3.ミラナの日常(3)
まだあのカウンターメイドの子はいるかしら、そんなことを考えながらラウンジに出たところで、ロビーの方から話し声が耳に届く。こんな時間に誰? 客じゃないわよねとロビーの方を窺い、その後ろ姿と声に、自分の見知った相手だと気付く。――ああ、また面倒なのがいる、そう思ったところで、そいつも気配を感じたのだろう、声をかけてくる。
「おー、ミラナー」
なれなれしい態度でこちらに手を振る男をちらりと一瞥。そのまま無視して、カウンターの方に足を向ける。そんな私を見て、「ちょっと待てよ」なんて言いながら、そいつ――ドミートリ――は、私の方に駆け寄ってくる。
ドミートリ。「組織」の構成員の一人で、デュチリ・ダチャと組織との繋ぎをしている男。私にとっては数少ない、子供の頃から付き合いのある奴でもある。……数少ないからと言って大切ではない。昔なじみで、組織の使いっ走りだから無視もできない、ただそれだけ。
そんな「そいつ」に、軽く棘を刺すように声をかける。
「こんな時間に来ても『おいしく』ないでしょうに。もっといい時間に来たら?」
「と、そんなことを言いつつ、なんかあると『商売女なんかに囲まれて嬉しい?』とか言うんだろ? 相変わらずキッツいなぁ」
私の言葉に、間を置かずにこちらの意図を読んだような返事。少し大げさに肩をすくめる様子に、からかい損ねたかと、心の中で軽く舌打ちをする。ああ、隠しきれない「してやったり」顔がまあ、ほんとうに憎たらしい。そんな私に、「まあ、軽口はこんくらいで」なんて言いつつ、多分本題であろうことを聞いてくる。
「マム、今、居るか?」
「さあ」
ドミートリの質問に、軽くフロントの方に視線を向けながら、そっけなく答える。その態度を「フロントで聞いた方が早いんじゃないの」と受け取ったのだろう、なぜか「サンキュー」という言葉を残して、ドミートリはもう一度、駆けるようにフロントの方へと戻っていく。
ああ、無駄に元気ねと、そんなことを思いながら、踵を返す。目の前には、ずっと無人のままのカウンターと、その上に置かれたコールベル。――あのカウンターメイドの娘が出てくるといいな。そんなことを思いながら、誰もいないカウンターへと歩き始める。
◇
このグロウ・ゴラッドという街は、「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」という、ちょっと若々しすぎる感性に溢れた名前の暴力組織に支配されている。といっても、今は一般の人に理不尽に暴力を振るうことはまずない、らしいけど。……彼らの「掟」さえ守っていれば。
昔はもう少し色々とあったんだけどねとはマムの談。何十年も前にここを統治していた国家は、王家ごと帝国に滅ぼされて。そうして無法地帯となったこの地で、まずはチンピラ達が幅をきかせて、やがてそのチンピラ達が集まって暴力組織ができて、同じようにできた暴力組織と抗争を始めて。……で、力の無い組織はあっさり潰れて、力のある組織が生き残った。この街を支配している「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」もその中の一つと、そんな話。
もっとも、彼らがこの街を支配していると言うよりは、彼らのシマが自然と一つの街になったと言った方が正しいらしい。逆に言えば、そうなるだけの時間、彼らはこの街を支配している。少なくとも私が物心ついたときにはもう、この街には「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」以外の組織は存在していない。
で、敵のいなくなった「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」は、人様のシマを奪うのではなく自分たちのシマのアガリで食っていけるように、その形を変えていく。
場所代は広く安く、穏便に。
街から麻薬を排除して。
代わりに酒や嗜好品の販売を独占して安定したアガリを求め。
掟を破った者は例え組織の構成員でも等しく処断する。
そうして、組織がさらなるアガリを求めて酒の製造を始めとした「専売品の生産」を始めた頃には、住民も彼らを統治者として受け入れ始める。
……そして、恥ずかしいほどに若々しい「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」という名前も今は廃れ、この街で「組織」と言えば「不逆群狼――ニエト・オブラトミィ・スタヤ・ボルク――」を指すようになっていた。
で、この娼館デュチリ・ダチャは元々、その「組織」に敵対して滅ぼされた別の暴力組織の資金源の一つで、マムも元はその敵対していた組織の幹部。ただ、あまり良い扱いはうけていなかったみたいで、その組織が没落していくにつれて娼婦も金も私物のように扱われるようになり、最後は暴力で蹂躙される寸前にまで行ったみたい。
――元の組織の寝首をかいて幹部のほとんどを今の組織に引き渡さなければ、デュチリ・ダチャは元の組織と共に消えていただろうと、酒を片手に笑いながら話していたマムの表情は、今でも忘れない。
そうして、娼館デュチリ・ダチャは今の組織の下につくことになって。この若々しい名前の組織は、「自分たちに娼館の経営はできない」と判断して、マムにデュチリ・ダチャを与えて運営させて、今に至る。
◇
そんな訳で、このデュチリ・ダチャには、普通の娼館とは別の「組織の娼館」とでも言うべき顔がある。
他の娼館との違いは、組織から幼い娘を買い取ることができること、組織から依頼を受けることがあること、あとは「組織が後ろにいる」という睨みが利くこと、その位だろうか。
例えば、この街に住む誰かが組織の掟に触れたとする。そうね、私の親のように掟に背いて麻薬に手を出したりすると、普通は家族全員、組織に始末される。だけど、もしその中に換金できそうな人間がいれば、組織はその人間を金に換える。私のような専属娼婦は皆、そうやってこの娼館に買われた人間だ。
同時に、組織はこの娼館に客を連れてきたりすることもある。その場合は金は組織が払うことになる。組織の人間が客になる場合もあれば、組織が誰かを「接客」するために金を出す場合もある。
で、そういった仕事は、主に専属娼婦の仕事。客に誰をあてがうのかはマムの一存。ただ、マムは相手がのめりこみそうな娘や弱みを握れそうな娘を選んで相手にあてがう傾向がある。……あの「嗅覚」は正直、誰も真似できないと思う。
――つまりマムは、組織から良い娘を買って育てて弱みを握って金を巻き上げるという、とてもいい商売をしているということになる。
まあ、組織もそんなことは百も承知。それでも利用し続けているのは利用価値があるから。そしてマムも、決してやりすぎることはないし、その「誰かの弱み」を組織のために使ったりもする。その辺り、マムは本当に敏腕だと思う。
◇
で、このドミートリという男は組織の人間で、主な仕事はデュチリ・ダチャとの連絡役。今回も、組織から何か仕事を持ってここに来たのだろう。もしその仕事が私に振られるようなら、後でマムから声がかかることになると思う。
……今回は私かな、他の娘たちは忙しそうだし。今日の談話室の様子を思い出しながら、そんなことを考える。
◇
カウンターで昼食を受け取る。残念なことに、カウンターに立っていたのは「あの子」とは違うカウンターメイドの子。その子に渡されたありきたりな具入りパンを、人気のないラウンジで静かに食べる。で、談話室に戻って、本の続きを読み始める。
……そうして、本に再び没入し始めたところで。再び談話室に入ってきたマムに声をかけられる。
「ちょっといいかい?」
マムの言葉に、予想が当たったかなと思いつつ、顔を上げる。きっとあいつが持ってきた仕事だろう。さて今回はどんな仕事かなと、そんなことを思いながら、マムの言葉を待つ。
「この前相手をしてもらった若い交易屋の子、覚えてる? あの子が今朝がた、帝国から戻ってきたみたいでね」
マムの話を聞いて思う。あら、これ、元々私の案件じゃない。――あいつめ、あいかわらずいい加減っぽいのに、これっぽっちも顔に出さなかったわね。まったく小憎たらしい、と。