をこんな場所までわざわざ追いかけ、親切にも手渡そうとしてくれたのだ。
むしろ騎士の鑑ではないか。
私ったらブローチとの嬉しくもない再会に動揺して、なんてひどい態度を。
届けてくれたのにお礼の言葉一つも言っていなかったわ。
ようやく自分の行動を客観視出来るようになると、あまりの無礼さに申し訳がなくなってくる。
リリーシュは騎士に向かって丁寧に頭を下げた。
「失礼な態度をとり、申し訳ございませんでした。そのブローチは私にはもう必要ないので、処分していただけると助かります」
「いや、俺こそ悪かった。これだから『お前はもっと空気を読め!』って上司に怒られるんだろうな。あ、このブローチは俺が責任もって孤児院にでも寄付しておくから」
「ありがとうございます。……ふふっ」
上体を起こすと、情けなさそうに眉を下げ、肩を落としている騎士の姿が目に入る。
大きな体にも関わらずそれが思いのほか可愛らしく見えたリリーシュは、思わず笑ってしまった。
そんなリリーシュに騎士も笑みを零し、二人の間に初めて和やかな空気が流れていく。
「なあ、結局このブローチは何なんだ? 俺のところに飛んでくる前までは君のものだったんだろう?」
「それを訊いちゃいます?」
「あ、訊かない方がいいやつか? 俺、また空気読めてないか?」
「プッ。いいでしょう、ここまで届けに来てもらったので特別に教えてあげます」
「ハハッ、なんだよ。随分勿体ぶってるな」
恩着せがましく言うリリーシュに、騎士は面白そうに笑っている。
不思議なことに、さきほどまでは二度と思い出したくもなかった三股話だったのに、この騎士にならたわいもない話として笑って話せる気がしたのだ。
なんだかこの人に話したら、馬鹿な失敗談として消化できる気がするわ。
なぜかしらね。
リリーシュはまるで他人事のような気安さで、広場で巻き込まれた出来事を騎士に話して聞かせた。
「……というわけで、彼には両親公認の可愛い本命ちゃんがいたんですよ。私なんて、二番目でもない三番目! それに気付いたら、もう何もかも嫌になってしまって。思わずブローチを『ヤーッ』って投げて逃げちゃったんです。笑っちゃうでしょう?」
正確には「とりゃ~」という令嬢らしからぬ声を上げてぶん投げたのだが、まあそこはいいだろう。
改めて話すと、二ヶ月もの間アンディに騙されて、彼を穏やかで真面目な男だと信じていた自分の馬鹿さ加減に笑いが込み上げてしまう。
聞いてもらうことで更に吹っ切れたリリーシュは、清々しい笑顔で騎士を仰ぎ見た。
話のくだらなさに、さぞかし呆れているだろうと思っていたが――なんだか彼はとっても怖い顔をしている。
苛立ちを抑え付けるように唇をきつく結び、元から凛々しい切れ長の瞳は人を射殺さんばかりに細められ、憎悪の感情がありありと浮かんで見える。
あれ?
なんで騎士様が怒っているの?
ここは「男を見る目がねーなぁ」って笑い飛ばしてくれるところよね?
あ、空気が読めないって言ってたから仕方ないか。
「あのー、笑ってくれていいんですよ?」
「は? どこに笑う要素があったんだ? 君はもっとその男に対して怒るべきだ。俺は今、猛烈に腹が立っている!」
「へ? あ、ありがとうございます……?」
まさか初対面の騎士が自分のことでここまで憤慨してくれるとも思っていなかったリリーシュは、正直嬉しさよりも戸惑いのほうが勝っていた。
自分自身が少しもアンディに心残りがないのだから、尚更である。
しかし、憮然としていたはずの騎士は、ハッとした顔をすると、みるみるうちに元気がなくなっていく。
「君が取り乱した理由がわかったよ。俺は思っていた以上に余計なことをしたようだ。しかも、俺の仲間がすまない……」
さきほどまで怒りのオーラを纏っていたはずの騎士は、大きな体が一回り小さくなったかのようにシュンと肩を丸めている。
同じ職業に就く仲間が、道理に反した行いをしたことに対するショックと、同じ騎士としてそれを謝罪したいという真摯な気持ちが伝わってきた。
おかしな話よね。
三股男が謝るならともかく、なんで全然悪くもないこの人が謝っているのかしら?
私も踏んだり蹴ったりだったけれど、彼のほうがもっと貧乏くじを引いてるわよね。
「いえ、あなたのせいではないので。むしろ罪悪感を抱かせてしまって、かえって申し訳ないというか。でも気持ちは嬉しかったです。ありがとうございます」
リリーシュが下から覗き込むようにしてお礼を言うと、「そうか」と騎士も少し口角を上げた。
そこで、安心したリリーシュは当初の目的を思い出した。
「あ、そうだった! 私は三股かけられていたことが世間にバレるのが一番まずいんです。早くストールを買いに行かないと!」
「ストール?」
「はい。少しでも変装して、印象を変えないといけないので」
「なるほど、髪型を変えていたのもそういうことか」
「私、こう見えて一応貴族の娘なので、変な噂が立つと困るのです。あ、遅くなりましたが、私はリリーシュ・オルレーンと申します」
「俺はファルク・エイヴァンだ。見ての通りの騎士だ」
「ファルク様……ん? え、ファルク様って、あのファルク様!?」
「ははっ、どのファルクか知らないが、多分そのファルクだろうな」
ファルク・エイヴァン。
それは名前を知らない者などこの国にはいないというくらい、武功を上げ続けている有名な騎士の名前だった。
遅い自己紹介をしてみたら、とんだ大物じゃないのよ!
なんでそんな立派な方が、たかが落とし物を届けたりしているのよ!?
ファルク様って、もっと厳つくて恐ろしい見た目を想像していたし、まさかこんな若くて話しやすい人だとは思わないじゃない。
ファルクは確か将軍の地位にあるはずで、配下の兵士も精鋭揃いと聞く。
元は平民の出らしいが、その類まれなる戦いのセンスでこの地位にまで昇りつめたことで、英雄と呼ばれているほどだ。
国王の信頼も厚く、未婚の為に妻の座を狙う令嬢によるバトルが絶えないのだとか。
待って待って。
俺の仲間とか言っていたけれど、アンディより遥か雲の上の騎士様じゃないの。
本命ちゃんのお父さんよりむしろ上の立場かも……。
今更ながら、ファルクに対する無礼な数々の発言と態度に冷や汗が出てきそうになる。
気安く話し、最終的にはつまらない失恋話まで聞かせ、謝罪までさせてしまったのだから。
リリーシュは本日二度目の逃走を図ることにした。
長居は無用とばかりに、さっさと別れの挨拶を告げる。
「えーと、ファルク様? かの英雄様のお手を煩わせ、申し訳ございませんでした。改めてオルレーン家からも正式に謝罪をさせていただきますので……。とりあえず今日のところはこれで。お話しできて嬉しかったですわ。それでは!」
とにかく一刻も早く逃げたいリリーシュは、早口で一気に捲し立てると、ペコッと頭を下げる。
伯爵の父には、落とし物をして迷惑をかけたと言って、ファルクに謝罪の手紙でも送ってもらえばなんとかなるだろう。
さあ、これ以上やらかす前に逃げるわよ!
できるだけ俊敏にファルクの隣をすり抜けると、裏通りから元気良く飛び出した。
――と思ったのはリリーシュだけで、逃げ出そうとしたリリーシュの腕は、またしてもしっかりと掴まれていた。
またこの展開なのね……。
私って、チョロい上にトロいのかしら。
銀髪のお姉さんに続き、ファルクにも捕まってしまった。
まあ、今回は騎士が相手なのだから、そもそもが無理ゲーだった気もする。
こうなっては仕方がないとばかりに、逃げるのを諦めたリリーシュは渋々ファルクに尋ねた。
「まだ私に何か?」
「いや、何となく? 急に立ち去ろうとするから思わず引き留めちまった。それに、オルレーンって確か伯爵家だよな? 令嬢が一人でフラフラしてるのも危ないから、俺が店まで付き添ってやるよ」
「え……?」
英雄様に買い物の付き添いを頼むですって?
そんなの、下っ端騎士の三股スキャンダルより遥かに大騒ぎになるやつじゃないの。
むしろこの世界に週刊誌があれば、トップ記事を飾れるほどのスクープだわ。
「英雄、熱愛か!?」とか書かれて、黒い目線を入れられた私の写真が……。
リリーシュがお昼のワイドショーまで妄想している間にも、ファルクはすっかり同行するつもりで話しかけてくる。
「ストールってどこで買うんだ? 俺はそういう店に詳しくないからな。服屋か? いや、雑貨屋になるのか?」
「へ? あ、いえいえ、ブローチを届けてくれただけで十分ですので。ファルク様、うっかり私なんかと街を歩いたら、瞬く間に噂になってしまいますよ?」
「ハハッ、大袈裟だな。ただの護衛だろう」
あまーい!
この人、自分の人気や知名度がわかっていないのかしら?
目立たないようにする為にストールを買いに行くのに、その道中で注目されたら本末転倒もいいところじゃないの。
妄想から我に返り、なんとか同行を断ろうと試みても、ファルクは聞く耳を持ってくれない。
もっと強く断ろうとリリーシュが大きく息を吸うと。
あ、この香りって……。
リリーシュは、以前にも嗅いだあの懐かしい匂いを感じた。
アンディと出会うきっかけになった、前世の記憶を呼び起こしたあの香りである。
あれ、この記憶って、前世の私自身に起きた出来事……?
前回は日本の景色や生活様式についての記憶が多かったが、今回は家族や友人、実際に体験したことに関しての記憶が一気に流れ込む感覚がする。
数々の思い出の映像が頭を流れていくが、その中である記憶がとりわけ鮮明に映し出された。
ああ、確かこの人は前世の彼氏だった人ね。
そうそう、お揃いのスマホケースを使っていたわ。
色違いでプレゼントされて嬉しかったのよね。
映像は、友人が彼には別に本命がいると教えてくれて、直接彼に問いただしている前世のリリーシュへと移っていった。
本命の存在をあっさりと認めた彼氏は、「というか、お前は三番目だし~」と平然と言ってのけている。
ショックでリリーシュが呆然としていると、ナイフを持って背後から近付いてくる見知らぬ女……。
そうだ!
私、二番目の彼女に私が本命だと勘違いされて、人違いで刺されたんだった!
きっとそれが原因で私は死んでしまったんだわ。
でもそれより、意識が霞む直前に見えた二番目の彼女のスマホケース、私と色違いの青じゃなかった?
私のカバーは黄色……。
「イヤーーーーーッ!!」
「なんだなんだ、今度はどうした? ブローチなら俺が預かってるぞ?」
「また黄色! 前も黄色で今回も黄色! え、私は常に三番目なの? 三番目は黄色って決まりなの? え、またカレー? 私はカレーの女なのーーっ!?」
「落ち着け、何を言っている。黄色は綺麗な色だし、カレーはこの世界にはないぞ」
「そう……、そうよね。カレーはこの世界にはないんだったわ」
「そうだ、時々無性に食いたくなるけどな」
「確かにカレーには食欲を誘う香りが……って、え?」
「ん? カレー?」
前世でも三股されていたという衝撃の事実が、カレー色に塗りつぶされていく。
どうしてファルクがこの世界にはないはずのカレーを知っているのだろうか?
もしかして彼も……?
「あの、ファルク様はカレーをご存じなのですか?」
「ああ。美味いよな、カレーは」
「ええ、そうですね。ってそうじゃなくて!」
「君も前世の記憶があるみたいだな」
「はい。今まさに追加の記憶が蘇ったところです」
英雄は転生者仲間で、しかもカレーが好きらしい。
リリーシュはポカンとファルクを見つめてしまった。
異世界でカレー好きな転生者仲間に出会った――となれば、離れがたく感じてしまうのも当然のことで。
リリーシュはあんなに遠慮していたはずのファルクの同行を、あっさりと受け入れた。
それだけ前世の話が出来る相手は魅力的だったのである。
「じゃあ、ファルクは生まれてすぐ前世の記憶が戻っていたのね。それじゃあ色々不便に感じることも多かったでしょうね」
「ああ、その通り。食べ慣れた味がないのが特に辛かったな。カレーなんてまさにそうだ」
「私は割と最近記憶が戻ったばかりだけど、梅とおかかのおにぎりが食べたくなって困ったわ」
「あ~、こっちは米なんてめったに見ないもんな。たまに手に入っても、日本の米とは微妙に違うから余計に慣れた米が恋しくなるし」
「そうそう!」
同郷の信頼感とは凄まじいもので、すっかり打ち解けた二人は気安く話せる仲にまで急速に発展していた。
お互いに「ファルク」「リリーシュ」と呼び合い、楽しそうに話しながら街歩きをする様子はあっという間に人目を惹き、人垣まで出来る始末だったが、肝心の二人は全く気付いていない。
それだけお互いのことに夢中になっていた。
いい死に方ではなかったし、辛い思い出もあるけれど、やっぱり給食とか、満員電車とか、テレビの話が出来る存在って最高ね。
ファルクが先に記憶を取り戻してくれていた分、この世界でも応用が利く生活の知恵まで教えてもらえたし。
変な出会い方だったけれど、今となってはあのブローチには感謝したいくらい。
……あ、お店を通り過ぎるところだったわ。
「ファルク、この店でストールを買っていい?」
「ああ、この店だったか。……なあ、買い物が終わったら、タンドリーチキンもどきを食いに行かないか? さっきの前世を思い出した香りって、多分それだと思うんだよな」
「行くわ! もどきとは言え、こっちにもタンドリーチキンがあったなんて」
若い令嬢に人気の雑貨店に入ると、店内を物珍しそうにキョロキョロと眺めていたファルクだったが、ふと何かに気付いたように店の奥に進むと、一つを選んで戻ってきた。
「これなんかどうだ? リリーシュに似合いそうだ」
ファルクが広げたのは可愛らしいピンク色のストールで、桜に似た花が小さく刺繍されている。
「ピンク……。私には可愛すぎないかしら?」
「そんなことはないだろう。俺は黄色もいいとは思うけど、リリーシュにはピンクが似合うと思うぞ。ま、本人の好みが一番大事だけどな」
「……そのピンクのストールにするわ」
ピンク――それは前世のリリーシュが一番好きな色だった。
好きなのに、可愛すぎて似合わないと遠ざけていた色。
前世の彼氏もアンディも、リリーシュに色の好みを訊いてくれたことなど一度もなかった。
ピンクを選んでくれたことが嬉しい。
でもそれより、私を尊重してくれる気持ちが何よりも嬉しいわ。
リリーシュの喜びを噛み締める表情は、ファルクにもしっかりと伝わったらしい。
ファルクは密かにお会計を済ませると、まだフワフワした様子のリリーシュの肩にストールをかけてくれた。
「うん、やっぱり似合うな」
「え、あ、お金!」
「いいって。まあ、あれだ。出会いの記念ってやつだ。俺、こう見えて高給取りだからな」
ニッと歯を見せて笑う姿に、リリーシュも釣られて笑ってしまう。
「ふふっ。そうだった、あなたって偉い騎士様だったのよね」
「リリーシュも伯爵令嬢だもんな」
共通の前世の記憶を持つ二人には、今の立場などもうどうでも良かった。
自然な空気感を醸す二人は、そのまま屋台のチキンを食べに行き、これまでの人生について話した。
「じゃあ、前世では戦略シミュレーションゲームが好きで、その知識を元に騎士で成功したってこと?」
「そうなるな。まさかこんなに通用するとは思わなかったが」
ファルクは現在二十三歳だというが、武功の影には前世のゲームの知識があったというのだから驚きだ。
ちなみに、今日は部下の表彰を称えようと広場に顔を出していたらしい。
まあ、結局見られなかったわけだが。
夕方、リリーシュが送ってくれたファルクと共に屋敷に戻ると、伯爵家は大騒ぎになった。
こっそり抜け出していた娘が、かの英雄と寄り添って帰宅した挙句、「じゃあリリーシュ、またな」と去っていく将軍に、にこやかに手を振っているのだから当たり前である。
使用人たちは夢でも見ている気分だった。
その後、リリーシュは社交界だけでなく、国中の噂の的となった。
批判されると思いきや、ファルクとの自然体な様子が受け入れられたのか、何度か二人で出かけているうちに、ファルクとの仲はもはや勝手に公認扱いとなっていた。
いやいや、付き合ってないし!
大体、ファルクと私じゃ釣り合わないもの。
期待したい自分と、傷付かないように予防線を張る自分――リリーシュのファルクへの気持ちは明らかだった。
そして五回目の外出の時。
「リリーシュ、俺たちが付き合っているって噂があるらしいぞ」
「知っているわ。出会ったあの日にはもう噂になっていたわよ?」
「そうなのか? やはり俺は鈍いみたいだな……」
「それもファルクのいいところよ」
慰めるように微笑むリリーシュに、意を決した表情のファルクが真面目な口調で話しかける。
「リリーシュ」
「ん?」
「俺と付き合ってくれないか?」
「……え?」
「辛い恋をしたばかりだと理解はしている。だから無理にとは言わないが、前向きに考えてもらえるとありがたい。俺はリリーシュが好きなんだ」
驚くリリーシュだったが、もちろん答えは決まっている。
三股されたことはすっかり過去のことだし、今リリーシュの心に居るのはただ一人、目の前にいるファルクだけなのだから。
「私もファルクが大好きよ。三股を二度もされるようなマヌケな女でもいい?」
「もちろんいいに決まっている。ブローチを飛ばす剛腕も、街を駆け抜ける俊足も見事だった!」
「そこ!?」
「冗談だ。前向きでピンクが似合う可愛いリリーシュが好きなんだ」
「私も私自身を見てくれるあなたが好きだわ。ファルクがもし三股していても、今度は本命から奪ってやろうと思うくらいにね」
「するわけないだろう!」
こうして三股をあっさりと乗り越えたリリーシュは、ファルクという素敵な恋人を手に入れたのだった。
一方、広場で問題を起こしたアンディは、その後大変だったらしい。
婚約者の父である上官を敵に回してしまい、国境警備へ飛ばされたとか。
まあ、リリーシュにとってはもはやどうでもいいことで……。
「リリーシュ、遠征先で『なんちゃってクミン』を見つけてきた!」
「すごいわ! この前は『ターメリック的なもの』を発見したものね」
「ああ、これでカレーにまた一歩近付いたな!」
リリーシュはカレー好きな彼と、今日も幸せな日々を過ごしている。
お読みいただき、ありがとうございました!