7.精霊信仰・精霊搾取(2)
「そんなにも簡単に、壁の内側に行けるのですか?」
プリィの言葉が耳に入る。その言葉で、我に返る。頭の中の空白を振り払う。……エフィムの「壁の内側に足を運ぶ」という言葉。その言葉の意味を、再び動き出した頭で考える。
もちろん、その言葉の意味は明白。それでも固まってしまったのは、街の人間にとって「壁の内側」は、あまりに遠い場所だから。
彼がそう言う以上、壁の内側に行くことは、そこまで難しくないのだろう。つい先日、駅の中にだって入ったし、列車を使って商品をやり取りするのも見た。……それでも、自分が「壁の内側」に行くことができるというのは、にわかには信じ難いことだった。
それは、交易屋と呼ばれる人たちがいかに苦労して壁を越えているのか、街の住人であれば誰しもが知っているからだろう。いつ帰ってこなくなってもおかしくない、そのかわり上手くすれば一度の往復で巨額の富を手に入れることのできる、交易屋というのは、そんな生命を賭けた、博打のような職業なのだ。
そんな命がけだった交易を安全に行うことができる。エフィムの価値はそこにあるのはわかる。でも、常識が邪魔をする。……でも、いくらなんでも簡単すぎじゃないかしら?、と。
そんな私たちに、エフィムが答える。
「まあ、数人程度ならね。任務のために僕が雇ったことにすれば問題ない。教会に行くだけなら、書類を一枚提出すれば、許可はおりる」
色々と条件は付くけどねと、肩をすくめながら答えるエフィム。さすがに、そう簡単に帝国臣民にはなれない。帝都には入れないし、任務の一環として、事前に申請した場所への立ち入りが許される程度しか許されないし、常に誰かと同行してもらわないといけない。自由に動くというにはほど遠いんだけどねと、そう説明をする。
……それでも、ここの人たちと一緒に行動するだけで壁の内側に行けるのなら破格の条件だろう。そう思ったところで、エフィムがことさらに軽い口調で冗談を言う。
「まあ、実際、ミラナには毎月、お金を渡していくことになるしね。任務のために雇ったというのも、あながち間違いじゃないさ」
「そうね。確かに、分割払いも給料も似たようなものね」
エフィムの冗談に、真面目な顔をして返す。確かにお金の流れだけを見ると、大して変わらないだろう。私は意地でも取り立てるつもりだし、彼もきっと、意地でも払うつもりでいる。でも、そんなことは外から見えないのだから。
そんな他愛のない話で、ようやく、壁の内側に行くかもしれないという事実を飲み込んだところで。今日これから行う、駅にある通信機を使って神父様と会話する、その話に戻って……
「と、いう訳で。今日は荷物もないし、駅まで、馬車を使わずに行きたいと思うけど、どうかな?」
その第一声で、再びエフィムが、少し唐突なことを言い始めた。
◇
馬車を一回出せば、どうしても多くの人が動くからね。簡単な用事くらいなら、馬車よりも馬で行った方が経済的なんだと、そう私に説明をするエフィム。そんな彼の言葉に、少し戸惑いながら、答える。
「私、馬に乗ったことは無いけど」
「大丈夫。僕が乗せていくから」
私の言葉を予想していたのだろう。なんてことはない表情で答えるエフィム。そうね、別に私も馬に乗るのが嫌だと言うつもりもないし、「ならいいわ」と彼に頷く。……そこで、彼の部下のうちの幾人かが、少し表情をこわばらせたことに気付く。
「申し訳ありませんが。それでは警備に支障をきたします。他の方法を考えていただけないでしょうか?」
その兵士たちの内の一人が、おずおずとそう申し出る。……その申し訳なさそうな態度に、私に対する悪意のようなものは感じない。でも、うっすらとだけど、「私が」エフィムと同じ馬に乗ることに対して警戒している、そんな気配を感じる。
「別に私は、誰でもいいのだけど」
そう口にしてみると、彼らの間に、今度は拒絶というよりは戸惑っているような気配。ざわざわと、少し困ったように、小声で相談を始める兵士たち。さっきまでの規律が嘘のよう。
……どうも今度は、エフィムに気を使っている、そんな感じ。そもそも今はあまり仕事も無いし、馬車を出せばいいんじゃないかと、そんな声も聞こえてくる。
そんな様子を黙って見守るエフィム。まあ、今回はしょうがないかなと、そんな態度を彼が見せ始めたところで、プリィが少しためらいがちに手を上げる。
「……一応、わたしも馬、乗れますけど」
プリィのその一言に、エフィムや兵士たち、あと話に参加しなかったスヴェトラーナまでもが、一斉にプリィを見る。プリィが馬に乗れることが意外だったのだろう、「どうしてこの子が?」というような空気を出す。……そうね、私もそこは意外だった。
結局そのまま、プリィに乗せてもらうように話が進む。その結果に、どこかホッとした表情を浮かべる兵士たち。その様子を見ながら、ふと思う。
――ああ、私とエフィム、そんな感じで見られていたのね、と。
◇
そうして、エフィム、私とプリィ、あと護衛にリジィを連れて、馬で駅に行くことが決まる。この服装では乗馬は無理と、一度部屋に戻って着替える。……といっても、乗馬に適した服なんて、作業着くらいしかないのだけど。
そうして着替えてきた私たちをみて、スヴェトラーナが軽くため息をつく。
「軍服と乗馬服を二人分、急いで仕立てましょう。準備しておきますので、戻ったら採寸をお願いしますわ」
そんな、ちょっとしたドタバタを経て。それでも午前十時、昼前の鐘が鳴る少し前には、飛び領地邸を出発していた。
◇
「皆、ミラナ様を悪く思っている訳じゃないんですよ」
駅までの道すがら、朝のことを少し気にしていたのだろう、リジィが話し始める。別に私に対して何か思うところがある訳じゃない。だけど、私が飛び領地邸に来て、まだ来て一日。エフィムの部下たちと、まともに話をしたこともない。
あの方は気さくな方で、誰とでも距離を縮めやすい性格をしている。だから、たまに距離感を間違えるのではないかと、そんな心配されていると。
「ミラナ様がどうとか思っている訳じゃないんです。ただ、エフィム様はああいう人ですし、結局、ミラナ様の立ち位置をつかめてないんですよ。だからちょっと警戒してしまったと、そんな話だと思います」
そのリジィの言葉に、少し彼らしくない、歯切れの悪いところを感じて。……そうね、多分私が元娼婦で、エフィムが私を買った、そういうところが引っ掛かっているのだろう、そう直感する。
そうね。確かにエフィムは分かりやすいようでわかりにくい。明け透けにして隠す、そんな感じがする。――隣で「ああいう人ってどういう人かなぁ」なんて笑いながら手綱を引くエフィムを見て、そう思う。
そんな彼の様子に、そろそろ話を変えないといけないと感じたのだろう。少し露骨に、話をそらそうと、リジィがプリィに話しかける。
「そんなことより。プリラヴォーニャさん、どうして馬に乗れるんです?」
そのリジィの質問に、明るい声で答えるプリィ。
「こう見えて、わたし、元は組織の幹部の一人娘ですから」
きっと胸を張って答えているであろうプリィ。その言葉にふと思う。……多分これも、彼女のことを知らない人には、結構藪蛇な話じゃないかしら、と。
その予想を裏付けるように、プリィは、いかにも彼女らしい明るい口調で、少し特徴的な冗談を話し始める。
「色々あって、今ここにいますけど。なんにもなかったら、いつか他の幹部の人にもらわれて、その人の部下たちにこんなことを言うはずだったんですよ。……貴方、主人の下にいるだけなのにのうのうと無駄飯食べて、偉そうにする前に役に立ってほしいわ、――バァン!って」
少し大きな声で、銃を撃つふりをして。「これで一人分食費が減ったわ、役に立ってくれてありがとう」なんて似合わないですよねと、明るく笑う。そんな彼女の冗談に、多分、とっさに言葉が出なくなったリジィ。そんな彼のかわりに、エフィムが軽口をたたく。
「それはまた、物騒な政略結婚だね」
その一言に多分笑ってから、プリィは、少し真面目な口調で話し始める。
「組織の中で生きていくために必要なことは、一通り教わっています。だから、馬を走らせることもできますし、銃も扱えます。父様が、組織の中でなめられずに生きていきたいのなら必要だって。わたしも、それはその通りだと思います。――でも、私を世話してくれたお手伝いの人は、私は女の子なんだからって、料理とか裁縫とか、いろんなことを教えてくれました。私は、こっちの方が好きです」
お金を出してくれた父様、母様には悪いと思いますけど。でも、そういう普通の女の子らしいことを教えてもらって良かったって今でも思います、そう言って話を終えるプリィ。
私の後ろで、既に心の整理をつけて、きっと当たり前のことのように話しているであろう彼女。その話を聞いて、しみじみと思う。……ああ、やっぱりこれは、マムが選ぶ娘だ、と。
「凄いね、僕よりもいろんなことができそうだ」
「そうね、私よりもいろんなことができそうね」
きっと彼女の話に感じるところがあったのだろう、感心するようなエフィムの言葉。その言葉に私も同意する。そんな私たちの態度がむずがゆかったのか、慌てて言葉をつなぐ。
「でも私、あんまり本は読んでませんから。……デュチリ・ダチャ、結構大きな書庫があって、色んな本が所狭しと置いてあるんですよ。専属の人は好きなだけ読んでいいって。だからみんな頭が良くて。そこは本当にすごいと思います」
そうして、今度は私に話題が飛んできて。その話題を適当にいなしながら、プリィの操る馬に揺られていた。
◇
そうして、駅に到着して。エフィムが、以前と同じように、持っていた鍵でコネクタを開けて。背負って来た通信機をそのコネクタに接続する。そうして、駅に常駐する兵士たちと軽く話しをして扉を開けてもらって、駅の中に入る。
「駅の兵士たちは、僕たちとは別の部隊だから。まあ、僕たちに協力的な部隊ではあるんだけど。でも、無条件に信用していい訳じゃない。一応注意はしておいて」
そう私たちに注意をしてから、階段を上るエフィム。彼と同じように階段を上り、駅員室で中の兵士たちに敬礼をして、その奥の通信室へと移動する。
壁際に備え付けられた機械。エフィムが背負ってきたのとどこか似た雰囲気のある、それよりも大型の通信機。その機械を、慣れた手つきで操作してから、黒い筒のようなものを耳に当てるエフィム。その耳に当てた筒から漏れ聞こえる、プッ、プッ、プッ、という規則正しい音。やがてその音も止み、人の声が漏れ聞こえる。
「はい。こちら、帝国通信網・軍中央通信交換局です」
「こちら、帝国軍帝領政務部物資統制官エフィム・ストルイミン。黒農軍政区、中南湖水分管区、デュ・センティエスィプリ教会まで繋いでくれ」
「了解しました」
通信機にむかって会話をするエフィム。再び聞こえる、プッ、プッ、プッ、という音。先ほどよりも長くその音が鳴り続けたあと、再び音が止んで。再び、エフィムが耳に当てた筒状のものから、人の声が漏れ出す。
「オゥ、ミスタエィフィム! オハヨサン! デス!」
それは、先ほどよりも大きく、陽気で、妙にイントネーションが耳に残る、そんな声だった。