溺愛される妻が記憶喪失になるとこうなる
呼ばれたお茶会で出された紅茶を飲んだ瞬間、私は頭が締め付けられるような痛みを感じて、そのまま気を失いました。
そして、次に目を覚ました時、目の前にいたのはキラッキラの金髪のイケメンでした。
「アビー、起きたか!? 体はなんともないか!? 大丈夫か!? 無事か!?」
「……………………?」
さてはて、このイケメンは誰なのでしょうか。
ベッドに横になっている私の顔をのぞき込むように、身を乗り出しています。
「あの、どちら様でしょうか?」
「え……」
その男性は、大きく目を開きます。
ものすごくショックを受けたような顔をしていますが……。
「アビー、分からないのか!? 俺だ! ウィントンだ!」
「………………?」
そう言われても、全く見覚えなど……って、あれ?
「あの、アビーというのは、私の名前でしょうか?」
そもそもそこから分かりません。
これは困りました。私は何かおかしいのでしょうか。
「医者だ! 医者を呼べ!!!」
目の前の男性の方は私などよりよほど慌てたご様子で、大声で叫ばれたのでした。
*******
「記憶喪失でございます」
お医者様らしい方がすぐいらっしゃり、色々質問された後に下された診断が、それでした。
まあ、納得です。だって、自分の名前も、周囲にいる人たちの事も、これまでのこと全て何も覚えていないのですから。
「そ……そんな……」
記憶を無くした私より、目の前の男性の方がよほど具合が悪そうな気がします。
大丈夫でしょうか。
「も、戻す方法はないのか!? どうしたら記憶は戻る!? 戻らないとは言わせないぞ!」
「旦那様、落ち着いて下さい。お医者様の首を絞めてしまっては、答えることもできません」
そう言ったのは、後ろに控えていた方です。
落ち着いた声に、首を絞めていた力は緩んだようで、お医者様は咳き込んでいます。
「これが落ち着いていられるか! アビー、本当に何も覚えていないのか!? 俺はウィントン・スミス。スミス公爵家の当主だ! そして君は、アビー・スミス! つい一ヶ月ほど前に結婚したんだぞ!」
私は目を見開きました。
これはさすがに驚きました。
目の前のイケメンは、私の旦那様だそうです。
「俺と君は小さい頃からずっと一緒で、幼い頃からの婚約者で、例え死んでも一緒にいようと誓い合って……!」
「旦那様、奥様に記憶がないのをいいことに、嘘を教えませんように」
ゴホン、という咳払いと共に言われた言葉に首を傾げました。
……今、嘘と聞こえたような?
私が視線を向けると、それに気付いたのか柔和に笑って、会釈をされました。
「ザドックと申します。この屋敷の執事をしておりますので、何かお困りのことがありましたら、何でもお申し付け下さい。この男の処分に困る、という内容でも受け付けますので」
「……この男?」
「はい、このどうしようもない、嘘つきの旦那様のことです」
「待てザドック! 俺がいつ嘘をついたというんだ!」
旦那様らしい方が言うと、執事という方の目がつり上がりました。
「嘘ではないのは、一ヶ月前に結婚したという事だけでしょう。小さい頃から一緒にいた? 幼い頃からの婚約者? それのどこが、本当だと?」
「俺の妄想の中では、本当だ!」
「妄想と言っている時点で、嘘だという事にお気づき下さい」
ポカンとそれを眺めていましたら、別方向から声を掛けられました。
今度は、女性の方です。
「奥様、旦那様の言う事を信じてはなりません。私はヤスミンと申します。この屋敷の侍女たちの取りまとめをしております。旦那様に不埒な真似をされた、という事も含め、何でも仰って頂ければ、対処致しますので」
「……はあ」
「待て! 俺の妻だぞ! 不埒な真似をすることの、何が問題だ!」
ヤスミンと名乗った方は、ジロッと旦那様らしい方を睨み付けます。
先ほどから思うのですが、執事のザドックさんという方も、このヤスミンさんという方も、旦那様らしい方に雇われている方々だと思うのですが、その割に扱いが雑です。
「奥様が旦那様と出会われたのは、高等科に入学した日、つまりは十六歳の頃と伺っております。奥様に一目惚れした旦那様が公爵家の権力を振りかざして、没落しかけの男爵家のご令嬢だった奥様と無理矢理婚約したとか」
「え?」
「無理矢理じゃない! ちゃんと了承は取ったぞ!」
「しっかり公爵家の名前を出しておりましたよね。そんなことをされたら、男爵家側が否と言えるはずもございません」
「金銭支援までちらつかせていたそうで。奥様はご家族と領民のことを思い、婚約を了承されたのです。これが無理矢理でなく、何だというのでしょうか」
ヤスミンさんは、わざとらしく顔を覆って、おおおお、と泣き真似をしています。
話を聞いてもちっとも思い出せませんが、旦那様らしい方が最初に話した内容とは、天と地ほどもかけ離れていることは理解しました。
「ちゃんと大事にしたぞ!」
「いつでもどこでも側に置いて、離れることを許さなかったのを、大事にしたと仰るのでしょうか」
「あまりにも独占欲を丸出しにするものですから、他の貴族令嬢の嫉妬が同情に変わるまで、そう時間がかからなかったことだけは良かったかも知れませんが」
「あれは良かったと言えるんですかね。旦那様のせいで、奥様は他のご令嬢方との交流がほとんどできなかったというのに」
やれやれ、というザドックさんとヤスミンさんの仕草に、旦那様らしい方が何やら悔しそうにされています。
「お、お前らな! 俺は主人だぞ! もうちょっと敬え!」
「敬って欲しいなら、それなりの言動をして下さい」
「全くです。こんな男に目をつけられたばかりに……。奥様がお可哀想です」
「だから、もうちょっと敬えと言っているだろう! 大体だな、惚れた女を囲うことの、何が悪い!」
「何事にも限度があることを、学習するべきです」
えーと……。
やっぱりポカンとするしかできません。
なんだかんだと仲は良さそうだというのが分かったくらいでしょうか。
「ところで旦那様。奥様の記憶がどうなるのか、伺わなくてよろしいのですか?」
「いいわけないだろう! お前らが余計な茶々を入れてくるから、聞けなかったんじゃないか!」
いえ、元々は嘘を言い出したせいだと思うのですが。
ザドックさんとかヤスミンさんの表情を見る限り、私と同意見のようです。
「で、どうなんだ! アビーは、アビーはどうなるんだ!?」
首を絞めてはいませんが、お医者様に迫る顔は……こう鬼気迫るものがあります。
ちょっと怖い、と思ってしまったのは内緒です。
「あ、その、奥様が記憶を無くした原因は、薬によるものです。特殊な薬で、心に病を持つ者に対して、医師が処方することがある薬です。医師の診察なしには処方されない薬で、ましてや他者に飲ませるなど、あってはならない薬なのですが」
すごく汗をかきながら、お医者様が説明して下さります。
あのお顔を正面に見ながらでも説明できるってすごいです。
「その、完全な薬ではないのです。なくした記憶と同じような経験をすると、どうしても記憶が戻ってしまう場合がございまして……」
「なるほど。そういうことか」
答えた旦那様らしい方の顔は、怖い表情……なのですが、先ほどの鬼気迫るものとは違って、ひどく冷たいように見えます。
「ザドック、証拠を集めろ。叩き潰すぞ」
「承知致しました」
丁寧に頭を下げるザドックさんは、先ほどまで旦那様らしい方をからかっていたとは思えないほどです。
「ヤスミン、俺はアビーとこもる。邪魔するなよ」
「……仕方ありませんね。かしこまりました。あまりにも長いようでしたら突撃致しますので、そのおつもりで」
ヤスミンさんも丁寧に頭を下げます。
そして、お医者様を伴って、ザドックさんと一緒に出て行かれ、私は旦那様らしい方と二人、部屋に残されました。
「あの……?」
どうしてこういう状況になったのか、分からなくて旦那様らしい方を見れば、なぜか身もだえておりました。
「上目遣い……。ああ、もう、どうしてこう、かわいいんだ……」
「はい?」
やはり何のことか分かりません。
首を傾げると、旦那様らしい方はオホンとわざとらしく咳をされて、私の両脇に手をついてきました。
「すまない。やはり君をあの家のお茶会に行かせるべきではなかった」
「え?」
「当主は我が家を敵視しているし、娘が俺の正妻の座を狙っているのは知っていたが、まさかこんな手段に出るとは思わなかった」
「……え?」
何のことか分からないので、疑問を繰り返すしかできません。
そんな私に、旦那様は少し寂しそうに笑いました。
「あの家は叩き潰す。二度とアビーに辛い思いはさせない。だから、安心して記憶を取り戻してくれ」
どうやって。
と思ったら、旦那様が身を乗り出してきました。
「眠り姫の目を覚ますのは、王子からのキスだろう?」
「は……」
……何のこと、という疑問は、口に出せませんでした。
旦那様らしい方から、突然、その……口付け、されて……。
「アビーの記憶が戻るまで付き合うからな。心配しなくていいぞ。なくした記憶と同じ経験なら、いくらでもしてやれる」
どんなことなのでしょう、という疑問は口には出せませんでした。
ベッドに押し倒されて、頭が大混乱に陥っておりましたので。
*******
翌朝、私は無事に記憶を取り戻していました。
そのためにウィントン様がしたことのせいで、燦々と陽が差し込んでいるくせに、ベッドから動けないという結果になりました。
グッタリしながら、世話をしてくれているヤスミンに問いかけます。
「……ねぇ。私に薬を盛ったご令嬢、どうなったの?」
「さて。ご令嬢だけでは済まないようではありますが、それ以上詳しい事は何も」
「……そう」
本当にヤスミンが知らないのかどうかは分かりませんが、そう言うということは、私に教える気はないのでしょう。
ウィントン様をこき下ろすことの多いヤスミンとザドックですが、忠実な部下でもあります。ウィントン様が良いと言わない限り、私の言葉を優先する事はありません。
「奥様、一つ伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
「なに?」
「今、幸せですか?」
その唐突な質問に、私は目をパチパチさせます。
何とか顔を動かしてヤスミンを見ると、どこかその表情は強張っているように見えました。
私はフッと笑います。
ウィントン様が何をどう言おうと、婚約は無理矢理でした。私に断る権利なんか、なかったんですから。
それでも。
「ウィントン様との結婚は、間違いなく私も望んだ事だから。幸せよ」
時々、早まったかなと思う事がないわけではありませんが、今となってはウィントン様以外の男性など、考えることもできません。
私も間違いなく、ウィントン様の事が好きなんです。
「ありがとうございます、奥様。あのような旦那様を、大切に思って下さって」
ヤスミンも笑顔を見せてくれました。
ウィントン様をこき下ろすような発言が混じっているのをツッコむのは、野暮というモノでしょう。
「奥様。不躾な質問に答えて頂き、ありがとうございます。旦那様はこちらに近寄らせませんので、ごゆっくりとお休み下さいませ」
頭を下げるヤスミンの言葉に私は苦笑して、そこが体力の限界でした。
そのまま私は、眠りに入ったのです。
だから……。
「旦那様、証拠が揃いました」
「よし、叩き潰しに行くぞ。……その前に、アビーに一目会いに」
「なりません。会いに行ってしまえば、一目では終わりませんから。参りましょう」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
「いやだー! アビー!」
容赦なくウィントン様を引きずるザドックと、冷静に挨拶するヤスミン。そして、手を伸ばして絶叫するウィントン様の様子を、知ることもなかったのでした。