4話 唸る顎 Ⅰ
「マスター、敵性反応です」
ブルブルとブレスレットを振動させながらシルバの声が発せられた。
「敵性反応って……」
ドスン! ドスン!
俺の声を遮るように、地面が、木が、森が揺れる。
目の前の木々から鳥たちが慌てたように飛び去る。
鳥たちだけではない。
森に来てから一度も目にしたことのない生物、ウサギやシカに似た動物たちが俺には目もくれず、我を忘れた様子で俺の横を走り去っていく。
ドスン! ドスン!
木々をなぎ倒しながら、その巨大な足音が近づいてくるのを感じる。
背中を嫌な汗がつたう。
まだ姿は見えていない。
見えていないにも関わらず、恐怖で体がすくんで動かない。
敵意を感じる。明確な敵意を。
「なあ、シルバ」
「はい、マスター」
「今から逃げられるか?」
「不可能かと。既に私たちは補足されています。身体能力から考えても不可能です」
そして俺の前に足音の主が姿を現した。
長い尻尾に、生え揃った鋭い歯。
茶色と緑の中間のような色をした体。
見た目は俺が異世界に来てから追い掛け回され、最後には魔法で倒したワニと変わらない。
だが、目の前に現れたワニはあまりにも大きかった。
観光バスを知っている人間は多いだろう。
生きていれば乗ったことがない人の方が少ないであろう乗り物だ。
観光バスは身近な乗り物ではかなり大きいのではないのだろうか。
目の前に現れたワニは、観光バスと同等、いやそれ以上だ。
俺の知っているワニなんかじゃない。
恐竜だといわれた方がまだ納得できる。
そして、怖い。
俺を追いかけ回したワニとは比べものにならないほど怖い。
理由は分からない。
だが、雰囲気からして別の生き物だ。
ゆっくり、ただゆっくり近づいてくる。
「マスター。逃走は不可能。この場で撃破、もしくは撃退が必須です。魔法の準備を」
何言ってんだこいつは?
無理だ。絶対に無理だ。
巨大なワニの目が、この場に現れてからずっと俺に向いている。
「マスター。魔法の詠唱を実行してください」
見られているだけなのに、体は動かない。
シルバに返事をしようと思っても、声が出ない。
撃破しろって?
動いたらその瞬間俺は殺されるだろ!
ワニの目が焚火の跡に向く。
そこには、俺が倒したワニを捌いた痕跡があった。
血が流れ、内臓の一部がある。
再び、巨大なワニは俺に目を向ける。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
その雄たけびは、大気を揺らした。
ワニはその巨大な口を大きく開ける。
ギュイーンと音を立てながら、高温のエネルギーが収束していくのが見える。
「マスター。回避行動を」
わかってる!
動かなきゃいけないのは、動かなきゃ死ぬのは分かってる!
でも動かないんだよ!体が!足が!
「マスター。回避行動を」
ワニの巨大な口はさらに輝き、熱が上がる。
無理だ。
死ぬ。
「マスターとの意思疎通が不可と断定。緊急身体操作システム、作動開始」
シルバの無機質な声が発せらた次の瞬間、俺の視界はワニの巨大な口が放つ光によって完全に遮られる。
轟音が響き渡る。
痛みはない。
ただ、俺がさっきまで立っていた場所が広範囲に渡って抉られ、吹き飛んでいた。
後方の木々もなぎ倒され、綺麗な森は見る影もない。
俺の体は、なぜか地面に伏せていた。
そして、俺はワニの背後にいた。
ワニの巨大な口からレーザーのように魔法が放たれる寸前、俺の体が勝手に動いた。
震えるだけで動かない体が、なぜか動いた。
多分、シルバが動かしてくれたんだろう。
俺は立ち上がる。
だが、それ以上動く事が出来ない。
怖い。ただ怖いんだ。
震える体に動けと念じても、金縛りにあったように動かない。
「マスター。先程のように、私がマスターを動かす事は出来ません。これ以上私がマスターの体を操作すると、体が内側からボロボロになってしまいます。
このまま動かなくても、マスターは死亡します。
即、撃破または撃退を」
「出来るわけねえだろ!」
俺は怒鳴り散らかす。
「怖いんだよ! 本気で殺しにくる奴なんて日本にいねえ!
お前は人工知能だかAIだか知らねーけどこっちは高校生だぞ!
いきなりこんな化け物倒せとか、そんなの無理に決まってるだろうが!
全部が全部思い道理には動けねえ!」
「マスターの生命活動が停止した場合、私の機能も失われ、二度と復旧する事はありません。
私とマスターは一心同体です」
震える俺にシルバは機械音で語る。
「私は私という存在がなくなる事を何とか防がなければなりません。そうしなければ契約を果たす事が出来ないからです。
人間風に言えば、まだ死にたく無いのです。
マスターが極度の恐怖状態にあるのはわかっています。
それでも、ここで動かなければマスターと私はまとめて死にます。
今、動いて戦うのです」
巨大なワニは振り返り、俺に向かってゆっくり近づいてくる。
死にたく無い。当たり前の事だ。
……情け無い。
確かに目の前のワニは遥かに大きく、明らかに俺より強い。それが俺を殺そうとしてくるんだ。怖くて震えて動けなくて、それの何が悪いってんだ。
でも、やっぱり情け無い!
こんなところで死んでたまるかッ!
「クソッ! 動け! 戦え!」
震える左手を右手で支える。
動く!
「シルバ!」
ワニの巨大な体目掛けて、左手を前に突き出し、叫ぶ。
「火炎!」
体が後ろに飛ばないよう、強く踏ん張る。
左手から火の玉が、ワニの巨体目掛けて放たれる。
ボン! と爆発したような音がした。
魔法が爆ぜ、その巨体を揺らす。
しかし、唸りながら巨大なワニは怒りに燃えた瞳で俺を睨みつける。
ワニの体からはモクモクと白い煙が上がっているが、とてもじゃないがダメージを与えられた様子じゃない。
「マスター。大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ。ごめん。もう戦える」
「では、出力全開起動します」
シルバが沿う言葉を発すると、ブレスレットからナイフへと変化した。
眼鏡をかけているかのように、小さな魔方陣が俺の両目の前に浮かぶ。
それだけじゃない。体が異常に軽くなった。まるで、体重がどこかへ消えてしまったかのように。
「お、おい、シルバ!? なんだこれ!?」
「マスター。後ろに回避を」
シルバの言葉を最後まで聞かずに、俺は後ろに飛んだ。
なぜか? 見えたからだ。
眼鏡のレンズのように浮かぶ魔法陣が、映し出していた。
巨大なワニの尻尾が振り下ろされる場面を。
俺が後ろに飛んだ瞬間、俺がさっきまでいた場所にはクレーターができていた。
ワニの振り下ろした尻尾は容易く地面を削り取る。
オマケにこの観光バス並みの巨体をしたワニは、その体からは考えられないほど俊敏に動く。
こりゃヤベェ。当たったら確実に死ぬぞ。
後ろに飛んだ俺は、地面ではなく木の枝に着地していた。
どうなってんだ? 身体能力が急に……まただ!
再び両目の魔法陣に、ワニの姿が映し出される。
ワニは、その巨体を起き上がらせ、巨大な口と強靭な顎で枝に噛みついている場面だ。
俺は木の枝から飛び降りた。
普通なら怪我をしてしまうような高さだが、痛みすらない。
上を見上げると、枝はおろか木の幹ごとへし折られる。
おかしい。
ただの一般人の俺が、急に身体能力が上がってる。
しかも、このメガネみたいな魔法陣はワニが動く直前にワニの次の動きが見える。
俺が何度も攻撃を回避しているからか、巨大なワニは一度動きを止め、俺を睨みながら低く唸っている。
「おい、シルバ! 俺の身体どうなってる!?」
「肉体強化を作動。一時的にマスターの身体機能を向上させています。
加えて、戦闘用予測眼を作動。敵の筋肉の動きを検知して、次の動きを演算し映像として映し出しています」
つまり、今の俺は肉体強化ってやつで超人的な動きが出来るかつ、予測眼ってやつで相手の動きが分かるって事か!
流石、異世界のハイスペックブレスレット!
「これなら逃げられるんじゃねーのか?」
「それは不可能です。敵は強化したマスターの身体機能とほぼ同等です。逃げ切る事は出来ません。
加えて肉体強化と予測眼は多くのエネルギーを消費します。よって血液が不足する可能性があるため長期戦には不向きです。
出力全開残り稼働時間は2分を切りました」
もう2分もないのか……。
時間は限られている。
「じゃあ、その間に倒すか追い払わなきゃいけないんだな?」
「その通りです、マスター」
やるしかない。
やらなければ、シルバもろともあの世行きだ。
「なんか策はあるか?」
「敵の強力な魔法攻撃を誘いましょう」
「強力な魔法ってあの地面を抉って森をぐちゃぐちゃにしたあの技か!? あんなん食らったらおしまいだろ!」
「はい、マスター。食らったら骨すら残らないでしょう。
ですが、威力が高い反面隙が多いです。口の中でチャージを行う必要があり、時間が掛かります。
今のマスターであれば回避は容易かと。
そして、多くのエネルギーが溜まった敵の口内に強力な魔法を放ちます。
マスターは素早く動き敵の攻撃を回避しながら、ナイフあるいは拳での攻撃を繰り返してください。
攻撃するべき場所はこちらで表示します」
「わかった。もうやるしか無いしな! 行くぞ!」
俺は地面を蹴った。
驚くことに、一瞬でワニの真横に移動していた。
もう俺の体ではないみたいに、体が動く。
素早く、俺のイメージ通りに。
だか、一瞬でこの場所がワニの尻尾が向かってくる場面が見えた。
巨体の横っ腹に赤く印が付いている。
恐らく、ここがシルバの表示した攻撃するべき場所!
ワニの尻尾よりも速く!
渾身の一撃を!
俺はナイフを持つ左手では無く、右手で思い切り横っ腹に拳を振り抜いた。
鈍い音が響き渡る。
巨体が宙に舞う。
空を舞った巨体はすさまじい音を立てて地面に叩き付けられた。
木々は折れ、土煙が舞う。
……マジかよ。
いや、思い切り殴って吹き飛ばしたのは俺だけどさ……。
「……なあシルバ」
「なんでしょう、マスター?」
「お前チートすぎじゃね?」
「褒めていただいているのでしょうか?」
「まあ、褒めているっちゃ褒めているけど、若干引いてるというか、一般人が出していい火力じゃ無いというか……」
「火力については、不足しているかと。
あれを見れば分かると思います」
土煙の中からその巨体が姿を現す。
巨大ワニは、何事もなかったかのように、こちらをにらみつけてくる。
「……ピンピンしてんじゃん」
まあ、なんとなく殴った瞬間にわかっていたことではある。
ヤツの分厚い皮と強靭な筋肉はまるで鎧だ。
殴った俺の拳が、じんじんと熱い。
「敵はいくら攻撃を受けても致命傷には至りませんが、マスターは敵の攻撃が掠っただけでも致命傷になる可能性が極めて高いです。
サポートします。すべて回避です」
「任せたぞ!」
もう一回横っ腹だ! 今度はナイフで抉る!
俺は左手のナイフを強く握る。
地面を蹴り、加速。
だが、予測眼に映る俺は前足で潰されていた。
これは間に合わない!
手前で止まる! んでもって……。
ジャンプ!
観光バス程の巨体を軽々と飛び越える。
うわ高!
めちゃくちゃ怖いけど、この強化された体なら……。
俺は頭と足を入れ替えるように上下に回転させ、頭を地面に、両足を空へ向ける。
「シルバ! 俺の足の裏に硬い板かなんか出せるか!」
「血が一滴あれば可能です」
俺は腕をナイフで傷つけ、一滴の血を垂らす。
不思議なことに痛みはない。
その血は意思を持っているかのように俺の足の裏へと飛び、一瞬にして円形の赤黒い板を形成した。
よし! いくぞ!
強化された両足で、形成された足場を蹴る。
強化された両足の蹴りプラス重力!
とんでもない加速で視界が歪む。
だが、ワニの体は巨大だ。
多少視界が悪くても問題ない!
「オラァ!」
全体重をナイフにかけ、巨体の背中に両手でナイフを突き刺す。
そして、肉を抉るように捻る!
「GYAAAAAAAA!!!!」
巨大なワニの、悲痛な絶叫が響き渡る。