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飛び領地邸の仮面夫婦  作者: 市境前12アール
第一章 娼館[デュチリ・ダチャ]
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1.ミラナの日常(1)

……目が覚めてしまったわね。


 いつものように、ベッドの上で、ダウンケットに包まれて。きっと自然に目が覚めたからだろう、いつもよりもすっきりとした目覚めに、もう一度眠る気にもなれずに上体を起こし、左右を見渡す。


 薄暗い部屋の中。馴染んだ広いベッド。壁ぎわに置かれた、ドレッサー(けしょうだい)を兼ねた小さなコンソールテーブル。そんなシンプルなベッドルームの他にはバスルームとささやかな大きさのクローゼットしかない、生活をするには手狭な「娼婦の部屋」。そういえば、最近はこの部屋に誰も招いていないなんて考えが浮かんで、少し笑う。


 自分は娼婦で、ここは娼館の中の部屋。この部屋に誰かを招く理由はひとつだけ。でも、今は外に、仕事用の「自分の部屋」がある。だから、今はこの部屋は、世界にたった一つの、自分のためだけにある私室。――だから、もうこの部屋を娼婦の部屋として利用することは無いはずなのに、ついそんなことを考えてしまう。自分の部屋を持って久しいのにまだ抜け切れていないわね、と。


……そんなことを考えているうちに、遠くで鳴りはじめた鐘の音に気付く。朝日の鐘かぁとベッドから降りてカーテンを開け、窓の外を眺める。


 日の出間際、少し明るくなり始めた、降り積もった雪におおわれた街の風景を見て思う。娼館の五階から見える、遥か遠くまで見渡すようなこの風景は、ここで朝を迎える人のもの。この風景を楽しむ客も、昔は何人かいた。でも今は私だけと、少し笑う。


 そうね、ちょっと早いし、シャワーを浴びてしっかりと目をさますのも良いわねと、過ぎ去った時間に想いを馳せていた自分を振り切るように、すぐそこにあるバスルームへと足を向けた。


  ◇


 物心ついた頃には娼館の中。姐さんたちを見て、学んで、ここまで生きていた。親の顔なんて知らないし実感もわかない。ただ、ケムリ(クスリ)に手を出した挙句に私だけがここに流されてきたと、そんな話を後で知った。「ああ、バカなんだ」それ以上の感想は持てなかった。


 私みたいな、生粋の娼館育ちは、最近はほとんど見ない。だからだろう、小さい頃、他の娼婦たちによく言われた。――外を知らないまま、ここで一生、客を取らされて生きていくなんて可哀想って。


 そんなことを私に話すのは決まって、娼館の外で生活しながら小銭を稼ぎにここに来る安い「通い娼婦」。娼館の中だけで生きている姐さんたちは、絶対にそんなことを言わなかった。だから、そんな通い娼婦たちの言葉を聞くたびに思ってた。なんとしても姐さんみたいにならなくてはいけないって。


 だって私は、娼館(ここ)の中で生きていくしかないから。可哀想なんて思われて、きっと自分でも可哀想だと思いながら生きていくなんて無理だから。


 だからいつも、誰かが見ているときもいないときも、姐さんのたちの真似をした。歩き方、話し方、驚き方に泣き方まで、すべて。

 そうして客を取る(16)になって。その頃にはすでに、高値で私を買う「好き者のお得意さま」も捕まえていて。――そうして五年。順調に稼いで、外に「私の部屋」も建てて。このまま行けば、あと十年もしないうちに自分を買い取れる、そんな目算が立つところまで来たところ。


 これまでの私はそうやって、自分を頼りに生きてきた。この先も自分を頼りに生きていく、そう心に決めていた。


  ◇


 この時間だとロビーはまだ忙しいかしら。シャワーを浴びてすっきりとした頭でそんなことを考えながら、少しゆったりとした服を着て、窓際のテーブルに向かって座る。


 たとえ娼館の外に出なくても、私室から出たら外と同じ。特にこの時間は、娼館で一夜を過ごした客もいる。その客を娼館の外まで見送る娼婦もいる。――自分の部屋を持たないような通い娼婦よりも見劣りするような姿を見られるなんて、沽券にかかわる。そんなことを思いながら、薄く、だけど丁寧に化粧をする。


 そうして、鏡の中の自分にまあこんなものねと満足をして立ち上がって、ふともう一度、窓の外を見る。


 ようやく太陽が地面から顔を出したのだろう、居並ぶ屋根の左側から暖かい光が差し込んで積もった雪を紅く染め、建物の右側へと長い影を伸ばす。


――見晴らしのいい、五階にまで階段を上った先の部屋。娼婦の部屋として使っていた頃は不便もあった。でも今は、街を見下ろすこの風景を独占できるのは、きっと特権。そんなことを思いながら、朝日に染まる遠くの時計塔とその時計塔から延びる影を、ほんの一時(いっとき)、見続けた。


  ◇


 外の風景を眺めてつかの間、テーブルの上の懐中時計と読みかけの本を鞄に入れて部屋を出て、廊下の先の階段を下りる。一階まで降りて、談話室の扉を開ける。


「おや、ミラナじゃないか。珍しい」

「おはようございます、マム」


 二組のテーブルに数個のソファが置かれた、少し広めの部屋の中には、この時間に降りてきたからだろう、少し意外そうに声をかけてきたマムが一人だけ。そんなマムの言葉に、私がこの時間に降りてくるのってそんなに珍しいかしらなんて思いつつ、朝の挨拶を返す。――マムの方こそ、こんな時間にここにいるのは珍しい気もするけどと、そんなことを思いながら。


 マム。一見するとどこにでもいる気のいいおばさん。けどその正体は、この娼館(デュチリ・ダチャ)を切り回す「やり手経営者」だったりする。時に娼婦の側に立ちながら時にその娼婦を利用して今の地位を築き、組織を相手に一歩も引かずに独立を保ち続ける、かなりタフな人でもある。


「今日はラウンジに客はいないよ。どうする? 何か持って来させようか?」

「いえ、自分で行くわ」


 私が特に用があって降りてきた訳じゃないと見て取ったのだろう、ここまで朝食を運ばせようかというマムの提案に軽く手を振りながら返事をして、ラウンジへと向かう。


  ◇


 マムの言うようにあまり人気(ひとけ)のないラウンジに出て。片隅にあるカウンターへと足を運ぶ。


 異国のホテルを参考にしたという、広い空間を贅沢に使った、憩いと待ち合わせの場。少し幅の広いソファと背の低いテーブルをゆったりと並べたこの場所は、基本的には娼館を利用する娼婦や客のための場所。客と一緒に食事をしたり、ほんの一時だけの待ち合わせに利用したりと、色んな人が便利に利用している場所でもある。

 そして、一見すると見通しのいい空間だけど、実はロビー(いりぐち)から見えないよう、またロビーをのぞき見できないよう、さまざまな工夫がなされている場所でもある。


……そんな、「ひと仕事終えた」娼婦や客がいてもおかしくないラウンジで。私以外に誰もいないことに軽くホッとしつつ、カウンターの内側の女性接客員、マムが言う「カウンターメイド」に声をかける。


「何か、手早くできる軽食をお願い」


 私の曖昧な注文に耳を傾けるカウンターメイドさん。異国の使用人をイメージしたという、黒を基調とした長丈のワンピースに白いエプロンを組み合わせた、落ち着いた感じの衣装を身にまとったその子は、どこか上品に一礼をして。すぐに、ちょっと慌てた感じで奥へと入っていく。――何か印象に残る子ね、あんな子いたかしら。そんなことを思っているうちに、多分黒パンを卵と牛乳に付け込んで焼き上げた料理を温かいお茶と一緒にトレイに載せて、パタパタと戻ってくる。


「ありがとう」


 そんな彼女の様子に、なんとなく微笑ましい気持ちになりながら、軽食を受け取って。このささやかで美味しそうな朝食をのんびりいただこうと、そう思いながら、談話室に向けて歩き出した。

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