2.ミラナの日常(2)
談話室に戻って、手にした朝食をテーブルに置いて、席に座る。メインは黒パンを薄く切って卵と牛乳に浸してから焼き上げたであろう、しっとりとした黒パンのトースト。見た感じ、砂糖とかもまぶしてあって、結構甘い味付けに見える。で、その隣には布のように薄く焼かれたパン生地が重ねられ、添えるように置かれている。
なにかしら? 改めて見ると、少し不思議。見た目は普通のグレンキとブリヌイ。だけど、組み合わせが普通じゃない。これ、本当にこの街の料理かしら。……もしかして、グレンキをブリヌイで包んで食べる? そんなことを思ったところで、マムに声をかけられる。
「おや、珍しい。『まかない』かい?」
その言葉に、今まで目の前の料理から感じていた違和感が、ストンと胸におちる。……そう、そうね。まかないって確かにこんな感じ。少し新鮮な気持ちになる。そっか、私、まかないを出されたんだ。
そんなことを思いながら、正面の席に座るマムに声をかける。
「あんな子、いた?」
「あんな子?」
「カウンターメイドの子」
とまあ、聞いておいて何だけど、実のところ、答えは予想できている。あんなパタパタと走る娘はいたら記憶に残ってる。そんなことを思いつつ、マムの返事を待つ。
やがて、私の言う「カウンターメイドの子」に思い当たったのだろう。どこか納得したように答える。
「ああ、あの子はこの前買ったばかりでね。ああ見えて、まだ出せる歳じゃなくてね。今は色々と仕込んでいる途中」
「色々?」
「とりあえず立ち振る舞いとか、かねぇ」
マムの言葉に、あの子のその立ち振る舞いのちぐはぐさを思い出して、納得する。背筋を伸ばしたときの凛とした雰囲気に、その直後に見せた、どこか素朴な、パタパタと元気さを感じるような小走りみたいな歩き方。あのちぐはぐさが「仕込んだ」後も残るのなら、それはそれで魅力的だと思う。けどどうかしらと、ふとそんなことを思った後で、ちょっと先走りすぎたことに気付く。……「まだ出せない」ということは、とりあえず今は、「カウンターメイドとして」仕込んでいるだけのはずだから。
この「カウンターメイド」というのは、ここの特徴の一つにもなっている、異国の使用人風の制服を着た、主に雑用をこなす女性従業員たちの呼び名のこと。普通は雑用係のために制服を作ったりはしないんだけど、マムは「娼館なんだから使用人も女の子の方が何かと便利だし、一目でわかるようにしておいた方が良いじゃないか」なんて言って、全員に制服を支給してる。
便利だからというマムの言い分も嘘じゃないと思うけど、たぶん半分はマムの趣味。わざわざ外国の本に描かれていた服装を参考にして試行錯誤して作ったそうだし。……実は男性用の使用人服も色々と着せてみて、本当はそっちの方が気に入ってたみたいなんだけど、あまり作業には向いていない服だったみたいで泣く泣く諦めたという話もあるくらいだから。
まあ、そんな訳で、この娼館は雑用係にもちょっとした「教育」をする場所。でも、「まだ」出せる歳じゃないということはまあ、そういうことなんだろう。……そういうことなんだろうと思いつつ、先程のパタパタと駆けていく姿を思い出して、なんとなくマムに聞いてみる。
「専属娼婦にはいつ?」
「……さあ、いつだろうね。まあ、いずれはそうするだろうね」
言わずもがななことを聞いたことに気が付いて。でも、なんとなく気持ちが伝わったのだろう、マムは少しぼかしたような返事をする。その言葉に、多分マムと同じようなことを思う。
――やっぱりね、あの子は専属娼婦には向かないだろうし、そうなったあの娘は、ちょっと見たくないかな、と。
◇
そうして、お互いが少し無言になって。ちょうどいい切り上げ時だと思ったのだろう、マムが立ち上がる。……朝のこの時間は、娼館にとっては一日の締めくくり、色々と忙しい時間のはず。なのにこんな他愛のない話に付き合ったのは、きっと私の様子を確認するためだろう。……まあ、半分は仕事だろうけど。でも、少しだけその気遣いに感謝をして。
――さて、と少し気合を入れて、初めて見る軽食に視線を戻す。
薄く焼かれたブリヌイを手に取って。そっとグレンキを、上からかぶせるようにしてから挟み込む。そうして、ごく薄く焼かれた小麦粉の皮に挟まれた、軽く焦げ目のついたしっとりとした黒パンを手に持って、思い切りかじる。
食べ慣れたグレンキの柔らかい歯応え。砂糖と牛乳と卵の、予想していたとおりの甘い味。食べなれた味が口に広がり、甘い香りでいっぱいになる。
……なんてことはないはずの、いつもの味。それが新鮮に感じるのは、十分にしっとりとしたグレンキを手掴みで食べるという珍しさからだろうか。手にした残りのグレンキを平らげて、次のブリヌイに手を伸ばす。そのままグレンキを手にしてぱくり。うん、やっぱり普段よりもおいしく感じる。もともとまかないというのは手間無くおいしいという話もあったはずとそんな雑な知識を思いだす。この手間無くというのは作る手間と食べる手間の両方の意味があってさらに手早く食べてもおいしいということで単に味付けだけでなく雰囲気や時に教養すら味に寄与することがあるのだけどグレンキはそもそもどこにでもある家庭の味で、ああだから手掴みで乱暴に食べた方がおいしいのねと思いつつでも味もいい味だして……
◇
ありゃあ、好奇心で食べてるね。談話室から出ようとしたマムは、ちらりと視界の端に映ったミラナを見て、少し笑う。思えば、幼い頃からあの子は、大人しいように見えて実は好奇心旺盛で、なんでも知りたがる子だった。無言で「まかない」を食べるミラナの姿に、そんなことを思いだす。
もちろん、知識が武器になるからいろんなことを知ろうとし、身につけようもしたのだろう。だけど、きっとそれだけじゃあない。あの子は物を知るのが好きな性質で、だからこそ生き残るための武器として知識を選んだんだろうと、そんなことを考える。
――まあ、武器がある娘なら、どんな理由だって私には関係ない。上手く使って利益を上げるだけさと、そんなことを思いつつ。
さてと。それじゃあ、まずは朝の仕事を片付けるかねと、マムは談話室を後にした。
◇
皿の上に置かれていたグレンキとブリヌイを全て平らげて。ラウンジに行って、食器類を返してきて、うん、やっぱりあの娘は目に楽しいと、そんなことを思いながら談話室に戻ってくる。で、改めて時計を見て、部屋の中をぐるりと見て、他に誰もいないことを確認する。
……もしかして今日はみんな仕事かしら。未だ無人の談話室を見渡して、ふとそんなことを考える。
この談話室は、マムや一部の関係者が顔を出すことはあるけど、基本的には専属娼婦しか使わない。専属娼婦は私を含めて六人。で、私たちは、何もすることがないときは大抵、この部屋で時間を過ごす。……ただ、前の晩が「仕事」だと、朝一からこの部屋で過ごそうという気には、まあ、なれない。
だから、ここにいると、なんとなくだけど他の人たちの様子がわかったりもする。……まあ、朝に弱い人や気分屋の人もいるから絶対じゃないし、詮索もしないけど。そんなことを考えながら、鞄の中から読みかけの本を取り出して、栞のページを開く。文章を目で追って、最後に読んだところを見つけて、その先を追い始める。
――周りや時間が気にならなくなるまで、さほどの時間はかからなかった。
◇
そうして、いくつかの鐘が鳴るたびに時計を見ては、本に視線を落とす。やがて、鐘の音と共に見上げた時計の針が正午を指しているのを見て、そろそろ昼食かしらなんてことを考える。
そうね、いちいち外に出るのも面倒だし、ここの食事で良いかと、ラウンジの方へと足を運ぶ。――あのカウンターメイド、まだいるかしらと、そんなことを考えながら。




