序章1 『知らぬ世界で殺人犯』
寒い。暗い。
徐々に固まっていく体と、視界の端から垣間見える光が深い闇に包まれていくのは同様だった。
今日も夜が来る。
世界の隅でこの世を憎み、肉親を恨み、そして自分を傷つけたくなる夜が。
どうしようもない少年は、微かに自分の温もりが残っている毛布に身を寄せた。
「はぁ。腹、減ったな…バイト代もとっくに底をついたし、バイトもクビになるし……」
少年の声は想像していたよりもずっとか細く、不安の色が見えた。
そして、なにか食べられるものがないかと真っ暗に閉ざされた視界の中に手を伸ばす。
無作為に動かされる少年の腕は、床に溜まった埃や土をかき乱していた。
「ん、何だ、これは。温かい」
いつも通りなら、手には固く冷たい床の感触しか感じないはずが、今日というこの日は少年の手が何かを感じ取った。
温かく、触り心地のいい。
それを一肌触ると毛皮のコートだと勘違いしてしまう。
「アン!」
「ッ、っくりしたぁ」
突如として動き出すその物体に、少年は悲鳴を噛み殺しながら驚きを見せた。止まらぬ鼓動に戸惑いを見せる少年だが、それも徐々に落ち着いていく。
「何だこの犬ころ。飯なんてねぇよ」
「くぅん」
少年は犬に喋りかけた。
何故今ここに犬が現れたのかは深く考えないが、ご飯が欲しそうだったので、少年はそれは叶わないと伝えた。
すると、雰囲気で分かったのだろうか。犬は悲しげな声を上げ、その場に後ろ足を折って座った。
「ごめんな。僕もご飯が欲しいところなんだ」
少年は尚も話しかける。人との関わりが最小限に減った少年にとって、この犬が、今唯一の話し相手となっているからだ。
「はぁ、目を覚ました、ら暖かい野原だったらな。この家は寒い。辛うじてあった食べ物も、今となっては、少なくなったし……」
「アン!アン!」
元気のある犬の声を聞きながら、少年は毛布を目元に持っていき、強制的に視界を閉じた。
「ああ、温けぇ。カイロみたいだ。使ったことないけど……そんな気がする」
先程の凍えそうな寒さとは縁の遠い、遥かに温かい気温が少年の体を包んだ。
そして異常なまでの気象変化に気づかないほど、少年も馬鹿じゃない。
「――」
静かに目元を隠していた毛布を外し、ゆっくりと目を開いた。
色鮮やかな野原の花々。それらを飛び回る虫の数々。
眩しいほどの太陽が、こちらを覗いてくる。
「―――」
こんなことがあり得るのだろうか。昼夜が文字通り逆転し、時間帯だけではなく、場所すら移動してしまうことが。
「ああそうか。僕は寝相が悪いからこんな場所まで来ちゃったんだな。悪い子だな僕も……うん」
「アンアン!」
「まだ居たのか」
少年が現実から目を背け、自己暗示をかけようものなら、犬が吠えてくる。
まるで「お前は馬鹿か?」とでも言いたげな声音で。
すると、後ろから足音が聞こえてきた。
「――ふぅ。疲れましたぁ。アナタを探すのにどれだけの時間を費やしたと思っているのですか?」
「え?――ぁ」
そこに居たのは目隠しをした黒と白の祭服を身にまとう銀髪の女性だった。女性の目元が見えずともとんでもない美人だとは分かる。
が、異様なのがその容姿ではなく体型の方にあった。背中からドス黒い影のような腕が何本も生やしていたのだ。
恐怖だった。
少年の劣悪した生活環境上、チンピラやカツアゲ、酷いときには強盗だって日常茶飯事で、危機察知にとってはスペシャリストと呼べる。
しかし、そんな修羅場をくぐり抜け続けた少年でも動悸や手の震え、体にあらゆる異常をきたしていた。
「さぁ、」
「ひっ――!」
禍々しい雰囲気をまとう女性が細くしなやかな右手を差し出してきた。
異常を感じ取ったのはその女性の白い腕を見た時だ。白い肌に垂れる赤黒い液体がチラチラと服の裾から見えてしまった。
顎が震え、歯をカチカチと鳴らしながら目元から涙をこぼす。
そして少年は腰を抜かし、手を器用に使って後ろへと下がっていく。
「アンアン!」
「うるさいなぁ」
犬が少年のために全力で吠えた。吠えて吠えて、そして女性は不快そうな顔をする。
一瞬、女性は吠え続ける犬を蹴る素振りを見せる。
しかし、その足が犬に届くことはなかった。一度、女性はため息をつき、視線を再び少年に戻す。
「で、あんまり乱暴はしたくないんのだけれど?」
「ご、めんなさい。ゆる、して、下さい。なん、何でもするの、デ。命、命だけはぁ!」
頭を地面に押し付けて、少年は必死に許しを乞う。みっともなくていい。情けなくていい。
今まで培ってこなかったプライドだからこそ、少年は今土下座をしている。
「うーん。仕方ないな――」
許してくれたような台詞が頭上から聞こえ、少年は顔をゆっくりと上げる。
「あ、アア!」
「――楽に死なせてあげるよ」
先程の女性の凛とした表情からは想像できないほど今の女性の表情は陰湿で卑劣で狂気に満ちていた。
――そんな時だった。
『――ボゴォォォォォン!!!』
前方から凄まじい爆発音が聞こえてきた。少年は熱風に体を押されながらも、何とか身をこらえた。
「くっ!……ごほっこほっ。何だ?何があったんだ」
凄まじい轟音とともに視界が黒に塗りつぶされる。微かに野原が焼き焦げる匂いを感じ取り、ようやく少年は危機に陥ったと考えた。
それと同時に、真っ暗な視界の端に見えた女性が吹き飛ばされていることを確認する。
「あれ?あの人大丈夫か?」
少年は倒れてしまった女性が心配で少し近寄った。自分の命が狙われていると分かっているのに。
「アンアンアン!」
「うわっ!……っと、犬」
女性へと向けた一歩を犬に噛まれ、少年はバランスを崩しその場に倒れてしまった。
そして徐々に、少年は自分の立っている立場を理解し、森の方に足を向ける。
「そうだよ……逃げよう!」
そして駆け出した。
――――――――――
「はあ、はあ、はあ」
足音を殺しながら、森の奥深くへと足を運ぶ。静かに逃げたいのだが、息の切れる音だけが止まない。
ひとまず自らを落ち着かせるために少年は口から声を出す。
「――何か助かった。あの、爆発は何だったんだ?」
「あん!」
「ああ、そうだな。取り敢えず逃げよう!」
そう言って少年は詰まる息を殺しながら足を前に運んでいく。全力で、肌身に伝わる「死」から逃げるために。
「はあ、あっ!」
「アンアン!」
足を止めてはならない少年は、地面に張り巡らされていた太い木の根に足を引っ掛け、膝から派手に転げた。
痛みに顔を顰めながら、怪我をした膝の部位を見る。
すると、皮が完全に剥がれ、汚い断面図を見せながら血液が溢れ出ていた。
「ああっ!クソ……痛ぇ」
しかし少年は立ち上がる。痛みよりも恐ろしいものに、「死」に追われているのだから。
「クソッ……ああもう!腹が減った!のどが渇いた!足が痛い!」
挫けそうになる原因の数々を少年は口から吐き捨てるように言う。
そして徐々に体力も無くなっていく。
体力もなくなれば、次第に心もすり減っていく。
「ああ、もうどうでも……」
いいや、と心の中で唱えた刹那、奴は姿を現した。
「やっと追いついた……」
先程よりもフラフラとあっちへこっちへとバランスを崩しそうに歩く女性は、顔から血が出ていて、腕がダランと力なく垂れ下がっている。
両者ともに満身創痍とでも表せる状態。
しかし、先に仕掛けたのは言うまでもなく女性の方だった。
禍々しくも神々しくもあるその黒い腕が少年に向かって振り落とされる。
「アン!」
「ぐおっ!」
完全に見切れなかった黒い腕が少年の頭に直撃する寸前、土で汚れた犬が少年の横腹に突撃し、バランスを崩した。
そしてそれが功を奏し、少年は閃光の如く動く黒い腕から逃れることができた。
「何だよその腕!日焼けサロン通いすぎだろ!」
乱れる鼓動を落ち着かせるために、少年は黒い腕に文句をつけながら犬の硬い毛を撫でる。
「がフッ!……ゴホッゴホッ」
「何だあいつ。急に血を吐いたけど……」
もしかしたら彼女も限界が近いのかも、という可能性が少年の頭の中に浮かんだ。
そして調子に乗った。
化け物が弱っているなら逃げればいい話なのに、少年はその逆を行く。
「ここであいつを仕留めれれば……」
仕留める方法が明確に思いつきもしないのに少年は言った。
最も自分の「死」と近しい彼女の存在が、少年にとってただひたすらに恐怖だったのだ。
「石、木の棒。割と太いからいけるか……?」
人を思い切り殴ったこともない少年はブツブツと思いつきを口にする。
そして手にしたのが、石と棍棒だ。原始人でもあるまいし、マシな装備が見つからなかった少年はそれらを手にして女性に近づいた。
それが少年の命を減らしていく。
「やっと近づいてくれた……」
「あ……え?」
ブハッと口から熱い液体が飛び出した。赤くて黒い残酷の色を宿した液体が。
ゆっくりと視線を下に下げると、黒い闇を纏った腕が胸を貫いていた。
少年は体に力が入らなくなり、その場に膝から崩れ落ちる。そして次第に全身の力も抜ける。
「あ、つあ、たすけ……ああ!アアア!!!」
「―――」
目から大量の水分が零れ落ち、歯を食いしばり、ギシギシと音がするのを覚える。
そして女性は少年を見つめながら、そろりと自分につけていた格好のいい目隠しを、外す。
「ひっ……!」
「――うるさいなぁ」
口角を上げ、笑みを作る彼女。
最後に見たその女性の瞳は、闇よりも深く、悪よりも黒かった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
血を飛び散らせた少年の死体を見て、女性は頬を緩めた。
「ようやく、私に戻るのね」
彼女はそう言って、少年の死体の胸あたりをめがけて手を伸ばす。
深紅に満ちた彼女の細い腕が少年の胸に到達した。
その時。
「ごほっ。あっ、なんだこりゃ。体が痛えな」
「―――あなたは誰なの!?」
いきなり動き出すのは少年の死体だ。口調が少し変わったなどの事柄には触れずとも、死体が動き出す時点で既に常識を逸脱している。
そんな状態の少年を見て、珍しくも女性は取り乱す姿を見せた。
「ん、なんだあんた…………ああそういうことか」
何かを悟った少年はその場から立ち上がる。女性は未だに呆然としていた。
体の胸の部分に穴が空いているのに少年が動けるはずがないのだ。
しかし、少年は目の前で立っている。穴の塞がった胸と、穴の空いた服を見せて。
「取り敢えずあんたも、俺も、ボロボロの状態って感じだからすぐに決着は付きそうだな」
先程、少年が持っていた棍棒を手に取り、その感触を確かめる素振りを見せる。
そして棍棒の先を女性に突きつける。
「ああ、私もここまでね」
「あばよ。べっぴんさん」
二人はそれぞれの想いを言い合い、少年の持つ棍棒は女性の脳天に的中した。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「ん、ああ、えっ!胸の穴がない!……」
目を覚ますと木の生い茂っている森の中。そして少年は空いたはずの胸が塞がっていることに驚きを見せた。
「アンアン!」
「――ぇ」
犬の声のする方を少年は見ると、そこには――血だらけの肉片をばらまいた女性の死体があった。
「悪魔……」
女性の死体からは黒い翼が生えていた。そのせいで、少年は彼女の死体を悪魔と錯覚してしまう。
そして――、
「あ、あぁァァァァァァ!!!」
少年の掠れた悲鳴は森の中で木霊する。獣が暴れ、草の擦れる音がやけにうるさく耳に残る。
人を殺した。
腰を抜かした少年は、頭の中に浮かんだ直感に従い、同時に恐怖した。
「殺した、記憶なんてナイ、のに」
僕の知らない誰かが殺しを犯した。少年は働かなくなった頭を必死に回し、それらしい結論を出した。
「うっ……おえぇぇえ!」
少年の黒い瞳の焦点を、ピッタリ女性の死体に合わせたまま静止した。
次第に気分も悪くなり、空っぽの胃から黄色い何かが逆流してきた。
「はあ、はあ……あれ、犬が、いない……」
黄色い液体で汚れた口元を手で乱暴に拭う。そして少年はここまで着いてきていた犬がいないことに気づく。
足音が聞こえてきた。優しい足音だ。
「―――」
しかし、先程の女性じゃないとしても、少年の中には恐怖として刻まれていた。
背後の足音がこれほど恐ろしいものなのかと。
「君がこの女性を殺したのかい?」
「あなたは……」
スーツ姿で前髪を上げた黒髪の、目測で二十代の男性はこちらをニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて聞いてきた。
「俺?俺はニホン警察、邪神教犯罪課ケイシの……」
流暢に自己紹介をする男性は、沈黙のままの少年に話を続けた――、
「――オリバ・ルーズバル。殺人犯の君に手錠をかける者の名だよ」
「……へ?」
間抜けた少年の声は、森の葉音にかき消されていく。
口を大きく開け、目を見開いた少年の顔はまさに鳩に豆鉄砲のようだった。
「君の名前は何だい?」
オリバという男は、耳たぶを触りながら少年の名前を聞いた。
そして薄っぺらい笑みを作る。
そんな彼の様子を見て、少年は警戒をより深めた。のだが――、
「天ジ……」
「何?」
うつむきながら何か呟く少年の顔を覗くようにオリバは再び聞いた。
耳に手を当て、ダンボのように大きくさせて、一言一句聞き逃さない姿勢のまま、今度も薄い笑みを浮かべていた。
「――アマジキ」
「アマ、ジキ……」
少年は顔を上げ、一つ、自分のファーストネームを言う。
すると、オリバは救世主でも見たかの様に目を大きく見開いた。
しかし少年はそれに動じず、再び口を開く――、
「――アマジキ・ミナト。僕の名前だ」
新参者です。文章構成など他の小説に比べると劣っているのがよく分かりますね。
ですがこれから頑張っていくので応援よろしくおねがいします。
投稿は不定期です。ご了承ください。