閑話 黒猫ミーニャの世界(1)
その黒猫の一番古い記憶は、使い古された木箱の中で、空腹に耐えながら「みゃあ」と鳴き声をあげる、そんな記憶だった。一日、人が近づくたびに鳴いて、鳴き疲れたら、半分閉まった蓋の奥に身を隠して、身体を丸める。そうして、箱の中に敷かれた真新しい麻布の心地いい香りに包まれて、眠りにつく。そうして時が過ぎて、街の喧騒と共に目を覚ますと、再び「みゃあ」と鳴き声を上げる。そんな一日を繰り返す。
木箱の外に、拙く書かれた「ひろってください」「えさをあげてください」という文字のせいだろうか、ただ鳴くだけの子猫も、かろうじて生きのびるだけの餌にありつくことができた。それでも、少しずつ弱っていくのを自覚する子猫。やがて、自力で餌を探すことを知らない子猫も悟る。――このままでは、生きていくことはできないと。
そうして、もらった餌を食べて、なんとか動けるくらいに腹を満たしたところで、子猫は餌を探す旅に出る。とはいえ、満足に食べることもできない子猫が動ける範囲なんてたかがしれている。まずは木箱から出て、通りをふらふらと、びくびくしながら歩く。
……そこは、どうして今まで気付かなかったのか不思議になるほど、おいしそうな匂いであふれる通り。その匂いにつられるように、建物の中に入る子猫。だけどすぐに人間に見つかって、建物の外につまみ出される。
それを何度も繰り返して、やがて建物から漂ってくる匂いを諦めて。そうして歩き続けて路地裏へと入り、ぐるっと回って元の木箱へと戻ってきたところで、子猫はもう一度鼻をきかせる。
そうして、つまみ出された表通りの建物とは別に、路地裏からもかすかに食べ物の匂いが漂ってくるのに気づいた子猫は、路地裏へと戻り、やがて一つのごみ箱へとたどり着く。
背丈の何倍もあるゴミ箱の上によじ登って、ふたの隙間からごみ箱の中を覗き込む。そこには、人間が食べ残したであろう大量の食べ物の山。その中から自分が食べられそうな物を嗅ぎ分けて、必死になってゴミ箱からひろい上げる子猫。よりわけた食べ物を無心になって、満腹になるまで食べた子猫は、再び路地裏と表通りを一周してから、木箱に戻る。
――そろそろ消えかけてきた「ひろってください」「えさをあげてください」という文字と、雨風に汚れた麻布が敷かれたおんぼろな木箱も、子猫にとっては、唯一安心して眠れる「家」だった。
箱の中で身体を丸めて眠り、目が覚めると路地裏で餌を探す。鳴き声を上げると人間に追われ、時にゴミ箱の蓋が閉じられることを学んだ子猫は、やがて「みゃあ」と鳴くことをやめる。そうして子猫は、おんぼろ木箱の家で眠り、路地裏で腹を満たす、そんな毎日を過ごすようになる。
……そのおんぼろ木箱も、いつの間にか取り払われて。自分の家がどこかに消えたと知った子猫は、悲しそうに、何度も、気が済むまで「みゃあ」と鳴いて。
そうして、自分の家を失った子猫は、路地裏の物陰で雨風をしのぐことを覚える。幸いだろうか、子猫が捨てられた場所は駅にほど近い飲食店街で、ゴミ箱の中には食べ切れないほどに豊富に餌がある。この場所で子猫は、野良猫を捕まえて処分しようとする街の人間や豊かな餌を狙う野良猫同士のなわばり争いにも勝ち抜いて、たくましく生き抜いていく。
――そんなある日。かつて子猫だった黒猫は、ある一人の人間と目を合わせる。
他の人間と同じような格好をしながら、どこか違う空気を漂わせた二人の人間。その内の一人、やや年配の、年を感じさせない強かさを漂わせる女性は、路地裏からこちらを覗き込む黒猫に視線を合わせたまま、もうひとりの、傍らの男に声をかける。
「おや、こいつはアレだ、猫とかいう生き物じゃないか?」
その声に、無言で首をかしげる若い男性。その、猫を知らない者同士の会話ということを理解したのか、黒猫は、興味を惹かれたように二人に視線を送り続ける。
――それが、後にミーニャと名付けられることになる黒猫と、その飼主になるマムとの、出会いの場面だった。
◇
黒猫が常日頃から見ていた、表通りを歩く人間とはどこか違う匂いのする、不思議な人間たち。その違いがなんなのか自分でもいまいちわからなかったのだろう、ほんの少し首をかしげる黒猫。
……が、それも一瞬。視線の先にいる女性がこちらに好意的な興味を示しているのを感じ取ると、ほんの僅かな時間でも人間から餌をもらった記憶があるからだろうか、警戒しつつ、何かを期待するようにひと鳴きをする黒猫。
「みゃ〜あ」
久しぶりにあげる、子猫の頃から変わらない、どこか可愛らしい鳴き声。その声に何かを感じたのか、好奇の目を向けていた女性はニヤリと笑って、傍らの男に何かを話しかける。そうして、彼が持っていた荷物をまさぐり、香ばしく焼かれた白身の肉を取り出すと、そっと地面に置く。
と、一瞬の内に距離を詰める黒猫。
女性の足元、置かれた食べ物へと飛びかかる。
そのまま器用に肉をくわえて反転。
次の一飛びで、元いた路地裏へと戻る。
そうして、一瞬の内に餌を安全な自分のなわばりに運んできた黒猫は、焼かれて間もないであろう、まだ熱の残る肉をはふはふと食べ始める。
「素早いもんだねぇ」
その素早い身のこなしに驚く暇すらなかったのか、やや遅れて、感心したような声を上げる女性。少しの間、無心に肉を食べる猫を興味深そうに眺めたあと、その興味も薄れたのだろう、男と共に立ち去った。
◇
次の日、黒猫がその女性と再び出会ったのは偶然だった。再び通りかかった女性を路地裏で見かけた黒猫は、「みゃあ」と鳴きながら、今度は最初から女性の足元へ、警戒しながら近づいていく。そのなれなれしさと臆病さが見え隠れする黒猫の様子を面白いと思ったのだろう、「まったく、お前は食い意地が張ってるね」なんて言いながら、昨日と同じように餌を与える女性。餌を地面に置いた途端、昨日と同じよう餌をかっさらって距離を置く黒猫に苦笑いを浮かべながらも、そこには特に思うところもなかったのだろう、昨日と同じように少しだけ眺めてから女性は立ち去る。
その女性からもらう餌がよっぽど気に入ったのか、次の日も、そのまた次の日も、黒猫は女性を見つけては餌をねだる。
――そんな日々を数回繰り返して。いつしか黒猫は決断する。この路地裏にいても、いつか人間に見つかるかもしれない。なわばり争いに勝てなくなるかもしれない。なにより、ここでありつける飯は、あの人間のくれる餌ほど美味くない。ならいっそ、あの人間たちについていってみようかと。
そうして、いつものように餌をもらった黒猫は、気付かれないよう、二人の後をつける。そうして駅の前で止まっていた馬車に乗り込む二人を見て、同じ馬車の、客室の後ろの荷台へと飛び乗る。
やがて動き出す馬車に揺られながら。黒猫は、自分がこれまで生きてきた路地裏へと続く道へと視線を送る。鳴き声ひとつたてないまま、視界から消えるまで、その道を見続ける黒猫。しばらくしてその道も見えなくなって、そっと身体を小さく丸めて目を閉じる。
そうして黒猫は、生まれ育った路地裏を離れて、その終着点も知らないままに、新しい土地へと旅立った。
◇
やがて馬車も止まり。着いた先で馬車から降りた二人の足元に音も無く近づく黒猫。まるで自分はここにいると主張するかのように、二人に向かって「みゃあ」と鳴く。その声に女性は立ち止まり、振り返って、あたり前のようにそこにいる黒猫をまじまじと見る。
――その時、女性――マム――が見せた表情は、なかなか見られるものではないと黒猫が知るのはしばらく後、彼女に飼われて、さらに時が経った後のことだった。
◇
「お前はミーニャだよ。餌がほしけりゃ、自分の名前くらいは覚えるんだね」
そんな一声と共に、黒猫ミーニャの「飼い猫」としての生活は始まる。マムを名乗る人間の元にはすでに先客の猫が二匹。静かでのんびりとした白猫のスーニャと、物怖じせずに人間に近づいていく、まだら模様をした元気いっぱいの子猫リーニャ。
そんな二匹に新しく加わることになった黒猫ミーニャ。おとなしいスーニャには目もくれず、かまってほしいとやたらと近づいてくる子猫リーニャには辟易とした様子を見せながらも律儀に相手をして。やがて、部屋の中で一番見晴らしのいい、質素だけども実用的な棚の上に飛び乗って、ここは自分の縄張りとばかりに陣取っては、その二匹の餌まで虎視眈々と狙う素振りをみせる。
とはいえ、そこは飼い猫としての経験の差か、難なく自分の餌を確保する二匹。むしろ、降りてきたタイミングで飛びかかるように遊びをねだる子猫リーニャの相手をしている隙に、スーニャに餌を奪われそうになる始末。
そうやって、二匹の先輩猫に、野良猫としてのたくましさも身軽さも通用しないままに振り回されながら、なんだかんだで、ミーニャを加えた三匹は、そこそこ仲良く時を過ごす。
……そんなある日、つきまとってしっぽにとびかかってくる子猫リーニャに辟易していたのだろう、逃げ出すように部屋を出た黒猫ミーニャは、神父とマムたちが話をしているところに通りかかる。
◇
「ソいえば。ヘンキョウ、ネコ、居ないデスか?」
「もしかしたらどこかで飼われているのかもしれないけどね。でも、普段はまず見かけないね」
「……ちゃんと飼エル、デスよね?」
「家から出なければ問題ないさ。なにせあっちは、一晩中薪ストーブを燃やすからね。下手すればここよりも快適かもしれないくらいだよ。……っと、何だい? 餌の時間はもう少し先だよ」
二人の話を音も無く聞いていた黒猫ミーニャに、話の途中で気がついて、戯れるように声をかけるマム。そんな彼女に「みゃあ」とひと鳴きして、それでも立ち去ろうとしないミーニャに、マムは軽く肩をすくめる。
「ミーニャも、きっとヘンキョウのこと、キにナル、オモイマス」
そんな一人と一匹の様子を見て、そんなことを言い出す神父。その言葉から「ミーニャが自分たちの話を立ち聞きしている」という意味を読み取ったマムは、悪戯っぽく笑いながら、神父に向かって軽口を叩く。
「こいつらに、言葉が通じるのかねぇ」
「サア、ドウなんでしょうネ。デモきっと、トレーダさんならこう言うとオモイマス。――『犬に言葉が通じるのだから、猫に言葉が通じてもおかしくない』と」
マムの言葉に、同じように軽い口調で返す神父。――辺境から帝国の「壁」まで、犬ぞりを使って物を運ぶ交易屋は、犬を仕事の相棒として、また家族として、とても大切に扱う。そのことを知っているのであろう神父の言葉に、マムは軽く笑う。
「さぁてね。犬が人の話を理解するなんてことは聞いたことがないけどね、あたしは」
もちろん、犬は人間の命令――お手、伏せ、待てのような簡単な命令――を聞き分けて行動することはできるさ。けどね、それは「言葉がわかる」とは少し違うんじゃないかねと言うマムに、さてそれはドウなのでしょうかと神父が返す。
……と、そんな二人の会話に興味を失ったのか、静かに部屋へと戻ろうとするミーニャ。少し遅れてそのことに気付く二人。
「……っと、どっかに行ったみたいだね」
「キット、イヌの話、嫌ったオモイマス」
いつのまにかいなくなった黒猫ミーニャに、そんなことを言い合う二人。その声を遠く、部屋に戻る途中の廊下で聞いたミーニャは、一瞬だけ立ち止まって振り返ってから、再び部屋の扉を開ける。……子猫のリーニャに見つからないよう、静かに、そっと。
そんな風に、教会の日々も、黒猫ミーニャは平穏無事に過ごす。
――ちょうどその頃、遠く離れたグロウ・ゴラッドの地では、バニラアイスなるデザートをデュチリ・ダチャの娼婦たちが口にしていたのだが。そんなことは、教会に滞在する人間や猫たちは、知る由もなかった。




